・専務、それはダメです

 

 事務室をでて、応接室のドアを開けてふたり一緒に入ろうとしたのだが、眞子はそこで立ち止まる。

「あ、その前に。これから集中するために、コーヒーを買ってきますね」

 専務がスーツの袖をめくって、銀の腕時計をふと確かめた。

「企画書の清書をする時間がなくなったな。もう今日はいいよ」

「どうしてですか。明日、提出する約束を社長としているのですよね」

「俺から親父に言っておく。今日はあれだけの売り上げを打ち出したから、許してくれるだろう」

 そうかな。眞子は納得できない。一日でも早く企画を見てもらって次のアクションに移りたい。それに、ここで眞子は違うと感じた。

「専務。生意気なことを言うかもしれませんが……。もし私がこの仕事を受けていて、明日が提出日と約束していたら、カンナ副社長に『時間がなくなったので、明後日にしてください』なんて怖くて言えないです。許してくれないと思います」

 そこで初めて、専務がハッとした顔になり、青ざめた気がした。

「……つまり、俺は、親父と息子という関係に甘んじていると……?」

 もの凄い怒った目になったので、眞子はおもわず後ずさりたくなった。

「いいえ……、専務と社長の感覚もありますでしょう。私はそこに口を挟む権利はありません。ただ……、私なら許されないことだろうから、私は今日中に仕上げるつもりだったのです。そうさせていただけませんか」

 あの険しい眼差しで眞子をじっと上から見下ろしている。専務が真顔になると、急に迫力ある男になる。眞子はぎゅっと目をつむった。

「眞子さん。もしかして……俺……」

 急に彼の声が震えたような気がして、眞子はそっと目を開けて専務を見上げた。

「俺、確かにいままで親父と約束した日を何度か破って遅れて提出したことがある。もしかして、親父、そういうことも言いたかったのかな」

「え、専務。ほんとうに提出日をそんなに破っていたのですか??」

 『うん』と素直に頷いたので、眞子はがっくり力が抜けそうになった。

「お父様の篠宮社長は、キッチリされている方だから期日とか厳しいと思いますよ」

「……だよな。でも、一日延ばしてくれと頼んだら、いつも『いいよ』と言ってくれていたんで……」

「それ、私だったら『いいよ』なんて言葉で許してくれるだなんて思いませんよ」

「わかった。今日きちんとやって、明日、約束を守ろう」

 『ああ、俺、バカだった』と、専務が目を覆ってうつむいた。

「他の仕事もしているから、こんな在庫整理は後回し。親父もわかっているだろう。だからと思って……。でもそうだな。眞子さんが言うとおり、息子として甘えていたな。これが他の社員だったら眞子さんのいうとおりに恐ろしくて言えもしないだろうな」

「ここで社長の心証を悪くしても不利なだけです。このシークレットバーゲン、認めてもらうためにも心証が悪くなるようなちょっとのことでもなくすようにして完璧にしましょう」

「わかった。ん、じゃあ……。コーヒー、頼もうかな」

「はい。専務はいつものカフェラテですね!」

 やっといつものラブリーな『うん!』というおぼっちゃん笑顔を見せてくれた。

 その日、眞子と専務は遅くまで企画書を完璧にしようと、何度も見直して仕上げた。



 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 吐く息が真っ白になってしまった北国の朝。今日は朝から眞子の心はそわそわ。

 長机を綺麗に拭いているのだけれど、すでに自分の席に座っている専務も、昨夜しあがった企画書を握りしめて固まったまま。

 今日はまた、青いシャツに着古した紺のニットベストにベージュの綿パンに、いつものレンズが分厚いおじいちゃん眼鏡のぼさっとした専務に戻ってしまった。

 でも。横顔が険しい。仕事で真剣勝負に挑む時の男の顔になっている。

「専務、大丈夫ですよ」

「うん。今度こそ、大丈夫」

 約束の時間は、朝会が終わってすぐ。社長室を訪ねることになっている。

「眞子さんも一緒に来て欲しいんだ」

「いえ、私は遠慮いたします。このお仕事の責任者は専務ですし、シークレットバーゲンのスケジュール調整や、池田店長に協力して頂く交渉もすべて専務がされたのですよ」

「でも、眞子さんがいなければここまでにはならなかった。アシストも完璧だった。眞子さんも一緒にした仕事として親父に見てもらいたいんだ」

 できれば父親と息子の一対一での結果を出して欲しかったが、そこまでおっしゃってくださるのなら――と眞子は了承した。

 専務担当の朝会が終わり、眞子と専務は顔を見合わせ頷きあい、社長室の前に一緒に並んだ。

「慎之介です」

 専務がドアをノックする。

『はい、いいよ』

 渋めの低い声が聞こえた。

 専務が緊張した面持ちでドアを開ける。その後ろに控え、眞子も遅れて一礼をし『失礼いたします』と一緒に入室をした。さらにふたり揃って、社長の大きな机の前に並ぶ。

「おはようございます、社長」

「おはよう、専務。そして、本田さん。できたのだね」

 余計な会話はナシ。社長は息子が持っている書類束をすぐに見せなさいとばかりに、手を出していた。

「こちらでございます」

 専務もそのまま差し出した。

 社長が受け取り、すぐに企画書を広げた。

「うん、ほう……」

 企画のタイトル、そしてコンセプトを眺める社長の目の輝きが変わった気がした。


 篠宮社長はいつもきちんとスーツを着て、渋めでクール。伝統的な厳格さを着こなしているような男性。

 その研ぎ澄まされたような空気をまとって、静かに静かにページをめくっている。


「今回は約束の日を守ったのだな」

 ページをめくりながらも、社長がぽつりと呟いたひとことに、専務がどっきりとした表情になっているのを眞子は見る。

 やっぱり……。社長は息子の専務に『社員同様にして、甘えるな』と思っていたのかもしれない。いままでの企画が企画としてよかったかどうかはともかく、そういう姿勢も突き放されていた要因だったような気もしてしまった。

 社長が最後まで確認し、ついに企画書が閉じられる。

「本田さんもここまで手伝ったということなのだね」

 微笑みもしない社長の視線に眞子はただ緊張して凍り付く。なんとか一礼だけできた。

「本田さんのおかげで、在庫のすべてを把握することができました。シークレットバーゲンを思いついたのも、本田さんがお客様を倉庫に直接お呼びしてお好きな商品を選べたらいいのに――と言い出したからです」

 専務が眞子の働きも大きかったと社長に報告してくれ、さらに自分だけの手柄にならないよう正直に発案のきっかけも伝えてくれている。

「二人で力を合わせ――ということなのだな」

「はい。自分一人では決してできなかったことだったと痛感しております」

「ほう」

 神妙にいままでのことを告げる専務を、父親の篠宮社長は初めてニヤッと微笑み、デスクから息子を見上げている。

「いいだろう。企画どおりに進めてもらおうか」

 え! 専務の表情が驚きで固まった。信じられない――という眼差しで父親を凝視している。

「専務! よかったですね!」

 固まっている専務に声をかけたけれど、専務はまだ茫然としていた。

「スケジュールを私にも持ってくるように。スケジュールをひとつこなしたら、私に逐一、報告をすること。いいね」

 それでもまだ固まっていたので、篠宮社長がさらに笑った。

「あはは。慎之介、おまえがそんなに驚くだなんてなあ」

「父さん、……いえ、社長。まさか、一発で通るだなんて……」

「いままではありきたりな上に、計画進行もずさん。ここまで細かく、すぐに実行できるように練り上げてきたのも初めてだな」

 専務が項垂れた。それまでどうして父親にすぐに却下されてきたのか。噛みしめているようだった。今回はそれをすべてカバーすることができたのだろう。

「なかなか面白い試みだ。顧客がどのような反応をするのか一度見てみたいものだね」

 いつも硬い顔をしてほとんど笑わない社長が笑顔を見せると、すごくダンディ。眞子と専務はやっと顔を見合わせ、ほっと一息微笑みあった。

「では、これで進めさせて頂きます」

 社長に丁寧にお辞儀をする専務を見て、眞子も一緒にお辞儀をした。

 喜びをそっと抑え、ふたり一緒に社長室を出た。

 出ると目の前は、カンナ副社長のデスク。彼女も気にしていたのか、甥っ子と目があったよう。

「今度はどうだったの、慎之介」

 今日はマスタード色の上質なアンサンブルに綺麗なスカーフを合わせているカンナ副社長。その問いかけに、甥っ子の専務がようやっといつものラブリーなおぼっちゃん笑顔をにぱっと見せた。

「やったよ。OKが出た」

「へえ、やったじゃん。見せてくれよ、それ」

 どうせ兄の社長から妹の副社長にすぐに知らされるだろうと、専務は叔母さんにそれを素直に差し出した。

 副社長も兄と同様に企画書をめくって怖い顔。

 でも読み終わると笑顔を見せてくれる。

「いいじゃないか。これは楽しみだね」

「本田さんの提案で、出す商品の中から、各店長や社長、副社長がおすすめするコーデのご案内も作る予定です。その時はご協力、お願いいたします」

「面白そうじゃない。出る商品が決まったら、知らせてくれるってことだね」

 そうです。と専務が微笑むと、カンナ副社長も楽しそうに笑ってくれた。

「忙しくなるね。開催は四月末……か」

「春物の動きが緩くなり、夏物に切り替わる頃の売り上げにしようと思っています。春と秋の二回の予定です」

「となると商品選びが難しそうだね」

「逆に。そういう商品が残っているかなと、在庫整理をして感じたので」

「なるほど。楽しみだよ」

 カンナ副社長がこうしてさらっと受け入れてくれるのも珍しいことだった。

「眞子、頼んだよ」

 また言われ、眞子も『はい』と答える。


 在庫整理室になった応接室に専務と戻る。

「眞子さん、ほんとうにありがとう……」

 とても緊張していたのか、とてつもなく脱力した専務が柔らかい声でお礼をしてくれる。

「いいえ。専務のお役にそんなに立てていたんだとわかって嬉しいです」

 眞子も素直に微笑んでみた。でも専務の眼差しがそこでふっと翳る。

「俺、いままで。なんでも一人でやってきたから」

 言われてみれば、専務はいつもデスクでひとりだけの仕事をしていて、スタッフと一緒に仕事をしていたことがない。

 売り場に行けば実力があるからひとりでドンと売り上げを出すし、事務仕事もひとりで淡々とこなしているだけ。誰かを手伝わせるなんて姿はみたこともなかった。

「もしかして。カンナと親父が示し合わせて、俺に眞子さんを付けてくれたのかな――なんて思っていたところ」

「え、それが。カンナ副社長の……あの時の気持ち?」

「いや、それだけではないと思う。でもあの時、カンナにとって千載一遇のチャンスだったんだと思う。本田さんなら乗り越えてくれるだろうと信じて。突き落としたんだと思う」

「どういうことですか?」

 それでも専務は分厚いレンズの眼鏡の真顔で、眞子に念を押した。

「まだ黙ってみている。それがいちばんだ。それに。その方が眞子さんのためにもなるよ。俺もそう思って、黙ってみていろ――と言っているんだ」

 まだカンナ副社長の気持ちがわからない、見えない。眞子もがっくり項垂れた。

 それでも。だんだんとこのまま突き進むことが『眞子らしいやり方』だと確信ももてた。

「わかりました。では、専務。いよいよ、品選びをしましょうか」

「お、そうだな。眞子さんと一緒にいろいろ組み合わせたコーデを見ながら、春夏ものからピックアップしよう」

 やっとお洋服選びが出来そうで、バイヤー職をやっていた眞子もわくわくしてきた。

 それに、売り場にいた時馴染みだったお客様の顔を思い浮かべ、こんなものを出したら喜んでくださるかな――と考えながら商品をあれこれ見るのも楽しい。


 それから眞子と専務は、一緒に倉庫に行き来して、商品を本社事務所、仕事場にした応接室に集める作業に没頭した。

 そのうちに、札幌の街に雪が降り積もる。

 ついに融けることのない、白銀に包まれる日々を迎える。

 クリスマスに冬休み、そして年の瀬、新年。

 忙しい季節を目の前にしていた。


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