番外 二
紅緒は人間ではない。
さらに正確に言えば、妖怪ですら無い。
その身は確かに妖怪のものだ。
その実態は、とある霊山の霊力、そのものだ。
『
それは異形の進軍によって。
それは国の一番手、綾辻
この現世において、北見ノ国なんてものは存在せず、また、その後にできたとある街も
それでも、紅桜山は残っている。
紅緒の故郷は、未だに消えていない。
だからこそ強く還りたいと願う。己の在るべき場所はあの霊山なのだと信じて疑わない。
それなのにどうして、紅緒はこんな街で立ち往生しているのか。
「…………」
和風定食『九重亭』を飛び出した紅緒は、アテもなく街を流離っていた。
いいや、アテなら無いことはない。今もひしひしと感じられる、一匹の狐より溢れているのであろう妖力――否、正しくは霊力を追えば、きっと
しかし、それをせず。
「今更、会って何を話すというのか」
紅緒が霊山へ還るためには、キリエの存在が必要だ。キリエの中に残存する霊力は、紅緒のほぼ全て。今こうして存在する紅緒は、いわばキリエから吐き出された残り
だがキリエはあの力を必要としている。霊力が無ければ、キリエなぞただの狐に過ぎないのだから。
キリエに情があるわけではない。むしろ邪魔とさえ思える。キリエがいなければ、今も紅緒は紅桜山で一人静かに、穏やかに過ごせていたはずだ。
……そんな理屈はさて置いて。
「……そも、
つまるところ。
紅緒は恥ずかしがっているのである。
◆
「~♪」
乗れるようになったばかりの自転車で街を走る子猫――改めキリエ。
先日、自分の本名を知ることになったわけだが、どうにも違和感はなく、むしろしっくりくる呼び名。それが本当の名前なのだから、当然と言えば当然か。
しかし、その後に語られたキリエの『過去』は、違和感があった。
自分が狐であることは覚えている。――名は忘れていた。
自分が懐いていた誰かがいたことも覚えている。――名は忘れていた。
自分がいた国がどうなったかは……言われるまで、忘れていた。
そんな混濁した記憶でありながらも、オゾマシイという感情だけはハッキリとおぼえている。
あの特徴の無いはずの人間が、自分にかざした手。ぞわりと震えが走る。
忘れようのない、邪悪。
そんなことはさて置いて。
「……あの、なんだ、これ?」
裏路地の入り口を横目に通り過ぎようとして、何か見てはいけないものを見た気がして自転車を停め、覗いてみた。
するとそこには、一人倒れる人間がいた。
どこかで見たことある気が……と近寄ってみるが、うつ伏せに倒れているせいで顔がよく見えない。服装は……学生服?
「――は……へ……」
「あ? ――がッ!?」
よく聞こえなかった、と耳を寄せると、突如、頭を掴まれて地面に叩きつけられる。
頭を強く打ち、目の前に星が飛んだ。何が起きた? それを確認するより先に、倒れていた人間――歳は十六程度の少年がキリエに馬乗りになる。
「はら、へっ……タ」
「――!!」
その目はあらぬ方を向いており、キリエを直視していない。口元から溢れるよだれがキリエの頬に落ち、背筋を悪寒が走る。
なんだコイツは。人間なのに、人間のくせに。
なぜ、
「妖力が……ぐっ」
その手が首にかけられる。ギリギリと絞められ、段々と力が強くなっていく。
――違う、この人間、もう人間じゃない。
一口に妖怪と言っても様々だ。
人間の畏れを元に、伝承より誕生した生まれついての妖怪。
何らかの外的要因によって、存在が変質した後天的な妖怪。
あるいは、
一度死んで、怨念や無念より現世に留まり続ける亡霊の類。
「くそ、離せ……!」
「食う、喰う……腹減りヘリへりへりへり喰う喰うぅぅううううう!!」
力は加減を知らず、弱まるどころか増している。このままではどうしようもない。
仕方なく、とキリエは奥の手を使う。
「――ちっ」
ぼんっ! と音が鳴った。周囲を覆う白い煙幕。コミカルな演出に、飢えた化け物は首をきょろきょろと振る。
手元にあった感触はどこへ行ったのか。何かがすり抜けていく感覚は確かにあったが……と。
して、その答えは煙幕が晴れて明かされた。
そこにいたのは一匹の狐。美少女のような容姿の人間はどこにもおらず、そこにいたのは白い毛並みをなびかせる、一匹の狐であった。
「――――」
狐は化け物を睨むと、口に咥えた得物を構え――その錆びた刀身が白く燃えた。
火を見た化け物は怯えたが、それでも狐を食らわんと襲いかかる。
その腹に、刀が刺さった。
途端、全身に広がる炎。
「あづ、づづづづああああぁ腹腹腹ぁ!!!!」
これで終わり――そう思っていたのは狐だけ。
化け物はそんな状態になってもなお、狐に手を伸ばす。
喰う、絶対に喰ってやる。そんな執念は感じられず。
本当に、ただたんにお腹が空いたから。目の前にある食べ物に手を伸ばす。
しかしその手は途中で地に落ちた。力尽きたのだ。
あと少し。ほんの少しでも意識が保たれていれば、今にも狐は食べられていただろう。そんな強迫めいた恐怖が狐を刺した。
「――――、」
ぼんっ! またしても音が鳴り、煙幕が周囲を包む。そして現れたのは、白い長髪を揺らす、少女のような容姿をした――キリエであった。
「ああ、クソ、なんだったんだ今の……」
ぼやくキリエ。落ちた短刀を懐に隠し、さっさとこんなところを離れようと立ち上がると、
「……これは、何があった?」
表通りから裏路地を覗く、少女の姿があった。
◆
紅緒は舌打ちをした。ただ追うだけだったキリエの霊力。その溢れる量が、途端に多くなったからだ。
何かあったのだろうか。いいや、あったに違いない。この街は平和ではあるが、その裏で何か不穏な影が蠢いているのは事実である。
「……面倒なことに巻き込まれよって」
キリエに何かあっては、紅緒自身にも関わる。恥ずかしいなどとは言ってられず、霊力を追って駆け出した。
――して、二人は邂逅する。
長年連れ添ったはず。それなのにこれが初対面。
「……えと、キミは……」
キリエの目は戸惑っているように見える。
こんな小さな子が、なぜ一人でこんなところに? とでも言っているかのようだ。
対し紅緒は、
「……飢えた人間の成れの果てか。死してなお、去ることのない空腹に襲われ、自我も意識も消え失せ、目に映る食を求め続ける。その名を『
「…………?」
「殺したことを後悔しているか? その必要はない。もう既に死んでて、その上で弄ばれた命だ。むしろ、灰すら残さず燃やされたことは救いに値する」
淡々と、事実のみを口にする。その雰囲気からキリエは、紅緒が単なる子供ではないことを悟ったはずだ。
して、
「えと、それはわかったけど……キミは……アンタは、誰だ?」
「我か? ――紅緒、それが我の名だ。こうして面と向かって話すのは初めてだな、キリエ?」
紅緒という名に聞き覚えがあったのか、キリエはハッと目を開き、
なんとも言えない表情を浮かべた。
◆
「我の話は聞いたであろう? であれば、貴殿の力も、元を辿れば我のモノであるということも、理解できたはずだ」
「それは、まあ」
紅緒。この少女が、先日のドタバタでキリエより溢れた力の切れ端。
キリエが人の姿に変化できるのは、己が身に宿る霊力のおかげ。その本来の持ち主は目の前の少女で、この力が無ければキリエは単なる狐にすぎない。
その事実を加味した上で問う。
「オレの前に現れたってことは、この力を取り返しに来たのか……?」
もしそうであるならば、キリエはどうすれば良いのだろう。
そんな葛藤を知ってか知らずか、しかし紅緒はケロっと言い放った。
「いいや? そんなことは言わぬ。そも、その気であれば先日、無理矢理にでも力を奪ってやったとも」
それが出来たかどうかは別として、と付け加える。
呆気に取られたキリエはさらに問う。
「じゃあ、何の用?」
「貴殿があまりにも不注意に霊力を垂れ流すから、忠告に来た。我がここに辿り着けたのも貴殿から溢れる霊力を辿ってのことだ。その力は我のモノであるがゆえ、そこらの誰よりも追うのは簡単ではある。あるのだが……それにしたって溢れすぎている」
「えと、つまり……?」
「誰かが貴殿を狙うのはとても簡単だということ。狙われる理由が無くとも、万が一があっては困る。これまでは貴殿の中にいた我が意識的に栓をしていたが、今後は自身でそれができなくてはならない。心がけよ」
「はぁ……」
キリエが気の抜けた返事を返すと、紅緒はムッとした表情で、
「なんだその顔は、本当にわかったのであろうな?」
「わ、わかったって……一応、意識はしてみる」
「ならば良い。では、我はこれで」
そう言い残し、紅緒はその場を去った。
カラコロと下駄を鳴らし、どうにもつまらなさそうに。
その背中を、キリエは黙って見送った。
◆
「ただいまー」
「あ、おかえり」
キリエが居候する、和風定食『九重亭』。その店主であるノエがあいさつを返し、それで終わると思われたが、
「
と続いた声に、目をパチクリさせた。
「あれ、手品のオッサン……?」
「オッサンではない、アスヴィだ。それと、今日の私はマジシャンではなく、ただの客でね。とはいえ、もう帰るところだが」
「ノエさん、何か変なことされてない? 大丈夫?」
「キミは私をなんだと思っているのかね!?」
キリエは冗談のつもりだったが、ノエは神妙な顔で、
「それが……いつの間に寝てたのかわからないんだけどね? 目が覚めたらこの男の顔が目の前にあって――」
「ノエさんに一服盛って襲ったのか……!?」
「もう一度言おう、キミは私をなんだと思っているのかね!? ……彼女が突然意識を失ったんで、介抱しただけだよ。誓ってやましいことはしていない。……それはさて置き、キリエくん、紅緒という女の子を見なかったかい? これくらいの背丈で、着物を着た……」
「ああ、それならさっき見た。ちょっと話して、どっか行っちゃったけど」
「そうか……だとすれば、ここに戻ってくることは無さそうだな。そういうわけで、私は失礼するよ」
言って、アスヴィは店を去った。先程見た紅緒の去り方に比べれば、幾分脚が踊っているように見える。
「で、ノエさん。本当に何もされてないの?」
「はは、心配してくれるのかい? 大丈夫だよ。――たぶん」
「ちょっととっちめてくる」
「待った待った、落ち着こうか」
飛び出そうとしたキリエの首根っこをノエが掴む。
「でも急に意識を失ったー、とか怪しすぎるだろ。ぜったい何か盛ったんだって」
「いやー、アタシにも心当たりがあるからね。嘘は言ってないと思うよあの男。それよりさ、聞きたいことがあるんだけど」
「うん?」
「あの男がキリエちゃんのことを、『彼』だとか『くん』付けで呼ぶのはなんで?」
「オレが男だからだろ?」
――――。
…………。
「またまたご冗談を」
「ノエさんこそ、そろそろしつこいぞ」
「…………」
数秒後、『九重亭』に「嘘でしょぉぉおおおおおおおお!?!?」と絶叫が響き渡った。
◆
――これは束の間の平穏。一時の団欒。
静かで、騒がしくて。穏やかで、慌ただしい。彼らの過ごすそんな日常は、
『えー、二週間後に予定されている、人妖特区第一番「珠都」の新区長就任パレードですが、なぜこんなにも遅れることとなったのでしょうか』
『まずこの街はですね、人と妖怪とが共存する、特殊な街であることを前提に置いた上で――』
「……へえ、パレード。随分と余裕があるんだな?」
「余裕があるわけではないよ。これも必要なことだ」
「んじゃあ、オレ様たちに情報を開示するのは、不必要だってか?」
「『不必要』ではなく、『不適切』だと言っている。私の元に令状が届いたわけでも、キミたちが持ってきたわけでもない。ただ『教えろ』と迫ってくるだけの子供に、教えられることなど何一つとして無い」
「そうかい……じゃあ自分たちで調べるけど、それに関してはどうよ、飛騨区長さん?」
「その分には私が口を挟む余地もない。自由にしてくれて構わないよ、――祓魔師
……日常は、長くは続かない。
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