番外 一
『――デイダラボッチは無事、退治されました。これで
かちゃかちゃと、シンクで皿を泡に沈めるのは和風定食『九重亭』の店主、ノエ。
しかしその目は焦点が合っておらず、スポンジで撫ぜる手元の皿も先程から変わっていない。延々と同じ動作を繰り返すだけの機械のようだ。
手が冷たい水に、長時間浸っていることで、細く綺麗な指はまるでクレヨンで塗りつぶされたかのように赤く染まっている。だがノエはそれを意に介さず、やはり延々と同じ皿をスポンジで撫ぜ続ける。
「――――」
意識が無いわけではない。体調が悪いわけでもない。ただ単に、ボーッとしているだけ。
……そんなわけがあろうか。
今、ノエの周囲には誰もいない。
何かタガが外れたかのように、かちゃかちゃと、シンクで皿を洗い続ける。
◆
「嫌だ、我はいかぬ」
外見相応の、ぶすーっと不機嫌を露わにした顔で少女は言う。肩口で切りそろえられた黒髪。アクセントのヘアピンは、少女の前に立つ男に貰ったもの。その身を小豆色の和服に包み、まるで日本人形のような出で立ちをした少女の名は
「……キミも、随分子供らしいところがあるじゃないか」
対し、やや呆れ顔で反抗する紅緒を見るのはまるで英国紳士のような男である。格好つけたタキシードに身を包み、洒落たステッキを片手にシルクハットを被る。それは男が想像するマジシャン像。まだマジックの腕が悲惨だった頃に、形だけでもと憧れた姿である。そんな少年心を忘れない男の名はアスヴィ・アスヴィーユ。口元にたくわえた髭や老いた見た目から、老人であると勘違いされるが、その実年齢は二八。加えて、実は吸血鬼である。
この二人は事情があり、現在こうして生活を共にしている。
「子供らしくて何が悪い。そら、見た目はまんま子供よな。わがままのひとつやふたつ、受け入れる寛容さを持たぬかアスヴィ」
「その見た目は本来のキミのものではなく、
「は、こんなにも可憐な
「ははは。それじゃあ行こうか」
「む、この、離せ。ちょ、ホントに力強い……こ、こら、変質者と騒ぎ立ててやるぞ!!」
仲睦まじい親子、あるいは祖父と孫のように見えるこの二人が向かうのは、人妖特区第一番『珠都』の西に存在する、『呑んだくれ通り』という、昼間は閑散とした場所だ。
ここには何があるかと言えば、大小様々な居酒屋、ごく少数の、というか一軒の定食屋。用があるのはその定食屋だ。
「行くならば一人で行くが良い! なぜ我まで――」
「
「いつそんなことを言った! 仮にそうだとして、別に今すぐでなくとも良いし、あの店でなくとも良い!」
アスヴィは吸血鬼としての筋力を惜しみなく使うことで、喚く紅緒を引きずり歩く。やがて、結局例の定食屋の前まで来てしまった。
ここまで来ると紅緒の抵抗も大人しく、なすがままになれといった感じ。
「
「――、ああ、いらっしゃい」
和風定食『九重亭』店主、ノエ。
その雰囲気は、アスヴィ達が知っているものとは、少々異なっていた。
◆
「お冷でいいかい?」
ノエが水を差し出しながら、カウンターに座るアスヴィの正面に陣取る。その隣に紅緒の姿はない。
――キリエはいないのか? であれば我は少し、外に出る。
そう言い、飛び出してしまったからだ。紅緒がノエに対し苦手意識を持っているのは知っているし、紅緒が用のあるのはあくまでキリエに、だ。止める理由もない。
そんなわけで、この場にはアスヴィとノエしかいない。
「で、今日は何の用?」
ノエはいい暇つぶしが見つかったとばかりに話を振る。振られたアスヴィは一口、水を飲み、
「いや、なに。前回来た時にはゆっくりできなかったからね。一度この店の料理を味わってみたかったのさ」
「ああ、ならメニューはそこに。注文決まったら呼んで」
なんだ、ただの客か。声には出さないものの、まるでそう言っているかのようにノエは素っ気ない態度を取る。
「その前に、ちょっと話を良いかな」
「? 話? 面白い話なら良いけど、なに?」
「キミは誰だ?」
「――、は?」
なにを唐突に。そう言わんばかりのノエの表情は、
「――、はッ」
即座に笑みへと張り変わる。
薄く横に広がる笑みは、やはりアスヴィの知るノエとは齟齬がある。いいや、関わった時間はほんの僅かなのだが、それにしたってあまりにも雰囲気が違う――それも正確ではない。
ノエより溢れる、禍々しい妖力。
隠しきれんばかりのソレが、ノエの妖しさをより引き立てていた。
「案外、勘が良いもンね……ワタシが誰かって? 決まっているでしょう。ノエ、
「九重……それが本名か。しかし、私が聞きたいのはそういうことではない」
このノエは、キリエを心配していたノエとは明らかに別人だ。
それが二重人格やら、妖怪としての複合意識であるなら何も問題はない。だがここまで悪辣な妖力を放つ別人格を、ただ放っておくことはできなかった。
枕返し騒動、あの世界で最後にノエが見せた一面は、
「うーン、まぁ、正直に言っても良いンだけど。それじゃ面白くないでしょう? だから、ワタシと
「ゲーム?」
「そ。あなたがワタシの名前を当てられたらあなたの勝ち。外したらワタシの勝ち。チャンスは……そうねぇ、二回。今この場で一回、残りの一回はいつでも良いわ」
「そのゲーム、私が勝つとどんな利点がある?」
「何も。強いて言えば……ワタシのことをひとつ、知ることができる、ってところかしら? ワタシのことを詮索しているなら、ちょうどいいでしょう」
「名前を知ったところで、キミのことがわかるわけでは――」
「あら、そンなことないわよ。自慢じゃないけど、ワタシってばそこそこ有名らしいから。名前ひとつわかるだけで、いろンなこともついでにわかっちゃうもの」
「? それはどういう……」
「さあ、まず一回目の回答権。ワタシは誰でしょう?」
この会話の意味を問いただそうとしたところで、被せるように問うてくるノエ。
唐突に始まったゲーム。まるでアスヴィにメリットの無いこの遊戯は、なるほど、彼女の暇つぶしでしかないのだろう。
良いだろう、その暇つぶしに付き合ってやる。そしてアスヴィは問いに答える。
「……『九重』、それが名前だ」
「あは、素直で可愛いところあるのね。でも残念、ハズレ。回答権二回目はいつでもいいから、また暇つぶし相手になってちょうだいね」
「っ?」
ノエはそこまで言うと、急に意識が無くなったかのようにふっと倒れた。
駆け寄ったアスヴィによって抱き起こされるノエからは、先程までの禍々しい妖気など微塵も感じなかった。
……成り行きで関わることになってしまったキリエとノエだが、両者ともなかなかに厄介なものを抱えていそうだ。
「厄介レベルで言えば、私も人のことは言えないか」
もしかしたら。
アスヴィ達は、会うべくして会ったのかもしれない。
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