第十節 酸味
初めの一合は静かなものだった。相も変わらず切枝はその場から動かず、飛ぶ斬撃を放ち、ひだる神と名乗った男は次こそかわす。
斬撃に音は無く、ひだる神の動作も最小限。これにて一合目は終了。
「飛ぶ斬撃って、最初はびっくりしますけど。慣れればそうでも無いですねえ?」
「――――」
挑発するひだる神に切枝は無言。
その光景を見て、ノエは男の名乗った名前に思いを馳せる。
「ひだる神……?」
「私は聞いたことのない名だ。神……なのだろうか?」
「いいや、そういう名前ってだけの妖怪だったはず。昔からこの国の人間は、よくわからないものとか恐ろしいもの、そういったものをひっくるめて神様って
しかし、ひだる神……その語り名が嘘でないならば、この
「ひだる神に、戦うための力なんてありゃしない」
「……んん? では、ひだる神とはどのような妖怪――」
言う間に切枝が動く。飛ばして斬れないのであれば、直接その身に刃を刺すのみ、と。
両者の距離はたった二歩の内にゼロになり、神速により振られる刀はひだる神の身体を袈裟斬りにしようと迫る――しかし。
「ひ、ヒヒヒヒヒっ!」
引き攣った笑みを浮かべながら、しかし、しかし、ひだる神はソレを避けようとはしなかった。
「――?」
もろに食らった一撃は明らかな致命傷。野に倒れ伏す男の下には血の池が広がる。
あまりにもあっさりとした結末。切枝だけではなく、ノエやアスヴィまでもが呆気に取られる中……倒れたひだる神、その残った左腕が切枝の脚を掴んだ。
「ッ、な、」
「つぅーかまぁーえたぁ……」
ぐりんッ! 下を向いていたはずの顔が突如真上を――梟のように首を一八〇度回転させ――向いた。
「く、……っ」
その腕を即座に切り落とし、距離を取る。それでも離れなかった手を直接掴み放り投げ、飛び散った血を拭い、
「あひゃ、はひゃひひ」
不気味に笑うひだる神を見る。
「何を、しようとした?」
「私の名に、少しでも心当たりがあるならわかるでしょうが……ひひ、まだ、まだ足りない。ねえ、それで終わりですか? 北見ノ国最強の戦兵、意外と大したことないですね?」
関節が有り得ない方に曲がっている。むしろ増えている。人間の身体では有り得ないような駆動、挙動。操り人形であるかのように不自然な起き方をし、両腕を失ったひだる神は再度立つ。
「化け物め……」
「妖怪相手にわざわざそんなことを言わなくても。これでも元人間ですよ?」
ゆらり、次に動き出したのはひだる神だった。
のらりくらり、ふらふらと。切枝の切迫とは違い、まるで近づく気が無いような
その姿が消える。
「な、」
「バァ」
「ッ!? きゃ――」
気づけば既に切枝の背後にいて、その背にもたれかかっていた。耳元で聞こえた怖気の走る声に、仮にも少女である切枝は悲鳴を上げそうになる。がむしゃらに飛び退き、再び距離を取る。――先ほどよりも二歩ほどの距離が開いた。
「きゃ、って。きゃ、って。意外と可愛らしいところあるんじゃないですかぁ……くっ、ハハハハハ! ああ、こりゃあ良い!」
「この……!」
「それにしても、あなた、親に妖怪がいたりします? どうにも通りが悪いというか、なんというか。直系にいないのであれば、遠い先祖だったり? ああ、そうか、それなら有り得そうです。まあどうでも良いんですけどね――種は無事、飢えられた。ああいや、違う、植えられた」
「貴様やはり――」
「答えるつもりはありませんよ? どうせ、すぐに身をもって知ることになる。……ふむ、そろそろこの身体も限界か……仕方ない、今回は諦めますかぁ……」
途端、ひだる神の身体がぐずぐずと溶けていく。まるで炭にでもなるかのように、身体が黒く変色し、端からボロボロと崩れていく。
「…………」
「なんて顔してるんですか。あなたの勝ちなんですよ? 素直に喜んだらどうです? これが人生最期の、勝利になるんですから……」
「なんだと?」
切枝がその言葉の真意を確かめるよりも早く、男の身体は完全に灰となった。数秒しても復活の兆しが無いことがわかると、切枝は構えを解きその灰を遠目に眺める。
「ひだる神……文献なんてあったかな。何にしても、まずは戦場に戻らないと――」
がくり。
「――あ?」
◆
やたらと、身体が重く。
切枝の身体は、先に見たひだる神のように倒れ伏した。
立ち上がるにも気力が無く、思考が回らず、やたらと腹が空く。
腹が減っては戦が出来ぬ。どこかで聞いた言葉だが、正直切枝にはピンと来ない言葉だった。なにせ、これまで空腹だろうがなんだろうが、多少の我慢でどうにかなったからだ。
戦が続けば、数日の間、水しか口にしないこともあった。そりゃあ、何かを食べるべきではあるのだ。しかし、どうしたってそれができない状況もある。そうした時に、どれだけ我慢出来るか――それには、かなりの自信があったのに。
なぜここに来て、我慢が効かないほどの空腹に襲われるのか。
怠い、頭が痛い、身体の節々が悲鳴を上げている。指の一本でも動かそうものなら意識が飛びそうで、しかし空腹のせいで眠ることもできない。
地獄。生き地獄だ。唐突に現れたこの身を襲う地獄に、気が狂いそうになる。
水、米、肉、なんでもいい、食べるものをくれ。声にしようと喉を震わせるが、漏れるのは肺の中に存在した空気のみ。
マズい、マズいマズいマズい。このままでは飢え死にする。
あまりの空腹にキツく閉じられた目を開けると――そこには、水があった。
否、正しくはただの雑草だ。丘に鬱蒼と生い茂った、雑草。
「――ッ!!」
切枝は理性をかなぐり捨て、一心不乱に食いついた。虫がわらわらと湧いていたが、それすらも美味そうに見える。口の中に放り込み、咀嚼し、嚥下する。しかしまだ、まだ足りない。腹を満たすにはほど遠い。
して、次に目に入ったのは肉だった。
否、正しくは己の手、指だ。齢一三の少女らしく、白く瑞々しい細い指。
「――――」
この時にはもう、理性なんてものは無く。
切枝は、己の指に、食らいついた。
◆
「な、なに、何を……」
ノエは目の前で行われる、人間にあるまじき所業に目を見開いていた。
仕合は切枝の勝利に終わったはずだ。敵方の自爆にも見えたが、兎にも角にもひだる神は灰に帰したのだ。
しかしその後、切枝は突如として倒れ、顔を苦痛に歪め――そして。
草に食らいつき、あまつさえ己の指まで食べ始めた。
ぶじゅり、ぶじゅ、ばしゃ、ばき。
口元が血に塗れていく。その目からは光が失われ、だが笑みを浮かべている。
狂気。
ここに至って、あのひだる神が何をしたのか、おおよその察しが付いた。
「そうか、ひだる神……!」
ひだる神とは、飢餓で死んだ人間の怨霊。取り憑いた人間に過剰な空腹感を与え、最悪の場合はそのまま死に至らしめる妖怪だ。
それを知っているのなら、あの男が切枝に何をしたのか、言動などから察することができる。
「種を植えたって言ってた……たぶん、空腹を与える種みたいな感じの。それで――」
「……空腹に耐えかねた彼女は、草を、己の肉を、貪っているわけか」
切枝が笑みを浮かべているのは、空腹が解消されていくことへの満足感からだろうか。しかし、これで腹が満たされたとしても、少女はもう。
「ぁ、アア……」
ようやく満足したのか、切枝の手は止まった。しかし、手も足も、骨が見えるほどに食い散らかされている。もはや生き残る道など見えやしない。
なまじ姿が子猫そっくりがゆえに、恐ろしいまでの悪寒がノエを襲う。
そして、切枝は満足気な顔で倒れ、今度こそ――動かなくなった。
あまりにも酷い結末。しかし、そんな余韻に浸る暇をこの世界は与えてはくれなかった。
暗転。
再び場面が移ろい、空は青く。これだけならば最初に見た光景と何も変わらない。しかし、遠目に見える風景が異なっていた。
村……おそらくは北見ノ国、天守領とされていた村が消え、代わりに小さな街があった。現代風の、というかノエたちが生きる時代に存在するような街だ。
「これまでのはやはり……過去の焼き直し。この国に存在するどこかの街の歴史か」
冷静に考察するアスヴィ。ノエはそんな声に耳を貸さず、ある一点に目を奪われていた。
――ああ、今度こそ。間違えるはずもない。
その姿は、何度も、何度だって見てきたものだった。
揺れる銀は、星明かりを塗りつぶす月光が如き長髪。あどけなく幼い顔は、不安に歪められている。細く、華奢な身体は今にも折れそうで――、
「……どこだよ、ここ」
まさしく、子猫であった。
「こ、子猫ちゃ――」
「
「その確証はあるのかい? 無いだろう? なら――」
「――その男の言うとおりであるぞ」
子猫に駆け寄ろうとしたノエに語りかける声、それは二人の背後から聞こえた。
振り返ればそこには、子供の姿がある。和装に身を包んだ齢一〇も行かぬほどに幼い子供だ。
「……ほぉ。これまた新しいお客人か、あるいはその逆――この世界の主か。はて、キミはどちらなのかな?」
「どちらにも当てはまらぬ。我は単なる霊力に他ならん。そこな歴史にて泣き崩れる、銀の狐に宿っておった、な」
「銀の狐……? 子猫ちゃんのことかい!?」
少女が指したのは、確かに丘にて泣き崩れる子猫だった。
「どこだよ、きりえ……? 国はどうなったんだ? どこ、どこだよきりえ、きりえぇッ!!」
「……かの狐は、長い刻を眠って過ごした。北見ノ国が僵尸と呼ばれる異形の襲撃を受け、戦と相成った際、狐は出会ってはいけないものと出会ってしまった。それがひだる神よな。視たのだろう? 歴史を。なれば、そこで逃げた狐を目にしたはずだ」
ああ、たしかに視た。ならば今、ノエたちが目にしているこの場面は。
「逃げた後、狐は崖より滑り落ち、意識を失った。普通であればそのまま死ぬか、生きたとして怪我で動くこともままならず、やはり死ぬか、そのどちらかであったのだがな。……どうにも、偶然というのは遊び心の塊であったそうな。この山は霊山として在ってな、その小さな狐に、霊山に宿る霊力
少女はつまらなさそうに語り、その手を貧相な胸に当て、
「その霊山、『
そこでアスヴィが、「なるほど、道理で」と頷いた。
「彼の血を頂いた際に得た、魂の記憶――狐であった過去、そして大きな桜の木。全てに合点がいった。彼――キリエは、最初はただの狐だったというわけか」
「貴殿……吸血鬼か? 人の記憶を盗み見るとは、趣味の悪い力だ」
「このように、己の記憶をあけっぴろげにしてみせる御仁の言葉とは思えないな。それとも、ジョークだろうか?」
「ああ、その通り。ただの冗談だ。……狐、キリエに宿った力は霊山まるごと一個が有していたものだ。あまりにも大きすぎるゆえか、狐は神格を得るわ、我は自我を得るわで常識外れなことばかりであったが、此度はその中でもとびきりだ」
「ああ、そうだ。アンタ……紅緒、だっけ? そもそも、どうしてこんなことに」
全ての元凶、原因。こんなややこしいことになっているのはそもそも、何が悪かったのか。
「我が身体を借りている、この
◆
枕返しとは、寝ている者の枕をひっくり返す
されど、その枕を返すという行為が致命的であった。
寝ている時、その者の魂はふわふわと浮いた状態であるとされる。意識のない幽体離脱と考えれば話は早い。して、起きる瞬間になってその魂は身体へと引き寄せられ、再び身体に戻る、と。
しかし、枕を返されてしまうと、その戻る行程が為されない。枕を引っくり返すことにより、本来戻るべきところにあるはずの身体が無い、と魂が誤認識してしまうわけだ。結果、帰る家を無くしてしまった魂はふわふわと漂い続け、朝になってもその者は目覚めない。
ゆえに、しばしば枕返しは悪妖怪として捉えられることも多い。
「そのようにして枕を返されたキリエは、魂が身体に戻ることなく漂い続けておった。それもただの魂ではない。我という膨大な力が宿った魂だ。器を失ったその力が無造作に放り出されていた結果、こうして記憶を元に構成される不可思議極まりない世界が生まれたというわけだ。いわばこの世界はキリエの魂そのものである。そんな世界に足を踏み入れているのだから、貴殿らはよほど心を許されておるのだろうな」
「……アタシはともかく、このジジイまで?」
「ああいや、私の場合は吸血したことが理由だろうな。量は少なくとも、彼の魂を取り込んでいるのだから、同じものと見なされたと考えれば良いのではないかね? ……というかジジイってやめてくれないかな?」
「なんにせよ、話はわかった。つまりだよ、引っくり返した枕を元に戻して、子猫ちゃん……ああいや、小狐ちゃん? キリエ? をここに連れてきて、魂を元に戻せばいいってことだろう? それなら話は簡単だ。キリエを連れてくるから、この世界から出して――」
「ならぬ」
「――はぁ?」
「ならぬ、と言った」
途端、紅緒の纏う気配が異質なものとなる。
「再び魂を器に返すと言ったか? ならぬ。それでは我はどうなる? 我の還るべき器は狐ではない、紅桜山だ」
「……じゃあ、元々子猫ちゃんのものだった魂だけを子猫ちゃんに戻して、アンタはその故郷に帰ればいいんじゃないかい?」
「それが簡単にできれば苦労なぞ。……できぬからこうして、記憶に存在する紅桜山に縋っておる」
「……つまり、何が言いたい?」
「我はあの狐には戻らぬ。加えて、この世界を壊すつもりもない。さらに、この世界を閉じようとする貴殿らを……出すわけにも行かぬ。ただ大人しくしていればいい」
「なんだそれ……!?」
とんだワガママではないか。大人しく聞いていれば、なるほど、まったく話をする気が無いではないか。
「ワガママ言うのもいい加減に――」
「ワガママを言うのも、いい加減にした方がいい」
しかし、そんなノエの言葉に被せるように躍り出たのはアスヴィだった。
「え?」
「故郷に帰りたい――結構。故郷の記憶に縋っていたい――結構。しかし、本来の故郷を諦め、偽りの故郷で満足する――これは頂けない」
「……何を言うか。偽りの故郷? 違う、この世界は紅桜山の霊力そのもの。魂に刻まれた記憶の焼き直しはその霊力によって行われている。ならば、この世界は正しく紅桜山そのものと相違無し」
「いいや、違うだろう? そうやって詭弁を振りかざしたくなる気持ちもわかるがね……ハッキリと言おう。ここは、キミの故郷ではない」
ノエはアスヴィと出会ってほんの数時間しか経っていない。ゆえに、この男のことをほとんど知らないと言っても過言ではない。もちろん、子猫より聞いた話でもイメージも有してはいるが……それでも、今、この男は平静ではないことに気づく。
もしや、怒っているのだろうか?
「何を……何を、何をッ!! 勝手に、憶測でモノを、語るなァ!!」
「ふむ……その言動、まるで子供そのものだ。どれ、ひとつ叱ってみせようか」
アスヴィは、その手に握ったステッキをクルリと回し、
「――お説教の時間だ」
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