第七節 混濁
――よくよく見知った光景が、目の前に広がっていた。
「!?」
感じたことのある風、嗅いだことのある匂い。眼前に続く青い空を見上げる時には、決まって隣に誰かがいたはずだ。
「あー、今日も涼しや~涼しや~!」
そう、こんな風に。
首を回してみれば、そこには懐かしい……懐かしい? そんな感傷を抱くような誰かがいて。
しかし顔が見えない。ぼやけているような、焦点が合わないような。目と鼻と口があることはわかっても、その表情は理解できても、『どんな顔か』がはっきりとしない。
どこか、丘の頂きで。隣に佇む『少女』と共にしばし風を浴びていた。
「はぁああああ、今日も平和だぎゃー」
変な言葉遣いだ。そう窘めると、少女は朗らかに笑いながら言う。
「いっつも堅苦しい言葉しか使わないもんで、ちっとばかし崩れた言葉ってのに憧れてるのー。許してよ、もう」
ああ、そういえばそうだった。少女はどこか偉い立場の人間だった。……いいや、それにしたってそんな言葉遣いは無いだろうに。
普通、という生き方をあまり知らないのだろう。本来ならば今だって、こうして外に出るのを許されてはいないはずだ。少女の話では、無理やり言ってどうにか抜け出してきたらしいが。
しばらくの間は自由な時間があるらしい。
「……はぁ。平和、平和なんだよねえ。なのに■■■は、今日も一人で、」
――なんだろう、今の違和感は。何か、聞こえているのに聞こえない部分があったような。
「あ、ごめん。一人じゃなかった。あっはは、すまぬー! 許しておくれー!」
その違和感は、おちゃらけた少女の発言に掻き消された。
まるで許してもらう気の無い謝罪に嘆息する。その仕草に少女はまた笑う。
……平和だ。少女ではないが、たしかに平和だ。
ごろん、と寝転んだ少女が見上げる空を同じように見て、風に流れる雲を追う。
「――ねえ、キリエ」
……キリエ?
ああ、名前だ。自分の、名前。少女が付けた、名前。
「キリエはさあ、■■■が死んだら、泣くの?」
……どうだろうか。感情に近い何かを手に入れたキリエだが、そもそもキリエは感情による涙を流せない。そうやって泣くのは、人間だけだ。
「そっかー、そうだよなー。……なんでキリエが悲しそうな感じになってんだよーこら。うりぃー!」
お腹や頭を撫でられ、必死に身を捩る。やめて、やめ、や――やめろやぁ!!
「ひゃーキリエが怒ったー! ははは! やめて、追っかけないで! あはははは!」
少女が走る丘、そこをもう少し登ると存在する、大きな桜の木。
――そうだ、覚えている。あの桜の木が満開になる頃に、
■■■は。
◆
ああ、こうして訪れてみれば、「病院は嫌いだ」と言っていた子猫の気持ちが少しはわかる。
病院とは、健康であればあるほど、来る必要が無くなっていく。もちろん、健康であっても定期検査等で訪れることはあろうが、ノエの記憶で病院に来たのは、いつだって怪我をした、病気を患った時だ。
そして今回も。
手に握りしめられた携帯電話で救急車を呼び、子猫と共に病院に連れられたノエは廊下のソファに沈んでいた。
今朝、子猫は目を覚まさなかった。最初は、昨日遊び疲れたのだろうか、なんて思っていたが、すぐにその考えを改める。
目を開かない、呼吸が浅い、身体が冷たい――。
「ッ!!」
今、最悪の想像をしてしまった。
落ち着け、まだ■んだわけではない。この不思議が跋扈する現代だ。多少の意識不明など、日常茶飯事――なわけがあるか。
「くそォ!!」
「っ、……ここは病院です。大声はお控えください」
「!?」
項垂れるノエに声をかけたのは、先日桑原兄妹の件で懇意となった看護師だった。
ああ、そうだ、ここは病院だ。病院ならば、
「なあ、なんとかしてくれるよな? 子猫ちゃん、助かるよな? っていうか今どういう状態なんだ? ちゃんと……生きてるんだよな?」
「――――、……生きて、ます。それだけは確かです」
「それ、だけ?」
「生きてます、生きているんですが……どうして目を覚まさないのかがわかりません。この病院は、医師の大半が人間なので、妖力の影響などの判別が完全に機械頼りです。しかし、まるで中身が存在しないかのように、何の反応も示さなくて」
「……そ、うか。うん、わかった。そのまま、子猫ちゃんを……あの子を、お願いします」
「……全力で」
ノエはふらりと立ち上がり、看護師に背を向ける。彼女はその背中に、何も告げられず。
向かう先はただ一つ。子猫がこうなる原因があるとすれば、アレしか考えられない。
「タキシードに、シルクハット」
ぼそりと呟くのは、子猫の口から聞いた、ある男の特徴。
「目元にモノクル、口元には白い髭」
やや老いているのだろうか。子猫から聞く話では、やたらと若々しいイメージがあったのだが。
「ステッキを模した日傘に、芝居がかった口調」
まあ、その老人がどんな人物だろうと関係ない。
殺す。
ああ、命乞いをしてきたら、話くらいは聞いてやろうか。
子猫が目を覚ましたら、その老人の最期を話してやろう。
◆
「ごめんね、キリエ。もうここには来れない。――ううん、来るかもしれないけど、その時はさ、ここから逃げないと駄目だよ?」
いつになく優しい声で、少女は言った。
いつもの服装、いつもの時間。なのに、紡がれる言葉の優しさ、そしてそれに混じる苛烈さはまるで別人のようだった。
それで悟った。ああ、そうか。
「うん、――戦が、始まる」
少女はこの小さな国を収める将軍の娘であった。こんな辺境であっても、否、辺境であるがゆえ、この国はいつか狙われるのだと、少女は語っていた。
「ついに北から攻めてくる。海を渡って。……うんうん、相変わらず不細工な顔をするな。今にも泣きそうだ」
おどけた口調は無く、これこそが素なのだろうな、と思わんばかりの自然体。
普段が素でなかったのは、これから起こる戦乱から目を背けるためか。
「この国は、大地の最北端にある、全土から見れば守る価値もない国だ。優先度も低く、だから、援軍は期待できない。……馬鹿な話だよね。奴らにとってはそんなの関係ない。たった一ヶ所、小さな拠点を手に入れれば、そこからいくらでも侵略できるんだから」
少女が語る『奴ら』とは誰のことなのか、知識を持たぬキリエには察することはできない。しかし、少女の、この国の敵であることはわかる。
そして、たぶん、少女と出会うのはこれが最後なんだろうな、ということもわかる。
「よし、そろそろ行くね。……大丈夫。ここだけは、絶対に守ってみせるから」
この、少女とキリエの、思い出の場所だけは。
少女はキリエの頭をぐりぐりと撫で回し、満足すると立ち上がり、何も言わずにその場を去ろうとする。
その背中が、酷くちっぽけに見えて、キリエは、
「――
「――――、……え? 今、きりえの名前……ううん、そんなわけないか。はは、ちょっと怖くなってんのかなあ」
キリエの声は、届かない。
それもそうだろう。ああ、そうさ。届かなくて当然なのだ。
だって、
そして、合戦の幕は開ける。
敵は北の海よりやってくるならず者。この国を乗っ取り、侵略の拠点にしようとするならず者。
「――集え、
将軍の一人娘、綾辻切枝。齢一〇にして数多くの戦果を上げた戦兵。
三年の月日が経ち、一三歳となった今日でも、その勢いは留まるところを知らず。
されど、それは人間が相手の場合だ。
此度の敵は少々、勝手が異なる。
海を渡ってくるは、まだ切枝が相対したことのない異形の群れ。
――百鬼夜行。
ここに、一〇〇の妖怪が列を成す。
◆
「――ふむ」
やはり来ないか、と一息ついて、直後に襲われた悪寒に身震いする。
頭に乗せたシルクハットを抑え、周囲を呪い殺さんがばかりの妖気を吐き出す何かが迫ってきている。
ああ、これが。
「なるほど、キミが、あの少年の魂に刻まれた『ノエさん』か」
「……アンタ、なんでアタシの名を知ってるんだい? 勘違いじゃなけりゃあ、アタシとアンタは初対面のはずだけど」
声は静か、表情もまた静か。されど、放たれる殺気は水面下を走る激流のようだ。
「ハッハッハ! やぁ、なに。少々
「ああ、そう」
「――ん?」
次の瞬間……まったく陳腐な表現ではあるが、そう言い表す他ない。
瞬きの間に、彼我の距離はゼロとなり、その喉元には錆びた短刀が添えられていた。
「やっぱり、アンタが原因なんだ」
「……はて、なんのことやら」
閃。とぼけて見せれば、コンマの暇すら無く短刀は振り切られた。しかしすんでのところで退いた老骨の首に傷をつけることはなく、互いの距離は再度開く。
「良いのかね? 真っ昼間の公園で、そんなものを振り回して」
幸い今日は平日だ。公園にいる親子は、そう多くはない。
「子猫ちゃんがさ、目を覚まさないんだ」
「……?」
ゆらり、ゆらりと。徐々にノエが纏う影が大きくなっていく。
溢れ出るそれは妖気――否、瘴気だ。もはや純粋な妖怪の力とは呼べぬ。
もしや、噂に聞く『妖魔』のものか。
「アンタが――、」
増幅するソレは、ノエの背であるモノを象った。
三つに別れ、細く揺れるソレはまるで、三叉の尾。
「――あの子をッ!!」
「何を言って……、……ッ!?」
――――爆ぜる。
――――砕けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます