第四節 妖魔・侵食
「――あら? それ薬? ……どこか身体の具合でも悪いの?」
「え? あ、ああ、これか? これはなあ――」
その時既に、兄――
「……健康食品?」
「そう! いやあ、最近のサプリメントは優秀なのが多くてな! 俺も、つい手を出しちゃって」
「へえ、そうなの。あ、私にもひとつちょうだい?」
「そ、それは駄目だ! うん、駄目駄目」
「なんでよ、ケチ」
「おまえなあ……ほら、おまえはまだ若いだろ。それなのにこんなモノに頼っちゃ駄目じゃないか」
アザナとアコは二つしか歳は離れていないのにそんなことをのたまうのだ。多少なりとも怪しいと思って当然だ。
しかしこの兄のこと、何か隠していたとしても、大したことではないのだろう。
なんて、そう思っていたのだが、段々と様子がおかしいことに気づく。
それはふとした瞬間に訪れる違和。
「ただいまー、おにいちゃん帰ってるー……、……?」
居間を覗くと、そこには苦しそうな顔をしたアザナがいた。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫なの!?」
「……触んじゃねえ」
「え?」
「触んじゃねえッ!!」
「ッ!」
背中に添わせた手を弾かれ――いいや、それ以前に、アザナがこんなにも声を荒げたことに驚いた。同時に恐ろしくもあった。
「あ、いや……アコか。悪い、ちょっと、嫌な夢を見て」
「そ、そうなの……」
アザナのことが怖くなったアコは、それ以上その話題に触れることはなかった。
他にも、
「こんな時間に、どこに出かけるの……?」
「ん、ああ、ちょっと友達のところにな。なに、すぐ帰ってくるから心配すんな」
そう言って出かけたアザナは、翌日になっても帰ってこなくて。何度も電話をかけたが繋がらず、いよいよ警察に相談しようかと言うところでひょっこりと帰ってくる。
「どこに行ってたのよ……!!」
「あはは、心配かけたか……もう大丈夫だよ」
何度大丈夫だと言われたのか。もはや信用に足る言葉では無くなっていたが、しかしアザナの言うとおり、それ以降は特に何も無く。
しばらくして、家を引っ越すことになる。そうして訪れたのがこの街――人妖特区だ。
◆
「どうして、こんな街に引っ越そうと思ったのかは、私にはわからない。けれど、……あのクスリと、おにいちゃんが化け物になった、そのことに関係しているのだけは、わかった」
語るアコの表情は優れず、しかし、ひとつひとつ兄との思い出を掘り返すように、ぽつりぽつりと言葉が漏れる。
楽しかったのだろう、その思い出は。
悲しかったのだろう、その思い出は。
でも、二人でいられることが、とても幸せだったのだろう。
――ノエに察せるのはここまでだ。彼女の人生を言葉でしか知らない以上、それより踏み込んで感情移入することは許されない。
「そのクスリ……ね、ある男から受け取ったわ。きっと、おにいちゃんもその男から受け取ったんだと思う。最初は……本当に、医療用の薬だと思ってた。法外なものでも、おにいちゃんを治すための薬だって。おにいちゃんがそのクスリを飲んでたのは、病気を治すためで、私に隠してたのは、その病気だって。それが治ったから、この街に来たんだって……でも、」
逆だった。
このクスリは病気を治すためのものでも、ましてや医療用の薬でもない。まさしくドラッグ。今の話と、先日の化け物の話を照らし合わせると察しがつく。
このクスリは、人を妖怪、あるいはそれ以上の化け物に作り変えてしまう劇薬だ。
「治ったから飲まなくなったんじゃない、飲まなくなったから治った……か」
「でも、完全に治ったわけじゃなかったのよ。そもそも入院したのだって、急に意識を失ったからだし……」
そこから先は容易に察せる。また病気を再発した、そう勘違いしたアコが、入手したクスリを兄に飲ませたのだろう。そうして妖化が進行し、あの化け物になった――。
「男の名前は?」
「……浅沼、鯨。私の鞄の中に、名刺が入ってるわ」
そうして看護師より差し出された名刺には、こう記されてあった。
「医療用薬品取扱個人、浅沼鯨……」
――ここまでだ。
ノエが触れられるのはここまで。これ以上は、一介の定食屋の店長がどうこうできる問題ではない。この名刺は然るべきところへ送り届け、それ以上は一切関わらない。そうすることが正解だ。
今回話を聞きに来たのも、ノエが個人的に気になったからに過ぎない。
「話してくれて、ありがとうね」
「……別に」
アコはまた口を閉じ、病室を訪れた時のように押し黙る。
かと思えば口を開き、
「ねえ……知ってるなら教えて。――おにいちゃんを殺したのは、誰」
直接手にかけたのは誰か……それを聞いているのだと言うことは、問わずともわかる。しかし言うかどうかは別の話で、
「オレだよ」
なんてノエの懸念を、子猫はまったく考慮せず。
「オレが殺した。アンタの兄ちゃんじゃない、化け物をだ」
毅然とした態度をどう受け取ったのだろう。アコは「そう、」と呟き、後にこう続けた。
「……ありがとう、なんて、絶対に言わないわ」
「……言ってもらおうとも思ってない」
「化け物になったからって、簡単に殺してしまえるあなたを……私は、絶対に許せない」
「……許してもらおうとも、思ってない」
「――じゃあね、殺人者さん」
「――――」
ノエと子猫は、病室を後にした。
その際、ノエは、とある一言を聞いた。
店から病院まではそれなりの距離がある。となれば当然、自転車が仕事をしているわけだが。
「さ、帰ろうか、子猫ちゃん」
「うん。あー、やっぱ病院って苦手だわ。怪我人とか病人とか、みんなして辛気臭いし。薬品臭いし」
「あー、なるほど。その足、よほど染みたと見える」
「そ、そんなんじゃねーよ!?」
しかしノエは覚えている。傷口に消毒液を当てられた子猫の絶叫を。
先日の事件、被害を被ったのは病院の中庭、そして四〇八号室の窓のみと、非常に小さな範囲に限ったものだった。そのため、三日と待たず病院としての業務は再開した。後日、子猫の怪我を診てもらいに再度訪れたのだ。
「さあ、さっさと帰ろうぜ」
「…………」
よいしょ、と後ろに跨る子猫が、ノエの腰にしがみつく。
「……? あれ、どうしたのノエさん。帰んないの?」
「…………」
「の、ノエさん? おーい、ノエさーん?」
「……子猫ちゃんさあ、」
あえて後ろは振り向かず。
「自分の声、震えてるのわかってる?」
「――――」
ずっと、そう、ずっとだ。隠せてるとでも思ったのだろうか。懸命に平静を装っているが、その声は端々が震えている。
「アタシさ、もう感づいてるだろうけど、子猫ちゃんに隠してることいっぱいあるんだよ。子猫ちゃんもそうだろうけど」
「……うん」
「だからあんまり、こう、なんていうか……偉そうに言えることじゃないんだけど」
「…………うん」
「アタシの前では、強がんなくて良いんだけどなあ、って」
「…………」
子猫は悪くない。そんなの、アコだってわかっている。それでも言わずにいられなかったのだろう。
だから、それを受け止めた子猫は強いと思う。でも、
「泣きそうなら我慢しなくて良いんだよ。それとも、アタシってそんなに信用無い?」
「……ううん」
「そっか、それなら良いんだ。うん」
ノエは自転車を走らせる。
背中に、顔を押し付ける子猫を感じながら。
「アコさんね、最後、『ごめんなさい』って言ってたよ。聞こえてたかい?」
「――ひぐ」
そこで子猫の涙腺は決壊したようで。
子供のように、ではないけれど、必死に、必死に声を押し殺しながら、子猫は泣いていた。
――人妖特区第一番《珠都》、その一角にて。
此度の事件はたった一人の妖怪によって解決された。さしたる被害も無く、死人も無く――否、当事者達からすれば、死人は確かに存在した。
桑島糾。彼もまた、被害者であった。
きっと、誰も幸福にはなれず、落とし所としてはここが限界の。
珠都にて巻き起こる波乱、その一幕は、ここで下ろされる。
◆
「――さて、そろそろ動かねばならないかな」
押しかける人間、妖怪を追い払い、どうにか落ち着くことができ、男は一人呟いた。
気が緩んだ証拠であろう。誰かに聞かれてマズいことは口にしていないが、怪しまれる可能性はなるべく消しておきたい。今の独り言は反省だ。
先日の事件――それは男にとっても好ましくないものだった。しかし幸いにも、被害は最小に抑えられたという。噂によれば、それは、
「御狐神か……」
いわゆるお稲荷様、狐の姿をした神のことである。あるいは、狐そのものを神に見立て、そう称したとも言われている。
妖怪の存在が露わになった現世においても、神といった存在はとても稀有だ。この人妖特区にいたとはとても考えられないが……誰かが名前を騙っているだけやもしれぬし、ただ神と呼ばれている
しかし、存在するならばそれはそれで――。
「我々がしようとしていることも、似たようなものか」
まだ足りない。もっと、人を集めねば。先日の事件により植えられた悪印象、それを払拭するべく、男は動かねばならない。
ああ、やはりこの街は、一筋縄ではいかないようだ。しかし、それを攻略するのもまた愉しみのひとつである。
まずは――、
「この街のヒーローを、仕立てるとしよう。……おっと」
独り言は、男の悪い癖だった。
第一章 妖魔・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます