第三節 御狐神の領域



 夕刻、人の出入りも少なくなりかけている病院を訪れた。

 肩にかけたバッグの中には、昼間、浅沼に手渡された薬が何錠か入っている。これを飲ませれば、快復に向かうらしい――。

 この時のアコには焦りがあったのだ。早く兄をなんとかせねばという、焦り。

 それは冷静な判断というものを曇らせ、予期せぬ事態を引き起こす。……否、それはある人物からすれば、目論見通りのもので。

「本当に、人騒がせなんだから――おにいちゃん」

 そうとは露ほども知らぬアコ。無理やり飲ませたゆえ濡れる兄の口元を拭いつつ、つい先日の出来事を思い出す。それは兄妹でショッピングモールに出かけた時のこと。あの時は、兄がこんな状態になることなんて想像もしなかった。

 つられて思い出される、数々の日常。ああ、いつから、いつからおかしくなったんだっけ。

「また私に心配かけるのね、ひどい」

 いつからかは定かではないが、明らかにおかしかったことならある。突如兄が乱暴になったり、家に帰ってこなかったりしたことがあった。あの時から、既に異変は始まっていたのかもしれない。

 そんな兄が心配でたまらなかった。そんな兄を見ていられなかった。それに比べたら、こうして大人しくしていた方が兄のためなのだろうか?

 ――そんなわけがないだろう。

 そりゃあ、危険なことに首を突っ込まないに越したことはない。

 だけど、それ以上に、こうしてベッドに寝たきりな兄の姿を、見ていたくない。

「早く……早く、起きてよ」

 病室に差し込む夕日は、アコの目元を照らしている。キラリと反射したソレは。

 この時、アコは気づいていなかった。兄の体内で何が起きているのか。

 また、兄の指先が、ピクリと動いたことに。


 ◆


『――さて、湖南さん。今回は現存する村、その中でも最北端と呼ばれる紅染くぜんの里についてですが』

『痛ましい、そして恐ろしい事件ですね……いいえ、もはや災害か? まさか一夜にして、村一つが消えるなど』

『先日のダイダラボッチもそうですが、最近の北海道は何かと物騒ですね』

『紅染に関しては、随分と前から騒がれていたことでもあります。大事件でしたから。もう四ヶ月になりますか……』

『やはり、これも妖怪が引き起こしたものなのでしょうか』

『一概にそうとは言い切れません。なにせ、言ってしまえば単なる山火事ヽヽヽヽヽヽです。自然発火である可能性も捨てきれません。……とは言え、妖怪を妻に持つ私の言葉なので、説得力はないのでしょうが』


 病院は嫌いだ。そう子猫は言うが、ノエはそれほどでもない。いいや、当然、来なくて良いのならば来ることはない。しかし、病院とは安心感のある場所だとも思うのだ。

「バイキンだのなんだのの温床がぁ?」

「アンタは時々、すごく捻くれたことを言うねえ」

 そんなわけで、二人は病院を訪れていた。珠都はそこそこ広い都市ではあるが、病院は一つしかない。新区長の飛騨は、施設の整った病院を増やすことも考えているそうだが、さすがに一朝一夕で叶えられるようなものではない。

 ゆえに、この病院には都市のいたるところから、人間や妖怪を問わず様々な者がやってくる。

 皆苦しんだ表情を浮かべているが、

「こうして同じ空間に、種を問わず一緒にいられるってのは、良いもんじゃないか」

「それが病院で、みんな病人だったり怪我人だったりじゃなけりゃな……ずっと思ってたんだけど、ノエさんってちょっとアレだよな」

「ん?」

「他人を虐めるのが好きな人」

「え」

 心外な評価に一瞬固まる。

 さて、今回はそんな人間や妖怪を見に来たのではない。本来の目的を果たすために、ノエは受付へと向かった。

「……なんていうか、ホント、大げさなんだよなあ」

 子猫の呟きは、ノエには届いていない。

 そもそも、今回二人が病院を訪れたのには理由がある。それは子猫の左足に巻かれた包帯に起因する。

 この下には、少々見た目がグロテスクな傷跡が存在するのだが、それはノエが調子に乗ったゆえ刻まれたものだ。

 わかりやすく言えば、『自転車の練習中に、ノエが思い切りスピードを出したまま手放し、それによってバランスを崩した子猫が転んで石畳に足を擦った』――子猫の左足、その外側には、触るとねちゃあ、とでも言いそうな擦り傷が。

慌てたノエは、大したことないと口にする子猫のことなど無視し、無理やり消毒(子猫からすればこっちの方が痛い)し、ガーゼを当て包帯をし、病院に連れてきたわけだ。

 そもそも、あんな無茶な練習を繰り返せばいつか怪我をするなんてことはわかりきっていただろうに。子猫自身、それをわかっていながら練習していたのだから、ここまでする必要なんて無いのだ。

 そりゃあまあ、多少は反省して欲しいけども。誰がここまでしろと。

「ちょっとした傷なんだから、放っときゃ治るのに――」

「それじゃあ駄目だよ子猫ちゃん。ちょっとした傷を舐めちゃいけない。というか、アンタのはちょっとしたじゃあないでしょう」

「皮膚の表面をベリっといっただけだってば」

「あああああああもうその表現がグロい! とにかく、もう少ししたら呼ばれるから」

 いつの間にか戻ってきていたのか、ノエが子猫の言葉に被せる。

「もう少しねえ……っていうか、平日の真っ昼間なのに、なんでこんなに人がいるんだ」

 子猫の言うとおり、院内のロビーはそれなりに混雑している。それも、この都市に病院が一つしか無いというのが理由である。

 救急であってもそうでなくても、近かろうと遠かろうと、とりあえず患者はここを求めてやってくる。人も多くなろうというものだ。

「……ん?」

 その中に、子猫は見覚えのある姿があるのを確認した。

「どした?」

「いや、あの人。この間、通りで見かけた人だ。やけに派手な格好をした男と一緒だったから覚えてる」

 先日の話だ。ノエは気づかなかったのだが、子猫の話によれば、『呑んだくれ通り』にて、サングラスやらアロハシャツやら奇抜な格好をした男と、少々大人びた格好をした女が話しているのを見かけたんだとか。

 まあそれだけの話なのだが、子猫はどうにも気になったらしい。

 理由を問えば、服装が問題なのではなく、

「男の方……うーん、違うな。えーっと……とにかく、なんか怪しい感じがしたっていうか」

 と曖昧な返答。それはさておき、今受付にて何かしらの手続きを行っている女性は、その時子猫が見た女性だと言う。

「なあノエさん、わかんないか? 今日はあの女の人からもする」

「するって、何が――ああ、これは酷い臭いだ」

 言われてノエも気づく。受付からノエ達が座るソファまでそれなりに距離があるが、それでもわかる。

 何か、良くないものを無茶苦茶にごった返して混ぜ返したかのような。臭いと形容したが、これは気配だ。

 そうこうしている内に女性は手続きを終え、奥へと進んで行く。その先にあるのは、入院している患者の病棟である。

 単なる見舞いだろうか? そうであるなら、何も心配はないのだが――。

 結論から言えば、ノエは「杞憂だろう」と気にしないことにした。気配に敏感なのも考えものだ。人と妖とが共存するこの都市で、人間からそういった気配を感じることはおかしなことではない。少し妙な気配だが、ノエが知らないだけだろう。

 心の内で、そういった誰に向けたわけでもない言い訳を構築しながら、胃の中でザワザワする何かを抑えられない。

 わかっている。これはアレヽヽと似たナニカだ。

 ――参ったな。こういったものには金輪際、関わるつもりなんて無いのに。

 ノエを見つめる子猫の視線が、チクチクと痛みを伴っていた。


 ◆


「――おにいちゃん、今日も来たわ。これ、お昼の分の薬よ」

 言って、しかし何の反応も返ってこないことは知っている。それでも兄に語りかけることを、無駄だとは思いたくなかった。

 兄は今、病気に罹っているだけだ。それも治らないものではなく、適切な処置を施せば治る類の。この薬は身体的な、こうして語りかけることは精神的な処置なのだ。

 本当ならば、四六時中、付きっきりで兄の傍にいたい。しかしアコ達には生活がある。ただでさえ兄の入院費が嵩む中、アコが働く手を休めれば、退院した後が困ろうというもの。そのため朝昼晩、時間を見て兄の元を訪れているのだ。特に昼は、休憩時間に抜け出してきているため特に時間が無い。

 早く薬を飲ませ、帰らないと。

 取り出したのは一錠の薬。医者にも内緒にしつつ飲ませ始めて三日。そろそろ何か変化は無いか――淡い願いを抱きつつ、今日もまた、その口元に薬を寄せる。

 押し込み、水を流し込む。意識が無いためか、水は溢れ口元を濡らす。それをアコが受け止め拭う。

「おにいちゃん……」

 ふと、アコの頬を涙が伝う。

 何度もこの行為を繰り返す内に、何度も思い出が脳裏を過るのだ。

 楽しかった時間を、悲しかった時間を。兄妹として過ごした時間を、もう二度と経験できないのだろうか?

 そんなの、そんなのは――あまりにも、残酷過ぎやしないだろうか。

「起きて、起きてよおにいちゃん……!」

 幾度と口にした言葉を、泣き声を押し殺しながら呟く。

 呟いて、呟いて――そして。















「……アコ?」


 ――――、え?

「おにいちゃん? おにいちゃん!?」

「アコ……」

 声が、聞こえる。

 兄の声が、声が、声が。

 おにいちゃんの声が――!!


 ざく。


 ――――、え?

「おにい、ちゃ……?」

「アコ……」

 声が、聞こえる。

 兄の声が、すぐ近く、耳元で。

 目に映ったのは、人のものとは思えないほどに伸びた犬歯。それを剥き出しにした兄は、アコの首元に食らいついていた。

 じくじくと痛む首。何が起こったのかと理解する前に、意識が遠のいていく。

 あ、な? いま、すわ……。


 血を、吸われている?


 意識が、途絶える。


 ◆


 何かが割れる音を聞いたのは、今にも飛び出そうとしていた子猫を抑えて数分が経過そた時だった。

 何か――窓?

 その音に気を取られていたためか、子猫を抑える力は緩くなり、

「あ、こら!」

 子猫はノエの拘束を振り払い、病棟へと向かってしまった。

 その後を追おうとしてすぐ、次はドシンと強烈な振動に襲われる。大きなものが落下した?

 割れた窓から、何かが飛び降りた?

「――――」

 ノエは子猫を追わず、正面玄関から外に出た。間取りからして、病棟は玄関を出て右。中庭へと繋がっている道を通り、その姿を視界に収める。

「……化け物?」

 そこにいたのは、明らかに人間ではなく――また、妖怪とも言い難い奇妙な物体。

 その巨躯が踏み締めた芝は、硫酸でも滴ったかのように蒸発している。溢れる黒い煙は有害そのもので、生理的な嫌悪を催させた。

 異物。人でも妖でもない、この世にあってはならないもの。呪いの類。

 その関節は幾つあるのだろうか。奇妙な方向へとねじ曲がる手足は、ずんぐりとした丸い胴体を支えながら振り回されている。顔らしき箇所にはただ、口だけが存在していて――鋭い牙も見える。

 その視線が、ノエを捉えた気がした。目に当たる部分が見受けられないため、あくまでも『気がした』だが……その口元が、ニタァと歪められる。

「ああ、マズいねえこれ」

 どうする、などといった問答は無駄だ。ノエにはどうすることもできない。

 限定条件下であれば、この化け物をどうにかする術を、ノエは持っている。しかし、今はその条件下にないのだから考慮するのもまた時間の無駄で――、

 思考は、化け物が動き出したことによって遮られる。

 ぐりん、と全身をノエに向け、気味の悪い手足をケタケタと嗤わせる。それらを振り回し、その巨躯からは想像もできない身軽さでノエに迫ってくる。

「嘘ッ……」

 この狭い中庭で逃げ回るのは無謀だ。

 ではどうしろと?

「らぁあああああああああああ!!」

 その声は、天から響いた。

 シュボッ――まるで、薪木が一瞬で燃えるように。ノエの目の前には、炎が降り注いだ。

 目前まで迫っていた化け物は、炎を恐れるかのように動きを止める。

 白く……白い、炎だ。雪華を彷彿とさせる、白銀の炎。それを背に立つのは、ノエの見知った顔。

「ノエさんッ、立てるか!?」

 可愛らしく、とても女らしい顔だと思っていた。しかし、なかなかどうして……こうしてノエの前に立つ子猫ヽヽは、とても凛々しい顔つきであった。

「子猫ちゃん、アンタ……」

「四〇八号室、倒れてる女の人がいる! さっきの人だ! 気を失ってるんだ、だから――」

 そこから先の言葉は言わずとも理解できた。しかし、この状況で子猫を置いて行けと言うのだろうか。

「オレは大丈夫だから。……というか、見た感じ、ノエさんよりかは役に立つぜ?」

「それは、そうだろうけど……」

 子猫ちゃん、アンタいったい、何者なんだい。

「――――――――ッッッ!!!!」

 その言葉を告げることは叶わず。化け物が上げる雄叫びに、二人の声は掻き消されてしまう。

 かろうじて見えたのは、動く子猫の口元。

 ――良いから、行けッ!!

 ノエは後ろ髪を引かれる思いで、子猫に背を向けた。



 ノエは、あの化け物から感じる気配――それに似た何かを知っている。あるいは自分こそが、それに近い何かであることを知っている。

 だからこそ、子猫一人を置いていくなんて真似に胃壁が擦り切れそうで。

「なんだよ、何が起きて……!?」

「あ、おい姐ちゃん、今中庭の方から来たけど――」

「うっさい、どけ!!」

 中庭へ向かおうとする野次馬を掻き分けながら、正面玄関へと辿り着く。ロビーも大混乱で、逃げ惑う人、ガタガタ震える人と様々である。そんなロビーを脇目に病棟へ続く渡り廊下を走る。

 四〇八号室、普通に考えれば四階だ。エレベーターが機能しているとも考えにくい。ノエの身体能力であれば、階段で向かう方が早い。

 階段を二段、三段とは言わず豪快に一〇段飛ばしで駆け上がる。途中下へ逃げようとする者にぶつかりかけたが、謝る暇すら惜しくて何も言わずに駆け抜けた。

 そして辿り着いた四階。四〇八号室の前にも野次馬は集まっていて。

「中に、入れろってんだ……!」

 押し合いへし合い、どうにか中に割り込んで見た光景は。

 倒れる例の女性と、介抱していると思しき看護師だった。

「大丈夫ですか? 大丈夫ですか!?」

 その首元から滴り落ちる赤い液体。詳しくなくとも、それが血であることは明白である。

 なんだこの傷は。まるで、吸血鬼にでも噛まれたかのような――。


 ◆


 ――巨大な化け物を前にして、子猫は臆することがなかった。

 むしろ、ああ、かわいそうに――なんて思う余裕すらあった。

 これは、自然に生まれた化け物ではない。何かしらの外的要因によって生み出された、忌むべき悪しきモノ。

 元が妖怪だったのか、それとも人間だったのかさえ判別できぬほど、この化け物には混ざっているヽヽヽヽヽヽ

 元が何かわからないからと言って、殺すのを躊躇うようなこともない。――殺す? ああ、殺さねばならない。

 これは、この世に害をなすモノだ。

 子猫は、甚平の懐からあるものを取り出した。それは刃渡り三〇センチ程度の小刀。鞘から抜いたその刃は錆びているヽヽヽヽヽ

 ――ひとつ、この世界の常識の話をしよう。

 十数年前、人妖戦争というものが起きていた。それは既に終結したのだが……人と妖とが共存するにあたり、幾つかの条約が交わされた。

 その中に、『互いの種、その個人が武器を所持することを禁ずる』という取り決めがある。これは人妖戦争以前から日本の法律に存在する銃刀法と大差は無い。大差は無い、が――、一度、戦争で無かったことになったも同然の法律だ。人々の認識にも大きなズレが生じたのである。

 つまり、

 錆びているならばヽヽヽヽヽヽヽヽ弾丸を放てないのならばヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ、それは『武器』には為りえない。

 とんち、屁理屈。されど誰もが暗黙の了解として受け入れている、不可思議な常識。

 子猫が持つ錆びた小刀は、そんな常識に則ったものなのだ。

 しかし、だからなんだと言うのか。こんな錆びた小刀で、この化け物をどうにかできると言うのだろうか。

 きっと、ノエならばそう言っただろう。というか絶対に言う。言って、子猫をこの戦場から引き剥がそうとしたことだろう。

「――――ッッッ!!!!」

 化け物が子猫に迫る。それを小刀より放った炎で目眩ましをしつつ避けたが、やはり目眩ましが効いていない。目が無いならばどのようにして子猫の位置を把握しているのか――音、あるいは匂いか。

 まずは聴覚を潰してしまおう。子猫は一度取った距離を再度詰める。迎撃に充てがわれるは両の手。異常な関節の多さから繰り出される予測不能な攻撃を、子猫はすんでのところで躱していく。そして辿り着く、化け物の口。その牙に、小刀を全力で叩きつけた。

 ッキィィィィイイイン!!

 鳴り響く甲高い音。全力で叩きつけたつもりだったが、牙には傷一つ付いていない。

 折れれば儲けものだったが……とはいえ、目的は達した。子猫自身もじゃっかん聴覚に違和を感じるが、こちらには視覚がある。

 化け物は突然の衝撃に慌てているようで、手足が無差別に振り回される。

 しかしそれも束の間、すぐに全身をグリン、と言わせ、正面に子猫を据える。

「じゃあ嗅覚か……?」

 潰すならば相手の鼻が常套だが、生憎と鼻と思しきところがわからない。ならば逆、

「オレの匂いを消すか、充満させるか」

 後者は難しい。前者ならば――子猫の力で、可能だ。

 ――燃やせ、燃やせ。後のことなんて考えなくていい。

 子猫の足元から広がる白銀の炎。それは中庭のあらゆる草木を燃やし、燃やし、燃やす。匂いで子猫の位置を特定できるほどに強い嗅覚ならば、

「何かが燃える匂いってのは、キツいだろ」

 ビクッと化け物の動きが止まった。今だ……!!

 そして、子猫が一歩を踏み出したその瞬間、


 グリン!!


「な」

 聴覚は潰した、嗅覚も潰した。視覚は元々存在せず、ならばどうして、どうやって。

 どうやって子猫の位置を識っている?

 もしかしたら、勘違いしていたのかもしれない。そのことに気づいた子猫は動きを止め――駄目だ、間に合わない――その腕に、掴まれた。


 ◆


 ――痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。熱い。

 視界は真っ暗で、何も聞こえなくて、味も匂いも、当然しなくて。

 この感覚は……そう、居間で寝ている時の感覚と似ている。

 夕方、妹より先に帰ると、よく居間で寝ていた。今日も疲れた、なんて言いながら、妹が帰ってくるのを待っている。

 そして妹が帰ってくると、そうやって混濁した意識の中でもわかるのだ。

 全身に伝わる足音、その振動で――。

 ……だけど、なんだろう。今、こうして伝わってくる振動は、妹のものではない。

 虫、悪い虫だ。

 この、この。すばしっこい奴め。何かとつきまとってきやがって。

 払っても払ってもキリが無く、あろうことか攻撃までしてきた。鬱陶しい。

 だが、それもここまでだ。

 ――そら、


 ◆


「つゥかまァえたァ」


「…………ッ!」

 ゾクリ。全身を悪寒が包む。ねっとりとした声が発され、汚い口内が大きく開かれる。

 ああ、捕まった。これで終わりだ。

 しかし、

「終わりは終わりでも、おまえの終わりだ――ッ!!」

 直後、子猫の全身が炎に包まれた。当然、子猫を掴む腕ごと焼かれることになるが……先程から、この化け物、視覚も聴覚も嗅覚もまるで感じられない。ならばどうやって子猫の位置を探っているのかを考えた結果辿り着いた答え。

 触覚。地面を伝わる振動を頼りに、子猫を追っていたのではないだろうか。

 ならば、熱い、といった感覚も当然存在するわけで。

 思い返してみれば、最初にノエと化け物の間に割り込んだ時、この化け物は火を避けていたではないか。

 ああ、ならば――ならば、簡単なことだ。

 この炎が化け物に対し、有効だと言うのなら。

「ッッッ!!!!」

 化け物が子猫を掴む力を緩め、抜け出すことに成功する。そうして降り立つ子猫の姿は、白く輝いていた。

 ――頭部に現れる尖った獣耳。

 ――臀部に現れる、毛並みの整った大きな尻尾。

 それを形容するならば、まさしく。

「形勢逆転の時間だ、悪鬼」

 ――狐。

 錆びた小刀に火が灯る。揺れる火に合わせてたなびく白い長髪。

 現れるは、化け物を中心に囲うようにして沸き立つ炎陣。それは少しずつ、化け物を焼き焦がさんと小さくなっていく。

「この都市まちであんまり暴れるなよ。ここはもう――、」

 そして、火が消える。


「――御狐神みけつがみの領域だ」


 ……後には、塵すら残らなかった。


 ◆


 その事件は、瞬く間に街中に広がった。

 この都市は人妖特区――人と妖とが住まう、逆に言えば人ばかりが住む通常の都市に比べ、危険が多い街だ。これまでは取り立てて大きな事件は起きなかったが、今回をキッカケに、その危険性を問題視されることとなった。


『飛騨区長、今回の事件の原因としましては――』

『現在調査中につき、私から言えることは何も』

『最近、多くの人間を街に招かれているようですが、今回の事件を受けての影響は――』


 今の時代、妖怪絡みの事件に関しては警察も上手く機能しない。そのために『祓魔師』という存在があるらしいが、それもまだ盤石ではない。起こった事件の責任は、自然と区長である飛騨へと寄せられてしまう。

 偉い人、というのも存外、大変な立場であることをノエは思い知った。

 だが、飛騨区長のことばかりを考えてもいられない。今回の事件、ノエや子猫もまた、当事者の一人なのである。

 特に子猫が酷かった。周囲が炎に包まれていたため、ハッキリと目撃した者はいなかったらしいが、それでもぼんやりと、子猫があの黒い化け物と戦う姿、その目撃者は存在している。今はまだ誤魔化せているが、バレるのも時間の問題ではないだろうか。

 しかし、子猫はあっけらかんと言う。

「問題ないよ。オレがアレと戦ってるとこ、本当にちゃんと覚えてる人なんていやしない。せいぜい、『誰かがアレと戦ってなんとかした』程度の認識だ」

 まるで確信しているかのように語るので、ノエはそれ以上追求はしなかった。しなかったが……ますます、この子は何者なのか、という疑念が深まった。

 しかし、正体を隠しているという点に置いてはノエも人のことを言えない。ゆえに、深く追求できないのだ。

 さて、子猫が化け物と戦っている間の話をしよう。四〇八号室にて倒れていた女性を見つけ、その傷の特異性に気づいた後の話だ。


 ◆


「吸血鬼みたいな、傷跡……」

 ノエはその傷口に、呪いにも似た何か、そんな気配を感じ取った。ロビーで女性から感じた薄い気配ではなく、もっと直接的なものだ。

 このままでは危険だ。そう判断したノエは、看護師を押しのけその傷口を見やる。

「血を吸われた……それだけじゃない、何かを流し込まれた? マズい、吸い出さないと……!」

「ちょっと、何して――」

「ガーゼ、消毒液! あと人払い! 野次馬が邪魔だ! 早くしろッ!!」

「え、あ」

 ノエの言葉に看護師は一瞬たじろぎ、しかし意を決したのか、すぐに動き出す。部屋を覗く野次馬を押しやり、その扉を閉めた。ガーゼ、消毒液はこの場にあるのか、何やらゴソゴソとしている。

 ノエはと言えば、その傷口に口を付けていた。

 この傷はいつ付けられた? さっきの化け物だとすれば、そう時間は経っていないはず……!

 血を吸い、吐き出す。それを繰り返し、しばらくして看護師が持ってきた消毒液で傷口を消毒、ガーゼで出血を抑える。

 この方法で本当に効果があるかなんてわからない。けれど、ノエにできる処置と言えばこれくらいだ。

「毒、ですか?」

 看護師の問いに首を振る。

「呪い。それもとびきり悪質なやつ、だと思う」

「……もしかして、この病室にいた男性も、呪われていたんでしょうか」

 呪いという単語に驚く様子も無く、看護師は淡々と問いを続けた。

「私の祖母が霊媒師で。呪いや祟りなんかの話はかなり聞かされたんです」

 なるほど。このご時世、そういったものを馬鹿にできなくなりつつある。昔はインチキだ詐欺だと煙たがられたらしいそんな職も、今では重宝されるのだろう。

 しかしそれは後。今は、

「病室にいた男性……?」

「はい。この数日で入院為された患者ですが……植物状態。何をしても意識が無い状態でした。そしてこの女性は、その男性の妹さんで」

 ――――。つまり、今外で子猫が戦っている化け物は、

「その、男性……」

 なぜだ。通常、ただの人間があんな化け物になるなど有り得ない。そんな可能性があるのだとしたら、何かしらの外的要因があったとしか。

 そしてもし、その外的要因が恣意的なものだとしたら、非人道的どころの騒ぎではない。ともすれば、

「また戦争が起きるぞ……!」

 そうした懸念を漏らした直後、ノエの視界にとあるモノが入る。

 おそらく、それこそが今回の元凶――、

「クスリ……」

 目を覚ましたら、この女性を問い詰める必要がありそうだ。


 ◆


 事件から一週間が経過し、街も次第に落ち着きを取り戻し始めた頃。

 依然、区長に詰め寄る記者は後を絶たないそうだが、ノエたちには関係無い。ノエは子猫と、再度病院を訪れていた。

 看護師から連絡が入ったのだ。あの女性が目覚めた、と。

 病院の受付にて事情を説明すると、既に話は通っているそうですんなりと病室に通された。番号は四〇七号室。例の病室の隣だ。

 ノックをすると、「どうぞー」と中から例の看護師の声が聞こえた。

「お久しぶりです、九重さん」

「どうも……ノエで良いですってば」

 どうにもあれ以来、看護師の女性に懐かれ、連絡先まで交換する羽目になった。子猫からすれば、「連絡する交換先なんてあったの!?」と、ノエが連絡手段を持っていることに驚愕らしい。

 というか、そうしてわかったのだが、この看護師、患者のプライベートとかの扱いが粗雑過ぎる。

「あなただからですよ」

「理由になってない……それより、クワシマさんは」

「……ほら」

 ベッドで身体を起こす女性――桑島安心アコは、それは酷い顔をしていた。それもそのはずだ。

 なにせ、血の繋がった兄が化け物になり、そして……死んだのだから。

 看護師の話によれば、酷い取り乱しっぷりだったと言う。やたらと伸びた爪で所構わず引っ掻き回し、奇声を上げ、落ち着いたかと思えば泣き止まない。

 今でこそこうして大人しいが、少しでも地雷を踏めば興奮は避けられないだろう。

 見れば、看護師の腕にも引っかき傷が見受けられる。

「……桑島アコさん。あー、アタシは別に刑事でもなんでも無い、単なる定食屋の女なんだけど。ちょっと気になることがあって、こうして無理言って面会を頼みました。そこんところはよろしい?」

「…………」

 アコは言葉を発さず、ただじっとノエを睨むに留まる。

 そんなアコに、ノエはとあるモノを見せつける。

「このクスリ……アンタの持ち物の中にあったんだけど。どこで手に入れたの」

「……ああ、」

 ようやく聞く事の出来た声は、随分と低く、生気が感じられず。

「元はと言えば、何もかも、それが元凶なのよね……そんなことも知らず、私は、」

 段々と震えていく声。

「私は、私が……!」

 それは懺悔のようにも聞こえた。


 私が、おにいちゃんを殺したなんて。


 アコの悲痛が、病室内に伝播する。


 

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