第二節 開典、開店、廻転



 熱い――はて、自分は火の中にいるのだろうか。それを肯定するには、あまりにも視界が暗すぎる。暗澹とした意識の中で、己に起きた異常に顔を歪ませる。

 この熱は外部から与えられたものではない。自らの内より発せられている熱だ。おそらく『あの日』に流し込まれたものが原因だろう。

 大丈夫、まだ大丈夫だ。苦しいのは確かだが、未だ正常な判断力は失われていない。冷静にいろ。考えることができるなら、人はなんだってできる。

 妹はまだ出先のはずだ。帰ってくる前に平静を装わねば。妹にだけは、こんな姿を見せるわけにはいかない。

 ああ、燃える、燃える。いっそ水でも浴びればこの熱も収まるのだろうか。

「ぐ、が、……ァ」

 ――マズい。

 何かが、出て来る。

 先程から己を蝕むこの熱は、まるで生き物のように全身を蹂躙し始めた。腹を越え、四肢を越え、一周して心臓を喰らい、脳さえも犯す。

 身体の自由が効かず、肌が張り裂けそうになり――何かが、何かが皮膚を食い破り、外へと這い出ようとしている。

 させてなるものか。こんなものが出てきたのなら、酷いことになる。

 具体的にどう酷いかなんて説明できやしない。これは人が持つ本能からの訴えだ。

 この意識を手放してなるものか。明け渡してなるものか。

「っ、ぅ……アコ……!」

 繰り返せ、最愛の妹の名を。なんでも良い、しがみつけ。

「アコ、アコ、アコ……!」


 ――それが、名残か。


「ッ、あ?」

 不意に、緊張の糸が切れた。

 だって、なんで、え?

「――苦しそうね、おにいちゃん」

 目の前に現れた、一人の女の子。もう何年の付き合いだと思っている。その姿は、紛れもなく、

「なんで、なんで……アコッ!?」

 おかしい、だって、妹が帰ってくるには早すぎる。

 しかし事実として、今目の前には妹が立っていて。

 ――いや待て、おかしいだろう。さっきまで視界はハッキリとせず、自分がどこにいるのかさえも曖昧だったのだ。なのになぜこうも、妹の姿はしっかりと見えるのか?

 大丈夫だ、冷静だ。己を見失ってなんかいない。

 ……しかし、

「あ、アコ、アコ、アコ、……あああああああああ!!」

 もう、苦しくて仕方がない。

 全身を巡る熱は、まるで血が熱湯にでもなったかのようで。

 激しく襲う頭痛は、まるで熱した鉄板でプレスされているかのようで。

 ――もう、疲れた。


 ……そうして男は、ずっと繋いできた意識を手放した。たった一度見せられた妹の幻影によって、その理性は完全に絶ち消えてしまったのである。

 まるでこの時を待っていたかのように、熱源はその動きを活発化させて行く。

 ああ、ああ、作り変えられていく。四肢が――臓腑が――血管が――脳が――人格までもが。

 その意識が途切れる間際、男は震える口で呟いた。


「……怨めしい」


 この世の何もかもが、怨めしい。


 ◆


 この人妖特区『珠都』を訪れて、すでに長い月日が経った。少女――桑島クワシマ安心アコが本州の学校に通っていたのは高校生まで。その後は、兄についてくる形でこの街で暮らすようになった。

 両親はすでに他界しており、兄との二人暮らし。食い扶持は兄が稼いでくるも、正直厳しい面がある。ゆえにアコは、大学を受験せずアルバイトに日々を費やしていた。

 それが苦だと思ったことはない。……などと言えるわけがなく。当然、苦労ばかりの毎日が嫌になって、何度か自殺さえも考えた。しかし、その度に兄に止められた。

『……ごめん』

 謝るのはいつだって兄からだった。何か負い目を感じているらしいが、それがアコには理解できない。

 アコが自殺を試みるのは、決して兄のせいではない。普通ではない街での、普通ではない生活。金銭の融通が効かない貧乏な暮らし。理由はいくらでも思いつけど、そのどれも、兄が原因と呼べるものはない。

 実際、理由なんてどうでもいいのだが、そこだけは勘違いしてもらっては困る。兄が気に病む必要は全く無い。

 だから、

「おにいちゃんには、もっと笑っていてほしいの」

 なのに、

「なのに……なんで、どうして何も言ってくれないのよ……ねえ」

 バイトから帰ってきて、真っ先にアコが見たのは玄関先に倒れ伏す兄の姿だった。何事かと抱き起こすも、何の反応もなく。ふと視界に入ったその顔は、とても不気味であった。

 生気が感じられないのだ。目が虚ろで焦点が合わず、おそらく意識も混濁の最中であろう。とりあえずとばかりに、布団に横にさせた。

 異常だ。アコの兄と言えば本来、前述した状況を除けば、とても明るい人間である。それも妹のアコ絡みであれば、留まるところを知らないレベルでうるさくなる、妹の目から見ても重度のシスコン。

 そんな兄が、妹である自分の呼びかけに答えない。

 病院に連れて行ってどうにかなるのだろうか。アテにはできないが、現状それくらいしかできることはない。

「病院……この街の病院……」

 確か、兄が掛かり付けになっていた病院の診察券があったはずだ。そう思い兄の財布を漁り、目的のものを見つける。これで診察を受けられるはずだ。

 ……それと同時に、何やら気になる名刺が見つかった。

「医療薬物取扱個人……浅沼アサヌマクジラ?」

 兄の話からは訊いたことのない名だ。それに医療薬物取扱個人? そんな大仰な看板を掲げた相手と付き合う理由なぞ――いや、ああ、そうか。

「そういえば、ここに来る前はよくサプリメント飲んでたっけ」

 健康を保つために、と言っていたが、ついぞアコには触らせなかった錠剤。アレを斡旋していたのが、この浅沼という人物なのだろうか。

 ……もし、あの錠剤をこの症状を抑えるために服用していたのだとしたら。

 いいや、まずは病院だ。そんな不確定なモノに頼るべきではない。

「今度は、私が助ける番ね、おにいちゃん」



 症状不明。無情な診察結果に打ちのめされ、アコは病院のソファで天井を仰ぐ。経過観察ということで入院することになったが、正直言えば金銭的に苦しい部分がある。これで治るという絶対的な結果が約束されるのなら満足。しかし、見通し不安では。

 ざわざわと騒がしい病院のロビー。異形がそこかしこに存在する、なんとも言えぬ空間。

 唐傘小僧、ろくろ首、烏天狗、雪女。ひと目で分かるのはそのくらいで、他はどうにも判別できない妖怪ばかり。この街ではこれが正常――否、今やこの日本では、か。

 十数年前にあったとされる人妖戦争。アコが生まれたばかりの頃の話だ。兄の話では、凄惨な事件が多発し、法律なんてあってないような状態で、まさに地獄とも言える戦争だったらしい。当時が地獄だったと言うのなら、争った二種がこうして共存する世界はなんだ?

 どうして一緒に暮らせるというのだろう、人と、妖怪とが。

「私には、わからないわよ……」

 ポツリ、呟いた言葉は周囲の騒がしさに掻き消される。

 両親が死に、暮らす場所すら手放し、そんな兄妹を受け入れてくれたこの街には感謝している。だがそれとこれとは話が別だ。

 だって、きっと、アコ達の両親の死には――妖怪が関わっているのだから。

 許してはならない、許せるはずがない。アコ達幸せな一家の未来を奪った妖怪を、絶対に許さない。

 ……世を恨むのはここまでにしよう。今はもっと、建設的に物事を考えねば。すなわち、どうすれば兄は快復するのか。

 だがアコは、次に打つ手を既に決めていた。というか、診察で症状不明と下された時点で手段なぞ選んでいられなくなった。

 つまるところ、取り出したのは例の名刺。

 ロビーを出て、人通りの少ない路地へと移動する。

 ツ――、ツ――、ガチャ。

『はいもしもし、こちら浅沼の携帯となっております。ええと、まずはお名前をお教え頂けないッスか?』

「……桑島アコ。桑島アザナの妹です」

『――ああ、なるほど』


 それは地獄の釜の蓋。開けてはならない経典、あるいはパンドラの匣――。


 ◆


『先日、自然災害に指定されている妖怪、ダイダラボッチの出現により一つの街、その半分が壊滅してしまいました。幸い、住民の避難は済んでいて被害は最小に抑えられたそうです。現在は人妖特区である珠都への受け入れが完了していますが……湖南コナミさん、人妖戦争後、やけに妖怪の活動が活発化しているかのように見えます。何か原因があるのでしょうか?』

『ええ……本来妖怪とは、滅多に人前に現れない存在でした。しかし戦争を経て、今世の中では多くの妖怪が、人間と同じように生活しています。かく言う私も、実は妻が妖怪でして。人妖戦争以前からも人と妖怪の夫婦はひっそりと、それなりにいたのですが……おっと、話が逸れましたね。ええと、それで……そう、その恥ずかしがり屋の妖怪ですが、これだけ多くの人間に知覚されると、その存在も強く保持されてしまいます。例えば今回のダイダラボッチなんかは、妖怪の存在が信じられていなかった昔は架空の生き物でしかなく――』


 京の都を再現したかのような、雅な雰囲気匂わせる珠都の西区域――その一角、『呑んだくれ通り』は、通りに面した店のほとんどが居酒屋である。その為、昼間は人通りが全くと言っていいほど無い。

 そんな通りでなければできないであろう、こんなことは。

「ほら、手ぇ離すぞー」

「え、あ、ちょ駄目、駄目だっ、てぇええぇぇえええ!?」

 フラフラ、フラフラ、がちゃーん。

 ノエが手を離して三秒、子猫は何度目か、呆気なく地面に倒れた。

「なんで!? ねえなんで手ぇ離すの!? 駄目だって言ってんじゃん!?」

「えー? いつまでも支えて貰ってちゃ、乗れるもんも乗れないでしょ。馬鹿だねえ」

「乗る取っ掛かりすら掴めねえんだけど!」

 こんなこと、とは、つまり自転車に乗る練習である。店の目の前で、人通りが無く、そこそこ広い。これ以上に無い最適解である。

 いいや、実は、ノエは先日訪れた公園での練習を勧めたのだが、子猫がそれをどうしても嫌がった。曰く、子供の前で醜態を晒したくない、と。

「ここだって、人通りが少ない程度で人は通るんだけどなあ」

「え」

 がちゃーん。本日、通算四度目の転倒である。

「ここ、人来るの……?」

「当たり前でしょうに。この前来た修学旅行生を忘れた?」

 アレはかなりの例外だが、そうでなくても自店の仕込みに奔走する店長連中、近道だからとここを通る者(どこへ向かえばこの通りが近道になるのかはわからない)、他にも様々だ。まあ、その絶対数は確かに少ないのだが。

「うえ……じゃあどこで練習すりゃ良いんだよ……」

「別に見られても良いんじゃないの。世の中にどんだけ乗れない人がいると思って」

「むう……」

 自転車に乗れないのは恥ずかしいことではない。ましてや、乗ろうと練習している者を笑うなぞもってのほかだ。

 なんて言っても、どうせ聞きやしないのだろうけど。「オレが欲しいって言ったんだから、乗れるようにならないと」、とか言っていたほどだ。微笑ましい。

「良いかい子猫ちゃん、自転車に乗るコツは――ん?」

「ん?」

 何度も言った通り、『呑んだくれ通り』は人通りが非常に少ない。正確に言えば、昼間は、という言葉が頭に付く。夕方になれば続々と人がやってきて、居酒屋へとなだれ込んでいくのだ。

 そして今は真っ昼間。人通りが非常に少ないのが当たり前で……であれば、通りの向こうに見える、蠢く黒い何かはなんだろうか。ノエの目が悪くなっていなければ、アレは人の群れに見えるのだが。

「わ、わあ……ホントに人が来た。ノエさん、嘘言ってんじゃなかったんだ」

「いや、うん、嘘ではないけど……え、えー」

 その影はどんどんと大きくなり、ついにノエ達の目の前まで来てしまった。

「おや、こんにちは。この街の方でしょうか? 少々お尋ね申したいのですが……」

 話しかけてきたのは、やや小太りの中年男性。頭皮が薄く、いかにもといった風体である。

「この通りは『呑んだくれ通り』で合っていますか?」

「ええ、まあ……」

 ノエが答えると、男は安心したのか胸を撫で下ろし、

「ああ、良かった! いえ、あまりにも人気が無いものですから……ここは西区域の中でも人気の通りだと聞いたもので、不安になりまして」

「無理も無いですよ、この通りが人気なのは夕方から深夜にかけてですし。昼間はほとんどの店が開いてませんので」

「なるほど、居酒屋……それで『呑んだくれ通り』なのですね。いやはや、助かりました。……ああ、挨拶が遅れました。私、美津濃ミズノ市の市長を勤めさせていただいております、阿笠アガサ弘幸ヒロユキと申します」

「美津濃市?」

 珠都より電車で一時間の位置にある市の名前だったか。いいや、そうでなく、つい最近どこかで耳にしたような。

「ダイダラボッチが出た街だよ。ノエさん、ニュース見てないのか?」

「あ、あー……え、アレ美津濃だったの。知らなかった。しっかりしてるなあ、子猫ちゃん」

「ここで子猫ちゃんソレはやめて、マジで……」

 顔を真っ赤にして伏せてしまった。市長の後ろにいる多くの人を意識してのことだろう。

 さて、これでこの人達は誰なのか、という疑問に答えが出た。ダイダラボッチの影響で住む家を追われ、この珠都に受け入れられた人達だ。

「本当、飛騨ヒダ区長には感謝しております。妖怪に関する災害の後処理なんて初めてのことで、少々戸惑っていたので」

「今日はこの人達に街案内ですか?」

「ええ、そうです。私は市長としてはあまりに未熟です……今回でソレを強く思い知らされました。それと同時に、未熟なりにできることをしなければと思いまして。それで飛騨区長に、この街に来たばかりで不安を抱いている市民の方々に街案内をさせてはくれないか、と提案したところ、快く承諾してくださったのです」

 なるほど。この人妖特区の区長、確か飛騨光実テルミと言ったか。他所から修学旅行生を募ったり、難民を受け入れたり、どこぞの無能お役人に比べてかなりの働き者である。目の前の市長もそうだが、お飾りだけではないということか。

 自分のことでは無いのに、どうも嬉しくなってくる。

「流石に移ってきた市民全員とはいきませんでしたが、日を分けて何度か行おうと考えていますので、またお目にかかることもあるかもしれません。その時はお騒がせしますが……」

「いえいえ、そんな。むしろ賑やかになって良いですよ。日中は静か過ぎますから」

 ああ、そうだ。ついでだし、とノエは市長の後ろに控える市民に対し声を張り上げる。

「みなさーん! 和風定食『九重亭』、この『呑んだくれ通り』で唯一(たぶん)! 昼間も開店している店でございまーす! 近辺をお立ち寄りの際は是非ご贔屓に! 可愛い店員もいますよー!!」

「えッ?」

 背後から子猫の引き攣った声が聞こえた。

 市長、そして大勢の市民がぞろぞろと呑んだくれ通りを歩いて行く。滅多に見ることのできない光景を見送りつつ、背中をポカポカと叩く子猫をいなす。

 この先には京の都よろしく、碁盤のような正方形の区画が待ち受ける。観光しがいのある場所なので、市長の舌もよく回ることだろう。彼らが少しでも早く馴染み、そして少しでも早く元の街に戻れることを祈りながら、ノエは親指を立てる。

「区長、良い仕事するねえ」

 明日から店が賑わうことを願い、子猫の自転車の練習を再開した。


 ◆


「――いやあ、ここは遠いッスねえ。本州を出るの、あんまり慣れてなくって疲れちゃいましたよ」

 連絡してから二日。街に着いたとの連絡を受け、アコは待ち合わせの場所に来ていた。

 その男はやたらと軽薄な口調で言いよってきた。予めこちらの外見的な特徴は伝えていたためか、男はアコの名前を聞かなかった。

「それじゃあ、場所を変えましょうか。ここはあまりにも人が多すぎる」

「……? なんでですか?」

「いやあ、ははは。人が多い場所って苦手なんスよ、ボク。人から向けられる視線に耐えられないっていうか」

 そんなことを言いながら、男――浅沼の姿は人の目を引くものであった。派手なアロハシャツの上にストールを羽織り、真っ白なカーゴパンツには炎のイラスト、足元はビーチサンダルである。加えて、麦わら帽子にサングラス。ここは南国の島だったろうか。

 どうにも信用ならない男であったが、今はこの男だけが頼りなのだ。ひとまずは言うことに従うほかない。

「……人目が気にならない場所と言うなら、うってつけの場所があります」

「おっ、ホントッスか? あー、それと、敬語とか無しで良いッスよ。お兄さん……アザナくんの妹さんとあれば、ね」

「――そう。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ」

「うんうん、強気な妹さんだ。こんな良い女を妹に持つアザナくんは幸せ者ッスねえ……今は、ちょっと危険な状態っぽいケド……おっと」

 五月蝿い、と睨みつけると、浅沼はおどけて見せ、その肩を竦める。

「おー、恐い。それで? うってつけの場所とはどこなんスかね」

「大通りを西に逸れると『呑んだくれ通り』って場所があるの。居酒屋ばかりが並んでて、昼間は人通りが少ないわ。全く無い、というわけじゃないけど、それで十分でしょう?」

「へー、なるほどなるほど。じゃあそこにしやしょう」

「二〇分くらい歩くけど、良いわよね」

「アレ、結構遠い?」

 ここは人妖特区。そこらの街に比べ、やたらと妖怪が多い。人気が無くとも、それこそ壁や障子から覗かれ聞かれ、なんてことも不思議ではないのだ。この街で内緒話をしたいと言うのであれば、人も妖怪も昼間は寄り付かない『呑んだくれ通り』が最適なのだ。

「それとも、気になるのは人目ヽヽだけだったかしら。それならもっと色んな場所に、それこそ歩いて五分の場所でも良いけれど」

「うひい、そんな話された後でそこでも良いなんて言えないッスよ。……ってか、常に妖怪の存在を意識するなんて、さっすが人妖特区の住人ッスね」

 別に、このご時世、それくらいは当たり前だろう。申し訳程度に設けられている人妖二種の協定には、プライベートの侵害に関する項目も存在する。それに触れるとそれなりの罪を着ることになることを理解している妖怪ならば問題は無いが、中にはソレを理解できないほど知能の低い妖怪もいるのだから。

 やって良い事とそうでない事の区別を付けられない。……本当に、腹立たしい。

「……行くわよ」

「はーい」



「それで、アザナくんはどんな状態なんスかね」

 通りに着くなり、男はいきなり切り出した。

「……先に病院に行くべきだったかしら?」

「いいや、それじゃあ駄目だ。ボクはアナタの目から見たアザナくんを聞きたいんスよ。苦しそう? 辛そう? 何かブツブツと呟いてる?」

 からかっているのか。この男の語り口調は、どう聞いてもそうとしか思えないほどに質量が伴わない。そのことに苛立ちながらも、アコはアザナの様子を語る。

「――何も。何もないわ。苦しそうでも辛そうでも、何か呟いてたりもしない。全身を掻き毟るわけでもないし、震えるわけでもない」

「ほう」

「本当に、何もないのよ。目は開いているのに焦点が合わないし、呼びかけても反応がない。看護師さんの話だと、食事もしない、排泄もない、まるで空っぽみたいだって。……ねえ、なんとかできないの? 何か知ってるんでしょう?」

 アコの言葉に、浅沼は何も言わず。

 少々考え込む様子を見せ、腕を組む。その表情は、さっきまでの軽薄な態度からは想像も出来ないほど真剣な面持ちで。

「……だんまり?」

「あ、いえ、そういうわけでなく。なるほど、アザナくんの状態はわかりました。えっと……あ、あったあった。はいコレ」

 差し出されたのは、いつか見た錠剤であった。そう、以前アザナが服用していたものである。

「たぶんッスけど、アザナくん、ちょっと前からこれ飲んで無かったんじゃないッスかね。ボクに連絡も無かったし……というか、この街にいるのも知らなかったんスけど。引っ越したのっていつくらいで?」

「……半年前、かしら」

「なるほどなるほど。とりあえず、無理矢理にでもこれ飲ませてみてください。すぐに、とは言わないッスけど、効果はあるかと」

「やっぱりこれ、あの症状を抑えるための薬か何かなのよね? おにいちゃんは健康に良いサプリメントなんて言ってたけど」

「ははは、妹思いのお兄ちゃんッスね。心配かけまいと、咄嗟にそんな嘘をついたんでしょう。……ボク、しばらくはこの街にいるつもりなんで、また何かあったら連絡ください」

 そうして去ろうとする浅沼。

 この男は信用出来ない、なんて言ったか。ああ、確かにそうだ。信用出来るはずがない、こんな男を。

 しかし、少なくとも医者よりは頼りになろう。何もしなかった無能共とは違い、彼は兄をどうにかする術を提示してくれた。それに、あの真剣な表情。

 アコは、浅沼クジラという男に懸けることにした。


 ◆


「……どういうことッスかね」

 何の反応も無い? いいや、そんなはずがない。

 少々面倒な展開になった。当初に想像していたモノとは違う話の流れに、頭を悩ませる。

 薬を渡し、それを服用させる。そして経過を見守り、浅沼の望む結果が出ればそれで良し――だったはずなのに。

 はて、アザナが妹と共にこの街へ越してきたのは半年前と言ったか。そも急で、妙な話である。

浅沼が彼と連絡を取らなくなったのはそれより以前の話だ。であれば、引っ越す要因となった何かが起きたのは、その少しの空白であろう。

 そこで、何があったのか。

「ったーく、こういう探偵みたいなの、ボクの分野じゃないんスけどねえ」


 ……歯車は、否応なしに回り始める。

 一つ、二つと嵌め込まれる、ソレ一つでは何の役にも立たない一部品。されど、噛み合えば少しの力で大きな歯車までもが回る。

 日常の些細な違和感、あからさまな異常。






 ――果たして、地獄の釜の蓋を開けたのは、誰なのか。

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