第一章 妖魔・侵食 編

第一節 和風定食『九重亭』



『人妖特区、区長選……当選おめでとうございます』

『いえ、ありがとうございます。この人妖特区、とても素晴らしい試みだと思いますが、そんな区の、えー、区長に就任できたこと、大変嬉しく思います』


「なあノエさん」

「なんだい子猫ちゃん」

 昼下がりの和風定食『九重亭』。テレビから流れるニュースをBGMに、ガランとした店内で二人はくつろぐ。客は昨日も今日も、そしておそらく明日もゼロ。

「なんで店開いてんの」

「いきなりぶちかますねえ。閉め出そうか」

 しかし、子猫の疑問も最もである。

 この定食屋、実は客なんてほとんど来ない。

 『呑んだくれ通り』においては、昼間に開店している店の方が少ない。というのも、そもそもこの通りのほとんどが居酒屋なのだ。ここらを誰かが通るのは夕方から夜中にかけてであり、昼間は閑散としている。

「開店してから一度だって客が入った試しがない! いやぁ、良かったねえ子猫ちゃん、アンタがお客さん第一号だよ」

「なんてこった、オレまで悲しくなってきちまったよ……」

 ちなみに、この子猫という呼称だが、当然本人の名前というわけではなく。

 いくら聞いても「忘れた」の一点張り。しかし呼び名がなければ不便であろうと、ノエが個人的な趣味でそう呼んでいるだけである。

 本人も最初こそ嫌がっていたが、忘れたと言い張る自分のせいでもある、とこの呼称を渋々受け入れている。

「ノエさんはこれでいいのかよ」

「んー? 店の心配してくれてんの? まあ、良いんだよこれで。こんなとこに店を構えたアタシが悪いし、そもそも最初は店開く気なんてなかったし。結果的に定食屋なんてやってるけど」

「ふーん……?」

 訝しげな子猫の視線をいなしつつ、

「と、こ、ろ、で。その甚平、似合ってるじゃないか」

「えぇ……? オレはパーカーの方が好きなんだけど……」

 話題は子猫の服装へと移る。

 ノエが子猫を拾った時の衣装は、薄汚れたパーカーにジャージであった。もちろん洗濯し、幾分かきれいにはなったものの、普段着としてそれ一着だけではいささか窮屈であろう。そういったノエの図らいにより、子猫にプレゼントされたのが、その甚平である。

 当初は女物の着物を、とノエは勧めたのだが、子猫本人がそれを嫌がり、結果として甚平に落ち着いた。しかしそれすらも子猫は気に入らないようで、

「なあ、オレのジャージどこにあるんだよぉ」

「ん~どこだろうなあ~。アンタが女物を着るってんなら、教えてあげてもいいけど」

「うぇ、またそれかよ……どんだけオレに女物着せたいんだ」

「絶対似合うって! ほら、アンタの顔って中性的だしっていうか十分可愛いし! ……なあ、やっぱりアンタって女じゃ――」

「どうだって良いだろそんなこと! ああもう、なんてイジワルな姐さんだよ!」

 そうして、二人で暮らすようになってから数日経ったこの日、


「――あの、今このお店、やってますか」


「「え」」


 ついに。

 ついに、客が入った。

「う、うぉ? 客? うわ、客だ」

「いらっしゃいませー、何名様ですかー」

「ノエさんなんでそんなテキパキしてんの? 初めての客なんじゃないの?」

「あ、三名様。でしたらこちらにどうぞー。お品書きはこちらに」

「無視か!?」

 店内に響き渡る子猫の声に、少年三人組は目を白黒させていた。

「ちょっとー、子猫ちゃん? お客さんの前なんだから、もう少しシャキっとしなよ」

「いや、お客さんの前だからって、オレ店員としての仕事何にも教えて貰ってないんだけど……っていうかオレ、単なる居候って扱いだったよな。なにサラッと働かせようとしてんだよ」

 二人のやり取りを見て少年達は思う――あ、入る店失敗した。

「はいお冷です。……ところでお客さん、今日はどうしてこんなところに?」

 子猫は少し無視しよう。涙目で「無視すんなー!」って叫ぶ様子も大層愛らしい。

 そんなわけで話題は、どうしてこんな辺境に、というものになる。

「え、どうしてって……もう昼だし、何か変ですか?」

「いやぁ、変っていうかねえ」

 だって、ここは『呑んだくれ通り』。そのほとんどが夕方から夜中にかけて戸を開ける居酒屋である。まずもって、昼間はこの通りなど目もくれないであろう?

 加え、少年たちの服装は、この近辺では見慣れない、紺色のブレザー。つまりは学生服。居酒屋並ぶ通りに足を踏み入れるのだとしたらそれは、

「先生の目ぇ盗んで、お酒でも呑みに来ました? それならお生憎様、ウチはあんま酒扱ってな――」

「いや、制服で酒なんて呑みに来ませんよ……」

「それもそうか」

 ではなぜ?

「あー……特に理由は。俺たち、修学旅行でこの街来たんですけど、やたらと腹減っちゃって。自主研修中でそこら辺歩いてたら、この通りほとんど店開いてないじゃないですか。そこに『開店中』って掛け札見つけて」

「砂漠でオアシス見つけた! って感じでなだれ込んだっす。店員さんも美人だしラッキー!」

「聞いた? 子猫ちゃん聞いた? この店オアシス、アタシ美人!」

 店の隅でいじけていた子猫向けアピールするも、子猫は聞く耳を持たなかった。仕返しのつもりだろうか。

「あの可愛い子も店員なんすか? すげえ好みなんすけど」

「ぎゃっ!?」

 あ、聞こえているらしい。

「あっはっは、あの子は店員っていうか……うーん、なんでしょうね?」

「あ、わかったっすよ。あの子、妖怪でしょ。座敷わらしとかっすか?」

「!」

 座敷わらし、なるほど。隅でうずくまりチラチラとこちらの様子を伺う子猫は、甚平もあってそう見えないこともない。

 しかし、

「いやいや、人間ですよお客さん。ウチで預かってる子なんです」

「へー、そうなんすか」

 実際のところはどうなのだろう。そう言えば、ノエは子猫の素性をこれっぽっちも知らない。拾い、飯を馳走した後の話、


 ――名前? 忘れた。帰る場所? ……ない。


 なんて言うものだから、ならウチに住むか、などと言ったが、まさか本当に居着くことになろうとは。そのくせ何も語らないのだから、そんな子猫を傍に置くノエはとんでもなく不用心と言えよう。

 まあ、いずれ聞けばいい話だ。

「それよりもお客さん、ご注文はいかがです? すごくお腹が空いてるって話ですけど」

「ああ、そうっすね! お前ら何食べる? 俺この海鮮丼で!」

「じゃあ俺は鯖の味噌煮定食でお願いします。お前は? ……? どうしたカズやん、さっきからしゃべんないけど」

「……ううん、なんでも。僕は……なんでも良いかな。すみません、何かおすすめはありますか?」

「おすすめですか……子猫ちゃん、これまでアタシの料理食べてきて一番美味しかったのは?」

「えっ、ここでオレに振るの。……さ、秋刀魚の塩焼き定食」

「じゃあ、それください」

「はーい、それじゃあしばしお待ちくださいませー」

 さて、初めて……もとい、久々のお客だ。腕によりをかけて馳走しようではないか。

 張り切るノエだったが、こういう時こそ何かやらかしてしまうもの。子猫は何かしらの失敗を期待したが……十分後に出てきたのは、特に変なところもなく、純粋に美味しそうな料理の数々であった。


「ありがとうございましたー! またのお越しをお待ちしておりまーす!」


 ◆


「いやー、美味かった。なかなか掘り出し物だったんじゃねえか?」

「だな。ホント、杉山ってこういう時だけは良い鼻してる」

「褒めるなって」

「すぐ調子に乗る。なあカズやん、最初に腹減ったって言ったのお前だけど、満足した?」

「……え、ああ? うん、美味かった……けど、なんか、こう」

 店を出た少年達は、『呑んだくれ通り』と言うらしき通りを来た通りに戻っていた。

 修学旅行の醍醐味である自主研修もあと半日、お楽しみはまだまだこれからである、というのに、連れの一人であるカズやんの顔は浮かなかった。

「どうしたんだよ。なんか今日のお前変だぞ」

「真正面から変って言うのもあれだけど、杉山の言うとおりだよ。なんだ、まだ食い足りない?」

 まさかそんなわけ。

ノエ、と呼ばれていた女店主が作ったのであろう料理は、それはもう量が多かった。おそらく男子高校生に食事量に合わせたのだろうが、少々過ぎるくらいであった。今も腹ははち切れんばかりである。

 だが――、

「ああ、そうだ……お腹空いた」

「……え? カズやん、マジで言ってんの?」

「普段そんな食わないだろお前、そんなに美味かったか?」

「お腹空いた……お腹空いた……。……ごめん、田浦、杉山、ここから別行動していい? 何かもう少し食べていくから」

 田浦と杉山は疑問符を浮かべつつも、「まあ、お前が食い足りないって言うなら」とカズやんを見送った。

 しかし……はて、ここらに他に飲食店があっただろうか。大通りに出れば多少はあるだろうが、少々値を張るため、そこで食事を取ると言うのなら午後のスケジュールの大半を諦めなくてはいけなくなる。

「せっかくの自主研修なのに、もったいねえことすんな」

 杉山の呟きはカズやんの耳には届かず、どこか虚ろとした表情で。

 その背中は、やや危うく見えた。


 ◆


『本日は近年になって話題になり始めた、人妖特区第一番、「珠都」に訪れております! ここは大通りでしょうか……東京の新宿となんら遜色ない街並みが広がって――』


 修学旅行生が訪れてから早三日。あれ以来、『九重亭』を訪れる客は無い。

「よっし、子猫ちゃん。今日は街に出かけに行こうか」

「あ、諦めた」

 もしかしたらまたお客さんが来るかも、とテンションの上がっていたノエも、流石に諦めが着いたようで。

 今日は少し前に話していた、「子猫に街を案内しよう」という約束を果たすつもりらしい。

「別にオレ頼んで無いんだけどなあ」

「つべこべ言わず準備しな。ほれ、ジャージとパーカー」

「あっ!? 捨てられてなかったんだな!!」

「アタシは鬼か?」

 街を案内するに際して、和装と言うのは少々不便である。ノエはそうとは思わないが、子猫からすれば動きにくいことこの上ない、らしい。

「というか、スースーして落ち着かない」

「スカート履いた男子みたいなこと言うんだねえ」

 これから案内するのは大通り周辺である。先程ニュースでも紹介されていたが、その近辺は本州、東京の一角に酷似した外観をしている。そこを和装で歩けば、不自然とまでは言わずとも、ミスマッチであることは否めない。

 もう少し時間が立てば、そびえ立つ摩天楼に和装も似合うのだろうか。

「ほら、早くしないと置いてくよ」

「なあ、オレを案内するんだよな? 主役置いてくのかよ?」

 打てば響くようなこのやり取りも、既に慣れたものだ。

「んー、いい天気だ」

 今日は目一杯歩くつもりだからちょうどいい。これで雲でも張っていようものなら、きっと子猫は雨女……男? に違いない。

「準備できたぞー」

「ホント、女にしか見えない。髪結って甚平着てるならまだしも、髪下ろしてパーカーにジャージって、ボーイッシュな小学生か」

「まだ言うか……」

「ははは」

 大通りへ行くには徒歩で十分だ。そこでバスに乗り、方々を案内しようと考えている。

 人妖特区とは言え、その広さは東京の区画三つほどに収まってしまう。元は試験的に導入された小さな街なのだから、それだけでも大きくなったと言えよう。

 いつも通り、他愛ないやり取りを交わしつつ、二人は大通りに出た。

「う、わ……なんていうか、でっけー」

「ん? ビル見るの初めてか?」

 少し前――人妖戦争が起こる前には、少し都市部に出ればどこでもビルを見ることができた。しかし、二種族の共存が確立された今、まるで時代を遡るかのように平屋が増えてきている。

 事実、『呑んだくれ通り』もそのほとんどが屋根の低い建物だ。一部、二階建ての建物はあるが、通りの外観を損なわない程度に留まっている。

「『珠都』は、この大通りを境に景観がガラッと変わるんだ。ウチの店がある西側は、本州の京都を参考に、東側は東京を参考に設計されたらしい」

 人と妖とが手を取り、生きていけるように。そんなコンセプトが基底にあるためか。

「いやあ、真っ二つにするんでなくて、ごちゃ混ぜにできないかーって考えたこともあったらしいけどね。流石に景観がチグハグになりすぎて、人妖双方からNG多数だってさ」

「へー……」

 隣で解説するノエそっちのけで、子猫は周囲をぐるぐると見渡していた。

 ……ああ、これはもしかすると。

「なあ、子猫ちゃん。もしかしてアンタ、妖怪か?」

「んぇっ!!」

 その肩がビクリと跳ねる。

「なんだ、人間ってのは読み違いだったか。アタシの目もいよいよ狂ったかねえ」

「…………。……妖怪じゃ悪いか?」

「別に、気にしないさ。むしろスッキリした」

 これで一つ、子猫の素性がハッキリした。

「アンタは隠し事が多いからさ。こうして少しずつでも、アンタのことが知れたら嬉しいってもんだ」

「――なあ、なんでノエさんは、オレのこと拾ったんだ?」

 ふと、子猫の口を突いて出たのは、いずれ聞かれるだろうと予感していたこと。

 いいや、もっと早くにその問いがあるべきだったのだ。あまりにも平和ボケしていたが、本来、ノエと子猫の関係は普通ではない。

 だって、行き倒れだ。だって、素性もわからない。ならばなぜ――?

「んー……別に、単なる気まぐれ」

 ノエはその足を、南北に走る大通りの南に向け、

「倒れてたアンタを見つけたのは偶然、親切にしたのはアタシの自己満足。んで、ちょっと話を聞いてみれば帰る家が無いときた。ちょうどアタシはあの店に一人暮らし、巡り合わせってやつ」

 それ以上の理由がない、とは言わないが、気まぐれが大半である。

「だから、アンタは気が済むまでウチにいればいい。もちろん、嫌だって言うなら出てっても構わない。あ、その時は言ってね、いろいろ土産が――」

「はぁ」

 そのため息は、どんな感情から吐いたものか。

「ノエさん」

「ん?」

「真面目な顔、似合わなさ過ぎ」

「んんっ!」

 思わずズッコケそうになった。

「オレから訊いといてだけど、こんな話をしに外に出たわけじゃなし。ほら、ノエさん。もっと珍しいもの見せてくれよ。オレ、山育ちだからこんな都会初めて見るんだ」

「調子の良い奴……ったく、わかった。そんじゃあお客さんのお気に召すまで、どこなりと案内してあげようじゃないの」


 ◆


 そこからがまた長かった。

 まずは大通りを、と案内を始めたのだが、そこかしこに興味を示す子猫に、まずノエが音を上げた。

「も、もっと他のとこ行こうか……」

 そうして連れて来たのは、珠都の東にある自然公園。都会の中にて異彩を放つ、そこそこに広い大型の公園だ。休日になればここも大勢の親子――人間、妖怪問わず――で賑わうのだが、今日は平日。いたとしてもまだ幼稚園にも通っていないような赤ん坊を連れた母親だけだ。

 そういえば、子猫は学校に通っていたことはあるのだろうか。山育ち、と言っていたが、今では昔懐かしの寺子屋なんてものも存在する。もちろん、人間社会に存在する学校に通う妖怪も今では珍しくない。依然差別意識は蔓延るものの、そのおおよそが人間同士でも起こりうるイジメ。いや、それはそれで問題なのだが。

「このままウチに居続けるなら、どこかで学校に通わせてみるか」

 きっと嫌がるだろうが、と大きな滑り台ではしゃいでいる子猫を見て思う。

「ノエさんも一緒に遊ぼうぜー!!」

「いや、うん、アタシは遠慮しとく……」

 一頻り遊んで満足した子猫を連れて、次はショッピングモールへ。

 店に並ぶ数々の商品を見て、子猫が目を輝かせたのは言うまでもない。中でも家電製品店が凄まじかった。

「な、なんだこれ、なんだこの箱! あ、これが機械か、そうなんだな!?」

「…………」

 ここまで来ると、ノエにはうっすらと笑う気力しか無い。

 店の中で走るな、と忠告を一つ入れ、一息つく。

「若いって良いなあ……ん?」


『――先日、この街を修学旅行生が訪れましたが、アレは現区長の提案だそうで』

『ええ。まだ私はただの公務員だったのですが……この人妖特区は、歴史的な観点から見れば、当然新しい街になります。全国配置が始まったとはいえ認知度は依然低く、であればこちらから動くしか無い、と。例えば、修学旅行地として提供するなど。もちろん、その多くは断られましたが、中には受け入れてくださった学校もありまして――』


「あー、それであの修学旅行生……珍しいとは思ったけど」

 展示されたテレビより流れるニュースは、ここ最近ほとんどの時間出ずっぱりな新区長へのインタビューであった。

 ノエにとって初めて……正確に言えば子猫がいたが、その初めての客が、この区長の手によって導かれたとなれば、ありがたやと手を合わせる。

「顔も良いし、こりゃ人気になるだろうなあ。まあアタシのタイプじゃないけど」

 さて、子猫はどこに行ったか――と視線を走らせるが、目の届く範囲には見当たらない。

 しまった、と思ったが、子猫はあれでいて存外常識を弁えている。少々興奮している様子だったが、危ない真似だけはしないだろう。

「――ああ、引っ張るな!」

「髪真っ白ー!」

「きれー!」

「いだだだだだ!!」

 ……ほら。

 聞き慣れた声は、玩具コーナーから聞こえてきた。

「あ、ちょ、ノエさーん! 助けてー!」

「のえさんって誰だー!?」

「お姉ちゃんのおともだちー!?」

「おねえ……!? じゃない、良いから髪引っ張るな!?」

 どうしよう、このままずっと見ていたい気がする。

 子猫が小さな子ども達と戯れている姿は、なかなかどうして、見ていてほっこりするではないか。本人達も楽しそうだし、わざわざ止める必要もあるまい。

「あ、こら、ノエさん! いるんなら助けろー! ……ニヤニヤするなー!!」

 あっさりと見つかってしまった。

 はて、子供達の親はどこにいるのかと周囲を見渡せば、そちらもちょうど、子供達の喧騒に気づいた様子で駆けていた。

「こら、お姉ちゃんに迷惑かけないの」

「ナオちゃん、駄目でしょう人の髪引っ張ったら」

「もっとちゃんと遊んであげないと駄目だろ、子猫ちゃん」

「オレが遊ばれてたんだよ!」

 子供達は、その親に連れられて行く。手を振りながら「また遊んでね、お姉ちゃん!」と笑顔で。

「だってさ、お姉ちゃん」

「…………」

 なんとも複雑そうな顔である。

 ふと時計を見れば、既に午後四時も近い。しばらくすれば街は夕焼けに照らされ、赤く燃えることだろう。都会の夕焼けも悪くないが、ノエとしては西側の雅な夕焼けを推す。つまるところ、そろそろ帰ろうという話なのだが。

「あの、ノエさん……」

「ん?」

 子猫は少々、気まずそうな顔をしてその場を動かない。

 その視線は、玩具コーナーの一角に向けられている。と言っても、オモチャとかそういうのではなく、

「アレ、その」

「ああ、自転車」

 どうやら子猫は自転車が欲しい、と玩具コーナーを見ていたらしい。その間に子供達に絡まれたと。

 自転車、買う分には構わないのだが。

「子猫ちゃんは自転車乗れるの?」

「うっ、の、乗れ……」

 言いづらそうにもじもじとしている。この様子だと乗ったことはないらしい。

 それならば、

「良いよ。買ってあげる。けど、そっちのカッコイイのじゃなくて良いかい? ちょっとばかり、地味になるけど」

「え?」

 子供用自転車は少々、小さすぎる。


 ◆


 既に西日は山に陰り、日没が始まった。

 街が赤く燃え、伸びる影は一日の終わりを告げる。

 日中は温かいとは言え、この時間ともなれば頬を切る風もいささか冷たい。されど、それも心地良い。

「ノエさ、ちょ、はや」

「ははは! でも気持ちいいだろう! 自分で乗れるようになればもっと気持ちいいんだぞ!」

 ショッピングモールの一階にあった自転車屋にてママチャリを購入。子猫も乗れるくらいのサイズを探し、防犯登録まで済ませていたら少々帰路に着くのが遅くなってしまった。そのためか、ノエが自転車を漕ぐ速度は随分と急いている。

「明日もどうせ暇だし、子猫ちゃんが自転車乗れるように練習しようか!」

「……! うん!」


 ――人妖特区第一番『珠都』、その一角。

 二人乗りにスピード違反。いつ捕まってもおかしくないような風体で、二人は駆ける。

 響くは子猫の笑い声。それにつられてノエも笑う。

 思えば、久しく心の底から笑っていなかったような気がする。

 子猫が居候を始めて、それほど長い時間が経ったわけでもないが、少しずつ、少しずつ。この時間はかけがえのないものへ。































 ――しかして、安寧とは長く続かぬものである。









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