第6話 キャットドラッグ


「かーれーは!」

真友美の声がしたと思えば、ふかふかの雪が顔に押し付けられる。

「ま、真友美!」

「相変わらず読書が好きなんだね、漫画とか読まないの?」

雪が多いこの北の町の朝は早い。

「ちょっと、本が濡れたんだけど!」

「そんなの知らないよ!あんたはそれより楽譜読まなくていいの?」

「楽譜くらいすぐ読める、そんなに時間かけなくても…」

「メンバーに迷惑かからないの!?」

「だから、俺はすぐ覚えられるんだってば!」

読んでいた小説をもう一度見れば、ページは歪み、少し触れば破けそうになっていた。

「…これ新しく買った本なんだけど!?」

「はいはいごめーん」

-真友美と俺は隣同士に住んでいる。

昔から親も仲が良かった為、こうして仲良しごっこをしているのだ。ついでに同じ高校、同じ学科、同じクラス。

そして仲良しごっこ。そう、仲良しごっこ。

昔1度大喧嘩したとき互いにこっぴどく叱られ、それからは仲良いふりをしている。

どちらかと言えば真友美は気が強く、いつも俺は言いなりになっている。完全文化系の俺が学生バンドに入ったのも、半分はこいつの影響と言っていいだろう。

「ねぇねぇ、うちの兄ぃが今日また遊びにこないかって!今日から親がちょっと海外旅行でさ!私と兄ぃはお留守番なんだけどね!」

「え、お兄さんが?」

「うん!見せたいものがあるんだってさ!」

真友美のお兄さんはどこか凄いところの研究者らしい。ものすごく優しくて、研究熱心、それでいて遊び心を忘れない、俺の尊敬する人の1人だ。

「化学の宿題今日出るし、丁度いいんじゃないかな」

「うん、じゃあお邪魔しようかな」

「おっけー!」

お兄さんの【長年の研究】が完成したのだろうか。残念ながら、それを聞く術はない。

俺はケータイを持っていないのだ。


詳しく言えば、真友美の両親と俺の両親が仲がいい、そうは言った。

俺は、俺の両親が仲がいいとは言っていない。実際問題、母親は帰ってこない。いつの間にか居なくなっていた。父親も“夜勤”続きでなかなか帰らない。この前泥酔して帰ってきた時に、ワイシャツにキスマークが付いていたことを俺は知っている。

家族3人の写真は伏せられ、いつの間にか姿を消していた。その時ぐらいだろうか、親戚の叔父さんが俺の面倒を見てくれているのは。その叔父さんも、1ヶ月に一度しか来ないけれど。

だから、真友美の家に世話になっている。あいつのお兄さんは俺の兄そのものだった。

「ねぇねぇ、またバンドの練習見に行っていい?」

「いや、俺は今日お前の家に世話になるんだろ、まっすぐ帰る」

「あ、そっか!」

「はぁ…馬鹿かよ」

急に、思い出したように真友美が鞄を漁る。

「あ、そうそう昨日クッキー焼いたの!はいこれあげるー」

「急になんだよ」

「いいから!」

ピンクのリボンと淡い色合いの袋にクッキーが入っている。

「お、おう、ありがとう」

「ふふ、【贈り飽きる程にはあるから!】」

「え?」

「へへ、好きな漫画の主人公がいつもこう言うから、使ってみたくて!」

「へぇー、いただきます」

サクッ。

「しょっぱ!」

「え?」

「塩じゃん、塩入れただろ!?」

「嘘!?」

真友美も一つ手に取り、齧る。

「うわしょっぱ!!!」

「真友美何してんだよ!」


何気ない日常の一ページ。

にこやかに笑う真友美。

呆れ笑う、俺。


俺の、【何気ない日常】の、最終話。







「おかえり、真友美、彼葉くん」

「ただいま!」

「お邪魔します」

「ふふ、入って、今日はカレーを作ってみたんだ」

いい匂いがする。

いつの間にか、真友美の家のご飯が、これがいつもの味になっていた。

「やったー!」

「ほら、遠慮せず沢山ついで、沢山食べてね」

優しい笑顔。凄く、暖かい。温かい。


「「「いただきます」」」

三人声を合わせ、スプーンを持つ。

「ん、美味しい」

具材はしっかり煮込まれていて、味も染み、それでいてカレー独特のスパイスも効いていて。

「これね、今日はレトルトじゃなくて自分でスパイス買ってみたんだ、どうかな」

「すごく美味しいす!」

「そうか、良かった」

「うん、兄ぃ天才!流石研究者!」

「ふふ、ありがとう、お代わりあるからね」

このまま、3人で暮らしていけたらどれほど楽しいだろうか。真友美と、お兄さん一緒に。

それにしても、お兄さんはノートパソコンに向かってばかりでカレーを食べようとしない。論文とか、そういうやつなのだろうか。

少し休ませてみるか。

「そうだ、お兄さん、新曲の歌詞書いてるんだけどさ、これどう思う?」

「ん、どれどれ…うん、いいと思うよ!僕は好きだな」

「ほんと!?」

「うん、君らしくて、すごく好き」

「嬉しい!」



-そこで、俺の記憶は途絶える。









「かーれーはーくん」

ぼやけた視界、薄暗い部屋とパソコンの光。

「お兄さん…」

「うん、正解。君に見せたいものがあるって話だったね、そうそう」

いつもと違う低い声。

「真友美はね、猫になりたいんだって」

「え?」

「小さい頃にね、あいつ、わたしをねこにしてって五月蝿くてさ、それで科学者になったんだよ」

「だから…なんだよ」

「やっと、妹の願いを叶えられるからさ、君にも喜びを分かち合いたくてさ」

「…」

「あれ?なんか反応薄くない?まあいいや、見てこれ」

今気付いた、体が動かない。

「あ、そうそう…頭と首以外ちょっと薬打ってるから動けないとは思うけど悪しからず、ね後遺症は残らない僕特製のお薬だから」

お兄さんはどこからかアタッシュケースを取り出し、中をこちらに見せた。

蒼い液体の満ちた4本の注射器。

「まだ誰にも試してないんだよね、これ。だから一番最初に真友美のお願い叶えてあげるんだ♪」

狂気の沙汰。身体を、何とかして動かさなければ…!

「どんな感じか分からないから4本に分けて徐々に濃く分けたんだけどどうなるかな」

部屋を見回せば、ベットの上に真友美が寝かされていた。

ああそうか、カレーに薬が入っていたのか。

だからお兄さんはカレーを食べなかったのか。

「彼葉くん、見ててね」

注射器を1本、真友美の白い腕に挿し、液体を注入する。

「あ…ぁ…待って…」

待って。

まだ。

猫に、変えないで。

「ん?どうした?君、実は真友美のこと憎くてしょうがないでしょ?」

「え?」

「だってさ、いつも真友美にちょっときついこと言ったり」

「いや、違…」

「何が?これ…こいつは、君の兄弟じゃない」

「お兄さん…」

「僕の妹だから。」

待って。

もう少し。

待って。

-1本、注射器が空になる。

「ん、1本目、変化なし、と」

何やらノートにメモしているお兄さん。

これが兄妹の姿?

しかも今、真友美を、【これ】って。

モノ扱いした。

彼女を、モノ扱いした。

「2本目いくね」

モノ扱い、した。

モノ扱い、した…………ッ!!!

2本目の注射器の中身が減っていく。

「お兄さん!!!」

「ん、何?」

「僕は、真友美が、真友美さんが」

「あ、見て見て!!」


真友美が痙攣を始めた。

びくん、びくんと腕、足、頭が揺れる。次第に白い毛が真友美を覆う。既に耳は猫のそれ、細い尻尾も現れる。

「ああー、2本目はここまでか」

嫌だ。嫌だ!!

「3本目行くよ、ちゃんと見ててね?」

「嫌だ!!」

なおも痙攣を続ける真友美は、白い毛に覆われていく。

「ぅ…ぁあぁあ…ぃあ…」

真友美の身体は少しづつ縮む。

「ああこれだこれだよ成功だよ彼葉くん!!」

やめてくれ。

もう、やめてくれ!

俺は、俺は。

真友美の、いつもの笑顔が、声が、動画になって脳に響く。

今の彼女は、あんな表情じゃなくて。

「よし、ラスト1本行くか」



「やめろ!!!!!!!」



腕が、脚が、呪いが解けたように軽くなる。

一番濃い液体入りの注射器が真友美の腕…いや、前足に向かう。


-刺さる。


「あっ、彼葉くん!?」


注射器を奪おうと、必死にお兄さんの手を掴む。

「邪魔…するんだ」

お兄さんは鋭く俺を睨み、持っている注射器を彼女から抜いた。

そして、その注射器を、僕の腕に刺した。


刺された場所が次第に熱くなる。その熱は身体を駆け巡る。

「へ、へへ…いいデータが取れる!!!」

「え…あぁ!!?」


耳が、腰が熱い!熱い!痛い!千切れる!

痛い、嫌だ熱い熱い熱い熱い、耐えられない。痛い、熱い!嫌だ!!!


ガクン、と、視界が揺れる。



「…れね、時が経つとともに猫化を進めていくんだ、これを最後まで真友美に打っていればあいつは助かっ…」


「…れないの…」


「…念だね…」


「…」









-再び目を覚ます。

ここは、あの部屋。

日が差し込んでいる。

照らすは、ベットの上の真友美の制服。

制服?正しくは、真友美。彼女。


否、彼女だった、白い猫の死骸。


「真友美…ごめん…俺…」


好きだった。

唐突だけど、多分この感情で間違いない。

どうして気付かなかったのか、彼女といる時間は俺にとって凄く大事なものだったのに。


小さな身体。


「ごめんなさい…真友美」


彼女を抱き抱え、部屋を見回す。

無造作に置かれた手鏡に、白い猫を抱える人影が写っている。

ああ俺か。

あの光景をフラッシュバックするように、鏡に写る自分を見つめる。

猫の耳。

尻尾。

ああ、ごめんなさい。

ごめんなさい。



その後、叔父さんは俺の身にあったことを理解し、高校を中退させてくれた。

叔父は小さなカフェをやっていて、俺はそこを手伝っていた。

叔父が死んでから、俺は1匹の猫に出会った。


死にかけの、真っ白な猫に。

誰かを想わせる、真っ白な猫に。

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