第4話 江戸を走る男

 民平は走っている。

 袴の裾をまくし上げて、すね毛も露わにして走っている。

 旧佐賀藩の仲間たちが足のすね毛も露わに走る民兵の姿を見たら異様だと驚嘆するにちがいない。

 実は青年の頃、母の言いつけで彼は裾の短い袴を着ていたのである。御禁制の絹の裏地で使用してこさえた長い袴を無理に着せられ、裾を引きづるように歩いていたのである。

 彼の奇妙な姿は城下でも呉服屋の番頭さんと呼ばれ有名であった。


 遠くで佐賀藩のアームストロング砲が雷のような砲声を鳴り響かせている。砲声はもちろん民兵の耳にも聞こえている。上野寛永寺に立て籠もった彰義隊と西南雄藩との戦闘が始まったのである。

 明治元年五月十五日のことである。

 数日来の小雨で道はぬかるんでいる。

 雨は止まず、降り続けている。

 通りをはさみ軒を並べる商家は雨戸を固く閉ざしたままである。

 御維新以来、人々が以前のように町を歩く姿は見えなくなった。

 幕府が崩壊して以来、商いも成り立たなくなった。やむを得ぬず店を閉めたままである。

 それでも閑散とした通りの家の軒先には家族や家を失った浮浪児が雨を避けたむろしている。職を失ない生活ができなくなった親たちが捨てた子供の群れである。

 治安を維持する十手持ちも姿を消し、過去の奉行所機構も崩壊してしまい、江戸は無法地帯と化しつつあった。

 走り続けた民平は武家屋敷の一帯にたどり着いたが、大名屋敷の白い塗り壁の塀はひび割れ、中には門が倒壊している家さえある。幕末に参勤交代も廃れ、大名たちも自国の領内に閉じこもり、江戸屋敷は捨てられ、捨てられた屋敷は荒廃の一途をたどったのである。

 立ち止まって、武家屋敷の中をのぞき見ると枯山水など贅を凝らした庭ではなく、どの武家屋敷の庭にも桑畑やお茶畑が広がっている。

 国内の争乱が長引けば、長引くほど国力は衰え犠牲者も多くなる。犠牲が増えれば、増えるほど国内の恨みも深まる。一刻も早く国内の争いを終わらせねば、外憂に対抗するために徳川幕府を倒し統一国家を造った意味もなくなる。これまでの苦労がすべて水泡に帰す。瓦解の先にあるのは西欧列国の干渉だけである。その先にあるのは隣国清国と同じ西欧列国の植民地への道である。

 先代の藩主鍋島直正の危惧であった。この一大事が始まろうとしていると民平は感じた。

 小雨の中、上野寛永寺に打ち込まれるアームストング砲には一刻も早く国内の争乱の平

定したいと言う願いも込められている。

 沈着冷静、鷹揚で日常の行動でも太極拳のような緩やかな動きを好んだ民兵であるが、その日は一刻も早く戦乱の収束を図ろうと、小雨と汗で全身がびっしょ濡れになりながら江戸の町を走り回っているのである。

 ただ奇妙なことに無闇やたらに彼は走り回っているのである。目指す目的地も走り回る理由も不明であった。それに行動を共にしているはずの江藤新平がいない。

 民平は焦りを深めた。

 大政奉還、王政復興、そして戊辰戦争へと時代は大きく変わろうとする時、人材不足の新政府は各藩に人材を差し出すように命じてきた。佐賀藩は江藤に続き、民平にその仕事を命じた。江藤は先に江戸に到着しているはずである。そしてアームストロング砲を有する佐賀軍を指揮して、この戦争にも参戦しているはずである。ところが江藤がいないのである。

 実は上野城の攻略戦が始まる一カ月前の四月一日に彼は江藤と連名で旧藩主の直正に天皇は江戸と京都の双方に居を構え、居を変えつつ日本を統治すべきだと意見具申していた。

 天皇が江戸に移り住むことは江戸遷都を意味している。鉄道模型を造り、鉄道を敷き、将来の日本の交通網を整えることを実感した佐賀藩出身者のみが生み出せる画期的なアイデアであった。

 直正はそれを佐賀藩の意見として左大臣の岩倉具視に提出することを許した。当時、東北列藩は新政府に恭順の意を明確にした訳ではない。奥羽越列藩同盟を結び新政府は薩長の個人的な政権だと新政権の前に立ち塞がり、頑強に抵抗している頃である。早く国内の争乱を収めるためにはアームストロング砲の威力だけでは十分でない。江戸や東北地方の沈静化が重要な意味を持つと達観したのである。

 実は民平は上野戦争の時には江戸にはいなかった。民平が最初に江戸を訪れたのは上野戦争が終わってから二週間ほど経ってからである。長州の木戸孝允とともに江戸が京都とともに日本の首都としてふさわしいか最終確認をするために江戸を訪れたが、すぐに京都に引き返し、半年後の九月に明治天皇行幸に民平は供として江戸に足を踏み入れたのである。そして十二月には知事に任命されたが、翌年の明治二年、江戸が東京府と正式に名称を改めた時に初代の東京都知事になるのである。それ以来、彼は旧江戸の復興に奔走することになるのである。

 夢うつつの中でアームストング砲の鳴り響く小雨の江戸市中を雨と汗に濡れ走るのは民平ではなく江藤であった。江藤が年長の彼に話した自慢話であった。

 江藤が隣に居なくても走り続けねばならないと民平は決意した。民平の思いはめまぐるしく飛躍し移り変わった。少年の頃のほろ苦い時代に戻ったりした。母の言いつけとは言え、ご禁制の絹を袴の裏地に使っていることを悟られ、叱責されるのではないかと不安とおののきが蘇ったが、すぐに江戸の町を走る姿に戻るのである。そして百万人を超える江戸市民の生活をどう支えるべきか工夫せねばならないと焦りが加わるのである。

大隈重信が明治三十三年に残した談話から当時の東京の状況を引用する。

「大木が東京府知事になった時の東京の混乱ぶりは甚だしかった。徳川幕府は二百五十余年続き旗本の大小屋敷、三百の藩邸が存在し、その旗本屋敷と藩邸に使われていた奴僕、婢女は職を失い、御用商人たちも仕事たちは仕事がなくなる事態となった」

 江戸は武士を中心とする消費都市であり幕府倒壊後に彼らに寄生するように生活した江戸市民の多くが職を失うことになったことに疑問を挟む余地はないはずである。もちろん指導的な階級である武士の不在により治安や秩序も乱れた。その立て直しを命ぜられた民平の苦労は並大抵ではなかったにちがいない。市民を飢餓から救うために中国から南京米を輸入し、浮浪児を収容する救育所をつくり、治安の維持のために警察力を強化せねばならなかった。職を失った江戸市民に新しい産業を興し職場を与えねばならなかった。武家屋敷を桑畑や茶園にし、経済の立て直しを進めようとした。当時、日本が外国に輸出できる産物は茶や絹糸などと限られていたはずであったが、東京遷都後の江戸の復興の早さに追い抜かれ、民平自身が江戸市中に桑畑や茶園を広げようとしたことは失敗だと笑い話にしていたと伝えている。


 民平は、あせるが考えも整理できない状況になっていた。江戸の街を雨に濡れながら走ったせいで風邪を患い微熱で思索に集中できないせいだと民平は解釈したが、実は今、民平は老いて病床にあるのである。

 すでに民平の意識は混濁し、時間の感覚は欠けていた。それだけでない。他人から聞いた体験談と、自分の体験したことが区別ができぬほど混乱していたのである。上野戦争の時の話は江藤から自慢話として聞いていたことである。そして、働き盛りの四十一歳の若さで刑死した江藤新平の思い出として、何度も周囲の者に語った話である。すでに江藤が処刑をした明治七年から二十五年の長い歳月が過ぎていたが、彼は江藤と記憶を共有する同一人物となっていたのである。

 民平とは佐賀藩士大木喬任のことである。

彼は親友の江藤が佐賀の乱で刑死した後、江藤の遺志を継ぎ民法を完成させた。現在も続く義務教育の基本を造ったのも彼だと言われる。多くの功績の中で彼の脳裏に死の間際に蘇ったのは記憶は若い頃に関わった初代東京知事として東京誕生に苦労したことである。


 ふすま越しに聞こえるすすり泣く声や元気だった頃の彼の思い出話をする声が聞こえるが、民兵の耳には届かない。

 民平は走り疲れた。戦も終わっていた。

 倒れ込むように寺の境内の石段に横に座り込んだ。

 すると、すぐに彼の隣に江藤が座っているのに気付いた。

「こんな所にいたのか。現れるのが遅いではないか。戦も終わったぞ」と民平は江藤を叱咤した。

 だが民兵もそれ以上の言葉を継げない。

 隣にいるのは江藤だけではない。彼を引き立てた恩人の藩主の直正まで腰を下ろし東京の街を見下ろしている。

「一体、何ごとか」とあわてて姿勢を正すが、二名がそろって民平を押し止めた。

「何を慌てておる。ゆっくりせい」と言い二人は声を揃えて笑った。それだけではない立ち上がり、家臣としての挨拶をしようとする民平を直正が制した。

「大木殿。時代が変わった」と言い、堅い挨拶を受けることを拒んだ。

 この時 見舞い駆け付けたのは藩主の一族の者であった。もちろん維新の元勲のい子息も多く訪れてきていた。

 この時、江藤新平の息子の息子も同席をしていたのである。

 二人とも死んだはずではなかったかと疑問を抱いたが、無礼なことは口には出せないが、ずうと民平は気に掛けていたことを聞いた。

「殿はどこまでご存じで」

「お主がご禁制の絹を袴の裏地に使っていたことは知っていた。そばにいる江藤にも話したいことがあろう」

この言葉に民平は江藤に感情を爆発させた。

「何故、うそをついた。絶対に佐賀には帰らぬと約束をしたはずだ」と

 民兵の突然の怒りの理由を理解できずに、周囲は氷ついてしまった。

 民平の意識は混濁し江藤の息子と新平の区別を付かなくなっていたのである。約束を違えて帰郷し佐賀の乱の首謀者として処刑された新平への怒りをぶつけたのである。

「民兵さん、江藤新平さんとのことを思い出しているにちがいない」

 事情を知る見舞客が言うと、ですすり泣きが周囲から漏れた。


 民平の怒りを静めようと直正の血縁者が説明をした。

「江藤君にも事情があった。佐賀に帰るように説得に来た者に、説得が出来ないのは自分のせいだと、次々と腹を切られたら帰るしかあるまい」と

「国元が収まらなかったのは自分や息子の無力のせいやも知れぬ」と、とりなす声が聞こえた。

 襖の奥の部屋から声を殺した嗚咽が漏れてきた。新平の甲高い声や直正の低い声に聞き覚えのある者に涙を抑えることはできなかった。

 事情が理解できた新平の息子が涙声で、「後始末をしてくれて有り難う」と礼を言うと、民平も自分もやりたいことだったと返事をした。


「長生きして楽しかったろう」

 江藤も直正も姿を消し民平の父の知喬の声が聞こえた。民平が十一歳の時に彼は三十八歳の若さで他界していた。

 民平は、「悪くはなかった」と答えた。

 入れ替わりに母のシカ子が顔を出した。

 シカ子は民兵が三十にならないうちに亡くなった。

「息子が長生きできたのは、御禁制の絹の裏地を縫った長い袴を着せて行動を慎み、万事用心深くゆっくり行動するようにしつけた私のおかげさ」と

おやと民平は正気に戻って思った。

 江藤も直正も父や母も、すでにこの世の存在ではないはず。自分はすでに三途の川を渡り、あの世に足を踏み入れてしまったのかと。

 現実に民平と話をしているのは最後の別れに彼の枕元を訪れた江藤新平の近親者であり、旧藩主の直正の近親者であり、民平の母や父の面影を受け継いだ彼自身の娘や息子であった。


 奇跡的に民兵の熱は明け方に下がった。

 隣の部屋に集まった者たちも寝静まっていた。ところが騒がしいので、民平は部屋の裏にある戸口を開いて外に出た。

 冷たい冷気に刺激を受け、数日ぶりに記憶も戻った。

 昨夜の様子を時間をさかのぼり振り返った。

 中風を煩った身体には悪いと知りながら、いつものように酒をすすりつつ大好きな書籍を枕に寝床に着こうとしたのである。

 ところが鳥が集まり始めた。

 高熱で疲れた身体を支えながら、民平は寝床から這い出した。

 戸外に出ると外はひどく乾き冷え込んでいた。暗い夜空を見上げると暗い空を無数のフクロウの影が覆っていた。

 不思議な光景であるが、長く生きて居ればこのような光景も目にすることもあろうと深く考えず片付けようとしたが、その時に彼は思い出した。

 過去に二度も同じ光景を見ていたのである。

 最初は明治四年のことである。二年前の明治二年には戊辰戦争も終わり、いよいよ新しい日本の経営が本格的に始まろうとしていた時期である。やはり彼の家の周りにフクロウの集まってきた。そして江戸の街を汗をかきながら走り回る同じ夢を見た。その時はフクロウが姿を見せるのは江戸の町が荒廃し、餌になるネズミなど小動物が多いせいだとひどく反省もしたものである。

 ところが翌朝、鍋島直正が死去したことを知った。

 次は明治七年の四月十三日のことであった。

 やはりフクロウが家の周囲に群れた。翌朝、江藤が前日に佐賀で首を切られたことを知った。前の年に東京と長崎の間に完成したばかりの電信が知らせたのである。

 フクロウが夜中に集まるのは不吉である。明日は誰かの死を知ることになるやも知れぬと思いながら、不気味な吐き捨てて彼は翻訳書がうずたかく積まれた中にある自分の寝床に戻ったのである。だがさすがに民平は自分の死を予感した訳ではなかったが、民平は翌朝、目覚めることはなかった。明治三十二年九月二十六日のことである。

 同郷で双従兄弟にあたる年下の大隈重信が日本で始めて政党内閣を率い、総理大臣になった翌年のことである。

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