翠子の結婚
真夜中 緒
第1話 結婚だとか言われても
傍らからは実に健康的な規則正しい寝息が聞こえる。
ちょっと体を起こして覗き込むと、見事に整った顔立ちの少年の愛らしい寝顔があった。よっぽど熟睡しているようで、頬をつついてみても無反応だ。
まあ、くたびれているんだろうな、とは思う。
今日は彼の元服の日で、気の張る儀式をいくつもこなしているはずだ。くたびれていないはずはない。
ただそれでも、翠子が自分ならばと考えれば、ここでこうして熟睡しているのはちょっとありえないような気もする。
だって、自分たちは初対面なのだ。
一応歌の贈答ぐらいはやったけど、本当にそれだけ。その歌だって双方添削も入った儀礼的なものだ。あの歌を見て相手の人柄を見抜いたりできる人がいたら、それはもうそういう異能力の持ち主に違いない。
つまり彼にとって翠子は「知らない人」以外の何者でもないだろうと思う。
翠子にとっての彼はそれよりはマシで「噂はよく耳にする子」だ。
彼、
今上鍾愛の第二皇子。
今は亡き寵姫の忘れ形見。
眉目秀麗にして才気煥発。
あらゆるものに愛され、あやかしをよせつけない清浄に守られた、まさに帝室の血を体現する皇子。
その、兄の春宮勝りの素質故に、臣下に下されたと言われる話題の皇子だ。
素晴らしい婿君だと周りは褒めそやすし、条件でいうとそうなんだけど、翠子としては違和感が拭えない。だって光は翠子よりも四つも年下なのだ。
いや、女のほうがその程度年上の組み合わせなんて、世の中にはいくらだっているだろう。だからだめってものでもないと言われればそうなのかもしれない。でもそれは、例えば二十四と二十とか、それ以上ぐらいの組み合わせの場合だろうと翠子は思う。
翠子は十六歳。
つまり光は十二歳。
普通十六歳の女性は十二歳の男の子に、恋をしたりはしない。
贈答の歌を作っているときにも違和感があったのだけど、本人を目の前にして翠子の違和感は増すばかりだ。
この子はきれいな子で、とても可愛い。そこは認める。
でもそもそも、背の君に可愛いってどうなんだろう。いや、背の君を「この子」とか思う時点で何かが違う。
別に恋物語の主人公のような狂おしい恋を期待していたわけではない。
そういうわけではないけれど、ぼんやりと描いていた「背の君」というものから、あまりにもかけ離れている。
光が寝返りをうつ。
上にかけていた大袿を蹴飛ばす。
そのいかにも子供っぽい寝相に肩を竦めて、それでも翠子は光に大袿をかける。
光が再び蹴飛ばす。
翠子がかける。
さらに光が蹴飛ばす。
「…」
五回繰り返したところで、馬鹿馬鹿しくなった。
寒くなったらきっと自分で被るだろう。
翠子は自分もさっさと寝ることにした。
「ちょっと起きて、起きなさいったら。」
翌朝、翠子はイライラしながら光を起こしていた。すでに白々と夜が明けつつある。急がなければ初出仕から遅刻だ。
あまりに起きようとしない光の額を、思い余ってぺしりと叩くとさすがに目を覚ました。
かなりびっくりしている。
いや、それはびっくりするだろう。翠子だって自分がやられたらびっくりする。
「用意しないと、遅刻するわよ。」
寝所から追い出すと控えていた女房たちが光の仕度を始めた。
翠子は一息つくとあくびをした。
眠いのだ。
結局一晩中ろくに寝ていない。
それでも自分も女房に手伝わせて身繕いする。婿君のお見送りとか
「では、今宵また。」
型通りの言葉を置いて光が出てゆく。なんと言ったものだか判断がつかなくて、翠子は黙って頭を下げた。
新婚の翠子が寝不足なのは、もちろん色っぽい理由ではない。知らない男の子との同衾に緊張して眠れなかったわけでもない。
平たく言えば光の寝相が極めて悪かったせいだった。
翠子は深窓の令嬢だ。
左大臣の父と内親王の母の間に生まれた、都でも一二を争うような貴種の姫君だ。
兄にだって蹴飛ばされた事なんてない。
それが足はのってくる、腕はのってくる、いきなり押されるわ蹴飛ばされるわ、ひどい目にあった。
起きない光に苛立って額を軽くぶったくらいことでは、鬱憤も晴れやしない。
前もって用意してあったとおぼしい後朝の歌を、光の従者が持ってくる。
形ばかり文を開いて、翠子も用意していた返事をことづける。
受け取った後朝の文を女房に預けて、翠子はもう一度寝直すことにした。
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