第123話 月下の鬼 その4
珍しくA子は動揺していた。しかしご主人様にはその理由が分からない。
「寒いんだったらまた温泉に入るか? 暖まるぞ」
「確かに、寒すぎますけど」
「何ならまた一緒に入るか?」
ご主人様は意地悪そうに言う。夕方からかわれたお返しのつもりだった。
「お、お断りしますっ」
A子は赤らめた顔を振り乱して見せた。
顔を横にぶんぶん振ってるA子を見てご主人様はいじわるそうに笑うが、不意にその動きがぴたりと止まってきょとんとする。
「どうした?」
「ひとつ、訊いて宜しいでしょうか」
「何」
「あの時、ご主人様は何を訊こうとしたのですか」
「あの時?」
「露天風呂で混浴していた時です。このままずうっと」
「あ」
「あー、お前が良ければ……このままずうっと」
「ずうっと?」
「つまり、だ。俺の」
(ああああああああああああああああああ)
ご主人様は心の中で絶叫した。
(……考えてみれば俺、勢いで何言ってんだ……っっ!!)
「このまま……ずうっと……って?」
「あああそのなんだあれはそのあれだあれ」
テンパってるご主人様、半裸でじたばたする。
「……あれとは?」
「あれだよ、あれ、あれあれ」
「アレアレ詐欺」
「なんだそりゃ!」
「つまり結婚を」
「それそれ」
次の瞬間、ご主人様とA子は静寂に支配される。
「……結婚詐欺?」
「そんなんじゃなくって!」
その場のノリでA子に求婚しかけていた間抜けな自分が、今更滅茶苦茶恥ずかしいご主人様だった。
そんなテンパりまくってたご主人様を、A子はいきなり抱きついて黙らせた。
「え、A子……さん?」
唖然とするご主人様だったが、それ以上に驚いていたのはご主人様の身体にしがみつく当のA子であった。顔を赤らめて瞠るその貌は、この突然の行動を自分でも理解していないようであった。
やがてそれは限界に達したらしく、A子はいきなり離れてジャンパーを脱ぐとそれをご主人様に押しつけた。
「お、おい、A子」
「とっとと風呂に行って暖まってくださいね!」
A子はそう言い残して逃げるように立ち去った。
(何で急に……)
A子は露天風呂での自分の行為が急に恥ずかしくなっていた。今までご主人様を強く意識した事など無かったのだ。
実のところ、A子はここまでご主人様のことを強く意識したのは、露天風呂で遭遇した時からであった。
ただ、その時はその感情を理解出来ず、押さえる為に自分の事を話し始めた。
何かを話している事でその理解しがたい感情を誤魔化せると思ったからである。
しかし実際は逆効果であった。
自分の事を話せば話すほど、心の中の動揺が拡がっていった。しかしその理由が判らないから話して誤魔化すしかなかった。
話していないと自分が抑えきれない気がした。
幸い、B子たちが乱入してくれたおかげでようやくその泥沼から這い出る事が出来たが、しかし心の泥沼はそこでは終わらなかった。
露天での一件の後、A子は床に入っても、どうしても眠れなかった。
興奮しているわけでもなく、夕方から続いていたこの理解しがたい感情を沈めるべく外に出た。
静まりかえった境内を歩き回り、やがて本道の奥にある山道の先から水の流れる音に気付き、滝とご主人様を見つけたのである。春慶との話は方便であった。
初めは、滝行なんて酔狂な事を、と思っていた。
滝に打たれ続けているご主人様をしばらく見ているうち、今まで自分を悩ませていたその感情が晴れていく事に気付いた。
何故この人を見ているとこんなに心が落ち着くんだろう。
A子は傾げたが、結局答えは得られず、代わりにメイドらしく暖かいバスタオルを用意してご主人様の前に現れたのであった。
だが、ご主人様にジャンパーを掛けて貰った時、またもやあの感情が蘇り、自らのあの質問が引き金になってしまった。
とにかくその場にいるのがとても耐えられなくなっていた。
逃げるなんてらしくない。
何度も心の中で言い聞かせながら、身体は頭に反して逃げる事を選んでいた。
情けないという気持ちと、怖いという感情がA子を支配していた。しかしもう一つの感情には全く気づきもしないでいた。
「――え」
A子は急に立ち止まった。
前方の、少し開けた場所に人影を見つけたのだ。
月光を背にしているその人物は、何故か透き通っているように見えた。
「……誰?」
A子は険しい顔をする。僅かに見えるその貌には見覚えはない。
見覚えなど無いはずなのに、何故かA子は知っている気がした。
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