32 誕生
――一九七一年、三月十日。
この日、雪が舞い降りた。
善生にも葵にも忘れられない日となった。
「ほんぎゃ……」
弱々しく泣いた赤ちゃんを保育器に素早く入れ、処置を施した。
体重が千九百グラムしかなかった。
「夢咲善生様、女のお子様がご誕生です。おめでとうございます」
助産婦が知らせに来た。
「おお! 女の子か!」
待合室でおとなしく待っていられなかった善生は、新生児室の前で声を上げた。
「お母さんが五十二時間に渡り、お産をなさったので、弱っております。お部屋に戻って参りますので、そちらでお待ちください」
善生の頭の中は、命名で一杯だった。
「そうか、そうか。それで、赤ちゃんはまだ?」
「処置が終わりましたら、その後、医師からお話があります」
「さくらちゃん。さくらちゃん。かわいいだろうなあ。ふんふんふふふふ……」
大部屋であるのに、構わず鼻歌で弾んでいた。
ガラガラガラガラ……。
「あ、善生さん。な、何か、赤ちゃんがいないの。泣き声は聞いたのだけど」
ベッドに乗せられて幾つか処置をしてある葵が情けない顔で子の父を見た。
「みっちゃん、保育器に入るんだって」
心配している風な顔は見せなかった。
「保育器! それは、お産の直後に聞いたわ。何かおかしいのかしら? 手の指と足の指が揃っているか見て来て」
葵は奇形や障害をきちんと分かっていなかった。
後に、顕著になる。
「大丈夫だろう」
今更、そんな事をしても、赤ちゃんを捨てる訳には行かない。
「いいから」
目で訴えた。
「後にしなさいよ、大丈夫だから」
コンコン。
「夢咲さん、宜しいですか?」
「おめでとうございます」
医師らは、礼をした。
「おめでとう?」
「何が? あ、赤ちゃんかあ……」
「お母さんの体調が悪いので、こちらでお話ししても宜しいでしょうか」
「みっちゃん、そんなに具合が悪いの?」
「お母さんは、お産に時間が掛かりましたので、体力が消耗しております」
「お子さんは、未熟児ではありません。低体重児です」
銀縁眼鏡の三沢医師に告げられた。
「体重が千九百グラムしかないので、保育器にて、凡そ一ヶ月程度、成長を見守って行きたいと思います」
「赤ちゃんに会えないのですか?」
「未だ会っていませんが!」
「今、ご案内致します。お母さんの体調は如何ですか? 少々、診察させてください」
「はい。大丈夫です。では、支度をして行きましょう」
葵は、車椅子で移動した。
今で言うNICU、新生児特定集中治療室は、この頃から、誕生して来た。
扉の向こうから、特別な個室に、赤ちゃんが運ばれて来た。
「さ、さくらちゃん。さくらちゃん」
「まあ、お名前が決まっていらっしゃるのですか」
ふくよかな一ノ瀬助産婦が、嬉々とした。
「善生さん、さくらって……。初耳ですよ」
「ああ、可愛い! 愛しのさくらちゃん……!」
大雪が舞う中、大切な命が誕生した。
そして、善生はお父さん、葵はお母さんになった。
三月十日の事であった。
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