31 産む

 ――一九七一年、三月八日。


 ものぐさの葵もそろそろかと思い、国立病院へと歩いて行った。

 外は、しとしとする雨であった。


「思ったよりも寒いわ。お天気が崩れているのね」

 ねんねこばんてんを着て行った。

 赤ちゃんをおんぶする時に羽織るもので、お腹が出ている葵をとてもぬくぬくとさせてくれる。

 葵の母、ハナがお針をやっており、せめてもと贈ってくれた物である。


「母ちゃん、思い出すよ……」

 ハナはお針子さんを何人も弟子にして、和裁を生業としていた。

「うちの母ちゃんは、干瓢の味噌汁だけは、旨いもんな」

 葵の三人いる兄貴達もよく呟いていた。

 家の事はからきし駄目だけど、仕事の事になると鬼の様に働く。

 一晩で二人分の着物を仕上げたものだ。

「母ちゃんのねんねこばんてん、あったかいよ……」


 病院に着くなり、堪えられなくなった。

「う……。うう……」

 床にペタンと尻餅をつくかの様に座ってしまった。


「大丈夫ですか? 奥さん」

 他の妊婦さんが先ず駆け寄ってくれた。

「うんちかどうか分からない……」

 床に手をついてやっと堪えていた。

「そんなものですよ。すみませーん! こちらの奥さんがよろけてしまって!」


 バタバタ……。


 助産婦か看護婦が来て、陣痛室へと連れて行った。

 さっきの優しい奥さんにお礼を言う間もなかった。


「旦那さんに連絡したいのですが。どちらに掛けたらいいのですか?」

 真っ先に訊かれた。

「M小学校にいて、夢咲善生を呼んでください……。他に夢咲がいるので、下の名もお願いします。くっ……」

「分かりました。電話を掛けて来て」

「はい」

 医師に言われて、助産婦は、急ぎ消えた。

「ああ、良かった……。はあ、はあ」


「痛い、痛い……。赤ちゃんがこんなに痛いなんて聞いてないよ」


 直ぐに産まれないので、陣痛室から、大部屋に移った。


 コンコン。


「旦那様がいらっしゃいました」

「やっとかあー、もう産まれるかあ」

 万歳して来た。

「ああ、馬と鹿がやってきたよ……。これが、アタシの旦那様ですか……」

 葵は、海より深く反省した。

「ああ、つまらない出来心で、できちゃったりして……。まあいいかとか考えたのは私じゃない! 失敗したなあ……」


「浣腸しましたので、便所はあちらのを共同でお使いください。具合が悪くなったら、声を掛けてください」

 そう言うと、助産婦は早々と出て行った。

 これが、葵の地獄だった。

「もう、出るんだけど」

「何が?」

「行って来るわ」

 ノシノシと便所に向かった。

「何でこんなに並んでいるの? 漏れちゃうじゃない」

「並べば、よかっぺーな」

 限界があると内心葵は反抗した。


「……」

「……ぐっ」


 善生は、男性控え室に行き、思い出していた。

「赤ちゃんの頭の大きさは、みっちゃんの赤ちゃんの通り道と一センチあるから、切らずに産みましょうって言われたんだよな……。やはり、難しいお産だな……。そうだ、あれだあれ!」


「はあ、コンチクショウ! 便所で苦労したのが、一番酷い! 便所が少ないじゃない!」


「落ち着けよ、みっちゃん」

 柔和な善生は珍しい。

「もっと素敵な事が待っているよ」


「何?」


「子供の名前だよ」

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