30 雨情の隣に

 ――一九七〇年、七月三〇日。


「ふつつか者ですが、これからも宜しくお願い致します」

 葵の父、優一ゆういちが、娘に代わって夢咲家の畳に手をつき深々と頭を下げた。

「宜しくお願い致します」

 葵の母、ハナも続いて深々と頭を下げた。

 葵は、母に下げさせられた。


「ええん、だっぺ。な、お父さんもー、善生には、嫁の来手がないと言ってたっぺー」

 善生の母、テツが、不随意な体の父、育蔵なりぞうに笑いじわを向けた。


「立派なご子息の所へは、何もできない葵では申し訳ないのですが……。十分に家訓に従う様に言いましたので、お願い致します」


 夢咲善生と美濃部葵は籍を入れた。

 二人の結婚記念日は、七月三十日となった。

 広い大地から見たら、小さな二人の結婚であった。

 そして、もう三人の家族となる日が迫って来ている。


「ささやかですが、あがってくんなせえ」

 テツは機嫌が良かった。

「お気遣いいただきまして」

 優一とハナは下戸なので、お酒には困った。


 ホー、ホー、ホー……。


「はあ、これから、二人っきりの生活なのね」

 何故か妊娠している葵が布団を支度した。

 それも今夜から夢咲の人間だからかと、仕方なく思った。


「妊娠中は、あれは駄目なんだと、お袋に言われて来たよ」

「はあ? 最悪です。お義母かあさんにだなんて」

「気にすんな。良いお袋だから、甘えな」


 しかし、そんな夢咲家からは、援助金はなかった。

 葵は、予定通り、退職金を得たが、間もなく消える事となる。


 入籍して、兎に角、慌ただしかったと言うのが一番の想い出であった……。


「るーるるるー。んんんんー」

 善生は身軽な引っ越しを終えた。


「七つの子」等の童謡の作詞で知られる野口雨情の旧居や碑が、栃木県は宇都宮にある。

 雨情は、「しゃぼん玉」の中で、夭逝した長女への気持ちを詩に託したと言われている。

 葵はそんな事は知らないが、美味しいお土産が近くで売っていた事には満足であった。

 たまに貰えたりする。


 その近くに、新居を構えたのであった。


「勿論、二人きりではいられないよ」

 そう言われたかと思うと、善生の弟も一緒だったりした。

 六男、松就まつなり、八男、忠功ただなりの他に、何やら男ばかり直ぐに寝泊まりを始めるので、葵は、善生に苛ついていたが、生活に追われていてそれどころではなかった。


「静かな方が良かった……」

 葵は、寡黙な男性を望んでいたので、善生がやかましくて仕方がなかった。

 今、思えば、妊娠中と言うのも要因であったのであろう。


 善生は、宇都宮でも建設業の仕事を得ていて、今日は早く帰って来た。

「善生さん、大事な話って何?」

「ああ。染谷から、五千円送られて来たよ」

「ま、まあ……!」

 疲れていたのか、葵は、思わず嬉し泣きした。


「私も大事な話があるの……」

「何?」


「病院って割りと近いのね。赤ちゃんは順調ですって。お医者様が」


「そ、それは良かった……!」


 鼻の下が本当に伸びる。


 おかしな人だと、何もかもに戸惑う葵であった。

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