29 ほれみたことか
「宇都宮にある国立大学の附属病院に行こう。どんなお産にも対応してくれる筈だ。それに、田舎には、お袋もいる。良くしてくれるさ」
善生は、ほくほく顔で、立ち上がった。
「栃木に行くって、そう言う事なの? 夢咲家に行くと言う事……?」
葵は、膨れっ面で、マッチ二本と線香花火の燃えかすを砂利で消した。
「そうだよ、俺と付き合って、嫁に来るつもりだったんだろう?」
「そうでしたっけ? 誰が誰のお嫁に?」
良い話なのに、きりきりしている。
「何を言っているのか、俺が訊きたい。付き合っていたんだろう。誰と誰がって、俺とみっちゃんだろ」
「ちょっと、気持ちが悪くなって来たわ……。本当よ」
「そうだよな、部屋に行こう」
アパートの二階へ促す。
ギッシギッシギッシギッシ……。
足取りが軽い善生。
グギイグギイグギイ……。
足取りの重い葵。
ちぐはぐのまま、部屋の前に来た。
「染谷さんがいるわ」
「二回咳き込めば出て行ってくれる」
「随分ね……。困った人だわ」
ウオッホ、ゴホッ。
「いやあ、ちょっと私用で、すまないですねえ」
外面の善生は気持ちが悪い。
葵は、時々そう思っていた。
「いやいや、ちょっとおいらも……」
財布と鍵だけ持って、出掛けてくれた。
「ごめんなさいね、具合が悪くて」
二人は、敷きっぱなしの布団に座った。
「ふうう……」
葵は、一息ついた。
「あのな、俺達は栃木から来たんだ、子供も栃木で産もう。何も東京大学様だけが偉いんじゃない」
むっ。
栃木恋しい説が出たと、葵は、負けまいとした。
夢咲の実家に行きたくないのだ。
「東京大学だの宇都宮の国立だのなんて、何でお産で行くのよ。もっと安い所へ行きましょう。お母さん達は、お産婆さんでしょう」
両者譲らず。
「みっちゃんは、下に兄弟がいないから分からないんだな。お産婆さんだってタダ働きじゃないよ。何かあったら死ぬ事もあんだぞ」
善生は、兄二人をこの時点で亡くしていた。
「死ぬのは……。そうね、病院なら安心かも知れないわね。でも今、引っ越さなくてもいいと思う」
渋い顔と悪阻の区別がつかない。
「そうか……。嫌か?」
何とか恋しいお袋のいる栃木へ行きたかった。
幾つになっても親子にしがみつく。
子供時代の美味しい物、蒸かし芋で餌付けされているのか。
「嫌なんじゃなくて、無理だと言いたいの。住まいはどうするの? お金もないし、体も本調子じゃないわ」
そうかと、善生は疲れて来た。
「ああ、お袋もそんな軟弱者じゃあ、迷惑だな。新しく家を探そう。引っ越しは、後でだな」
「なんですって。軟弱者じゃないでしょう」
ほれ、みたことかと、善生がもう内心思った所であった。
「もーう。せめて、退職金が貰える七月末迄、入籍は待って……!」
「入籍?」
「だって……。子供の為よ」
「入籍、万歳だ!」
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