26 一人悪阻

 ――一九七〇年、七月。


 じとじとした梅雨も去り、風はさっぱりとして、日差しが強くなり始めた。

 葵は、駅からK社に向かうが、帽子も日傘もないので、小花を刺繍したハンカチで、汗を押さえながら木陰を探した。

 木陰に黄緑のワンピースが似合った。

 長い髪は、三つ編みにして出社した。


「暑いわねえ」

「本当、暑いわあ」

 あちらこちらから、同じ声が聞こえる。


「この頃、食べる物の好みが変わっちゃって。さっぱりとした物しか入らないわ」

 葵は、ため息とともに、かったるく、電話交換手の仕事に入る支度をしていた。


「そうなの? 美濃部さん、具合が悪いのかしら?」

 同僚の羽田はださんに、気遣って貰った。

「具合? そんなに悪い訳じゃないわよ。うん、でも、胸焼けがするから、食べ物が悪いのかと思って」

 葵は、思い当たる節がそれしかなかった。

「胸焼けねえ。夏だしね。この際、夏痩せでもしてくれないかしら?」

「あら、羽田さんも? でも、特別痩せた訳じゃないのよね。もっと、きゅっと痩せたいわ」

 そんな呑気な事を言っていた。


 自宅に帰ると、熱のせいではない気持ち悪さが込み上げて来た。

 本能で、便所へ駆け込む。


 う、うげ、うげえ……。


 葵は、間もなく悪阻つわりに襲われた。

 悪阻にしては軽い方であったが、体調の悪くない葵には、涙が出て仕方がなかった。

「まさか、これが悪阻とかではないわよね」


 う、うげえ……。


「天婦羅とか、良いもの食べたりしていないし。ナポリタンも食べていないし」


「けれども、月のものが来なかったので、おかしいとは……。まさかね」

 幸か不幸か、葵は、善生としか交際をしていなかったので、相手は、分かっていた。

「これから、話しに行ってみよう」

 善生の家に向かった。


 仕事があるので、帰りが遅くなると思った。

 でも、話さなければどうにもならない。


 ギイ、ギイ、ギイ……。


 木造二階建ての二階へと上がる。

 二度程のため息の後、突き当たりの部屋をノックする。

 すると、ちっちゃんの飼い主が戸を開けてくれた。

「こんばんは」

「あら、染谷さん……」

 気まずいと思いながら、挨拶位はした。

「こんばんは……」

 この分だと、善生がいないと思った葵は、部屋から離れる事にした。

 第一、中は蒸し暑い。


 日が暮れるのが、遅くなった外は未だ明るい。


 ジリジリジリ……。


「お仕事かしらね。遅いわね……」

 足も疲れてしゃがみたかった。

 それよりも吐き気がして来た。

 これは、来る!

 そう思って、再び善生のアパートの共用トイレにうさぎの様に駆け込んだ。


 えろ、ええええ……。


 げ、げええ……。


「あー、気持ち悪い!」

 思わず、大きな声を出してしまった。

「誰のせいよ! 誰のせいよ! 誰のせいよ!」

 相当苛々している。

 女の苛々は面倒臭い。

 このアパートは男性ばかりであったから、とんでもなかった。

 夜の度に聞かされて、腹に据えかねていた。


「うるさいぞ!」

「便所掃除しろ、ババア!」

「できちゃいましたか?」


「まあ! 何て酷い!」


 げえ、げええ……。


 そう言いながら、善生を心の奥で待っていた。

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