5 出生の涙(二)

25 足入れ

 ――一九七〇年、六月。


「梅雨なだけあって、雨音がしっとりとしているわ」

 葵は首を左右に振った。

「みっちゃん。そんな、風流な事を考えられるんだ。俺にはできないな」

 自分の事をワタシから俺と呼ぶ様になった善生は、待てないとそのまま首筋に指を這わせた。

「くすぐったいわ……」


 葵は善生と関係を持っていた。

 この頃は、会う度に求められる様になっていた。

「今日は、遅くなっても平気?」

「そればかり訊くのね。合わせます。いえ、遅くなりたいわ」 


 善生は、文鳥の連れ込みホテルだと、ちっちゃんのいる部屋へ招いたりもした。

「このアパート、狭いですよね。何かね……」

 どこもそこも軋みそうな木造アパートの天井を見回した。

「聞かせてやればいいよ」

「……何を。……そんな事言って」


「ストッキングって高いの?」

 善生が、まじまじと見る。

「それなりに無理して買っているわ。仕事で穿くから」

 電話交換手か……。

 もう疲れて来たな。

 盗聴しろとか、握らされるし。


「破ったらいけないかな……?」

 善生、どうしたいんだ?

 破りたい?

「そんな……。や、なんで?」

「興奮しますから」


「……」

「……」


「これは、買い取って貰うなら良いわよ」

「買うよ」

 善生は、本気になった。

「や、やめて。変な事しないで。今のは嘘だから」

 善生、すかさず。

「良いじゃあないですか」


「……っつ」

 今日は、安全日とは言えないんだけど。

 何だか、燃えるわ。

 『足入れ結婚』って事もあるし……。

「まあ、いいか……」

「まあ、いいの? ストッキングが?」

「どうせ、だし。いいと思うわ。『足入れ結婚』なんでしょう?」

「ストッキングは、駄目か? 俺は、みっちゃんの事愛していますよ」

「愛とか恋とかそんなんじゃなくて」


「遠慮しないよ」


 ――あ、あああああ……。

 ――可愛いよ……。


 ――はああ……。

 ――はあ、はあ……。


 ――良いよ、みっちゃん……。

 ――あ、お願い……。


 『足入れ結婚』とは、『足入れ婚』の事を櫻の両親が使った言葉だ。

 良く言ったものだ。

 何ていやらしい言葉だろう。

 要は、相性を確かめるのか、卵子と精子の出会いを認めてからでないと、結婚ができないのか。

 子供を産まなければ、石女ウマズメと呼ばれるのか。


 この日、櫻が命をいただいた事を二人は知らなかった。

 櫻も、勿論、その日の事は知らない。


 軽率な行動で、人間ってできてしまうのが、寂しくもあり、哀しくもあり、切ない。

 そう思うのが、櫻だけと言うのも後に厳しい自己肯定ができなくなる一つの要因となった。


 この小石の出来事が、櫻を躓かせた……。

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