9 ナポリの食物

 ――一九六九年、九月。


 約束通りの東京は、今日はデート日和か暖かであった。

 

 善生と葵は、初めてのデートが映画であった。

 しかも、葵の面白くないと一旦決めつけたら譲らない洋画であった。

 大した問題でもないのに、少し笑える話である。


「お腹が空いたでしょう。ワタシは喉が渇きました。これこれ、炭酸が好きなんですが」

 そう、ジェスチャーを交えながら歩いていた。


 カラカラリー……。


 モダンだと思われる扉を見つけ、喫茶店にお昼過ぎに入った。


「どうぞ、どうぞ。お先に掛けてくださいよ」

 善生のお調子者が段々知られて来た。

「え? いや、映画館でもそうしてアタシが先に掛けてしまって。駄目ですよ」

「いやあ、お疲れでしょう。どうぞ、お先に」

「そ、そうですか? 困りましたね」


 カタリ。


 静かに椅子を引いたつもりが、ちょっと音がして、恥ずかしくなった。

「ご、ごめんなさい」

「いや。何がですか?」


 ガタリ。


 善生の椅子は遠慮がなかった。


「ナポリタンって何でしょうね?」

 その葵の一言で、ナポリタン二つになった。


「そうですね。意外と洋画も良いものですね。こうして観た後に映画の感想を話すのは初めてです」

 葵は、ちらちらと店内を珍しそうに眺めていた。

 誰も引かないピアノ、天井の見た事のない民族衣装のモビールが目を誘った。

 そんなインテリアを独り占めする程に喫茶店エーテルは客を選んだ。

「そうでしょう。『エデンの奇跡』、良かったでしょう。ワタシは、二回目です」

 ほくほくの善生。


「……あ! あ、あー!」

 善生を唸らせたのは、葵の行動であった。

「何ですか?」

 すまし顔の葵。


「それ、タバスコですよ。辛いですよ! そんなに掛けちゃ辛い……」

 善生は手を大袈裟に振り、慌てて説明した。

「え? ケチャップじゃないのですか?」


 ゲホッ……。

 グッ……。


 葵は、食べてから半分泣いていた。

 小花柄のハンカチで涙を拭いたり慌ただしかった。

「いやあ、失敗しちゃいましたね……。ゴホッゴホッ」

 恥ずかしそうにお冷やを飲んだ。

「お恥ずかしい」

 下を向いてしまった。


「大丈夫ですか?」

 善生が変な事をした。

「ワタシのナポリタン食べますか?」

 

「それは、あはは。違うと言いますか。あはは」

「良かった、笑った」


 葵は、そんなつもりはなかったが、次に会う約束をした。


 蟻地獄に入っていないか、蜘蛛の巣に絡まっていないか、結婚前の女性なら気を付けないと。


 葵は、そんな風には考えてはいなかった。


 昼間は暖かであったのに、ふと、涼しい秋を感じた。

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