彼の知らない所で
白衣病棟の中で私の前任者ほど冷飯を食わされ続けた者はおるまい。痩せた僕の友人のことである。
病院と言う狭い世界の中で彼は多くの悪意ある噂に弄ばれるような人生を送ってきた。陰謀じみた噂さえあるが、彼がそれに気付いているのか否かは知らない。
僕は友人としてこのことで彼を詰問した。
彼の仕事場は病院の敷地の外れにあり、周囲には雑草が茂り、雨漏りもするプレハブである。
「ご存じですか。あなたに関する悪い噂が病院内に満ちている」
「すべて知っています」と彼はあっさりと言って、言葉を続けた。
普通なら心が乱れ顔色も変わろう。
息づかいが荒くなるはずであるが、その気配さえない。
「悪い噂が人生を悪く追い詰めていく。私の人生はその悪循環の繰り返しだった。先回りしていることもあり、後についてくることもあった」
「悪い噂をばらまく輩を許しておくのですか。真実でなければ、なぜ否定しようとしないのですか。それとも真実ですか」
彼は、フンと鼻を鳴らした
「最初は真実ではない。だがすべて根拠のない嘘だとは言い切れない。次第に噂に染まっていったと言う言葉が正しい。社会的差別が新たな差別を産み、犯罪さえ産むように、私の人生を噂が左右し、噂自体が私の人生を造ることになったと言っても過言ではない」
彼は言葉を切った。さすがに心が動揺し息が切れたのであろう。
「噂が真実かどうかいうこのに何の意味もありません。噂が真実だったとしても誰も利益を得る者もいません。かえって被害を受けるものの方が多い。噂を創り出す者は私は私や私の周囲の人間を破滅させようと言う意図で噂を創り出し、病院内に流布したのです」
「あなたは大きな不利益を被った」と僕は叫んだ。
「最高学府を卒業し難関の医師免許まで取得した。ところが、そのなれの果てが、病院の閑職である職を転々とし、今は病院の片隅も片隅、誰も気付かない片隅の朽ち果てたプレハブで図書の整理をしている。あなたより遅れて、この病院に雇われたAさんやBさんは外科部長と内科部長として尊敬を集めている。自分の運命を不遇だとを嘆くことはないのですか」
「これも宿命です」
と他人事のように彼は言うのである。
攻撃的な口調になり、激しく食い下がった。
「あなたは病院内で、役立たずと言われているのです」
彼は、再びフンと軽く鼻を鳴らした
追い打ちをかけた。
「もうお気づきでしょう。この病院という世界が、いかに狭いものであるか」
彼の言わんとすることは、常に肌で感じていた。
「それなら、一層、この病院を去れば良かったのではないか」
追い打ちに等しいことを言った。
医師と言う立派な資格もある。その方が彼にとって幸せではなかったのか。
ところが彼は絶望的に頭を振った。
「リセットなどできません。医師の世界は狭いのですよ。逃げ出しても汚名をついて回るのです」
大多数は彼を邪魔者と思っているようであった。追い出されなかった理由も答えた。
「虎を野に放つようなものです。内部告発をされることを恐れたのでしょう。私が歩んだ人生も宿命です」
「宿命という言葉で片付けるおつもりですか」
この言葉が気に触ったのか、表情が険しくなった。
「父は、『せいこう』と言いました」
脈路もない告白である。苛立っているように見えた。
せいこう言う言葉から、もちろん男女の交わりを連想した。嫌らしい妄想をしたので自分の顔が歪んだ。
彼は私の妄想を見抜いたようである。
鉛筆を取り出し、白い紙に「清光」と言う文字を書いた。
視線は呆然と彼が書いた文字に釘付けになっていた。
彼は意地悪く質問した。
「成功」と言う文字も書き、このような言葉もありますよと、私を責めた。
「父は名前を呼ばれるために性的なことを連想し恥じ入ったのです。小さい頃から父は『せいこう』と呼ばれ続けたのです。親が真剣に考えた名前ですが、それが彼を不幸な人間に宿命づけてしまったかも知れません」
私は顔を背けて、首を傾げた。
ささいなことである。
それに突然、彼が父の名前を告白した理由も、彼の人生とはつながらないのである。
「父親はどうなりましたか」
「死にました」早口で冷たく言い放った。自己の父の死に対して何の感慨も感じていない様子であった。
彼の細い目を見つめた。
彼と言う人間をどのように解釈して良いものか分からなくなったのである。
「オイチニイ、オイチニイと旧軍の号令を発しながら息を引き取ったそうです。死の間際にも戦時中のひどい体験を思い出していたのでしょう」
私は小さく驚きの声を上げた。
患者二十四号が彼の父親であったと言う事実も初めて知ることであった。この病院の人間関係にも驚いた。同じ血族で構成されているのではないかとさえ思ったのである。
患者二十四号が彼の父親であったと言う事実は神の啓示のように脳に連鎖反応を起こした。
私を病院全体を案内してくれた肥満きみの女性のことを覚えているだろうか。原理主義者たちの階層で詳しく書いている女性のことである。興奮するとピをペと発音した。だからピストルをペストルと発音した。
彼女はMと言う病院の陰の実力者で謎の人物を紹介した。僕がこの病院に留まる代わりに退院を許可されたはずであった。ところがすぐに彼女と同じと思われる女性が自分の主治医として現れたのであるが、不思議に思いつつも正体を掴むことはできずにいた。
いつしか忘れていた。
実は病院で人物そのものは重要でない。その人が背負う肩書きが重要である。彼女は医師であり、しかも私の主治医という形で現れたのである。
話をピストルをペストルと発音する女性のことに戻す。
僕をMに引き合わせたのも彼女である。
その時はMは黒いマント姿でマスクを被り僕の前に姿を現した。マスクやマントが白色であったらアメリカの人種差別団体であるKKクラブの衣装とまったく同じであった。大きなマントやマスクに覆われた体格も顔も見ることは出来ず、声もマスクの生地にこもり、明瞭に聞き分けることはできなかった。でもMが動くたびに風に舞うマントの姿からMは痩せて身長も低いと想像した。丁度、今の目の前にいる男と似たような体格だった。
「世の中には影の実力者が必要な場合もあります」と切り出し、僕は心を決めて聞いた。
「あなたがMではないですか」と。
彼は答えず、まるで私の質問が耳に届いていないように無表情だった。
この思い付きが全く滑稽なことではない。彼が病院の裏事情や個人的な情報を承知しておれば、十分に可能なことである。もちろんスキャンダラス的な事情であれば、たいがいの人は暴露されるのを恐れて、門下に下る。しかし、ある一定の限度を超えてはいけない。相手を自暴自棄に追い込むことは避けねばならない。そうなれば効果はなくなってしまう。
彼は言った。
「確かに影の実力者は必要です。なにしろ法も道徳も通じない。法を造る政治の世界にも似ています。互いに多数を得るために勢力争いは絶えません。その数のバランスは不安定で、いつ、均衡が破れ不満が爆発するかも知れません。密室にちかい世界でギリギリのところで秩序やバランスを保たれているのです。仲間を裏切ることや破滅に追いやることに一切の良心の呵責を感ずることのない人も多いのです」
彼は穏やかに言った。
目の前の貧弱にしか見えない人物を私は見損なっていたのではないかと思ったのである。
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