インナーチャイルドに気を付けて

 白衣病棟には困った御仁が多いようである。でも他人ごとでない。彼らの多くは病院長を頂点とするピラミット型の組織を造るために、中途で退職をしていくのです。中途で退職する彼らは、周囲の小さな病院や会社に雇われることになるのですが、彼らを深く考えず雇うことは会社を倒産に導かない危険な行為です。社員の士気を低下させ、業績低迷に苦しむ企業が数知れずあります。くれぐれも厳しい目で雇う雇わないの判断をされるようにお勧めします。

 いつの頃の話ですかと私は思わず尋ねた。

 パワハラ同僚や博物館長の顔色がさえないと感じていた。博物館長も白衣病棟を去ろうとする時期であり、そのせいだとばかり思った。

 博物館の人間関係は崩壊し、修復不可能であるとさえ思った。疲れだけが残っていました。私などは救われる方である。もうすぐ退院できるのではないかと言う期待に心の拠り所を置いている。

 だが嫉妬深く、部下の一挙一足まで監視するパワハラ上司に仕えるレントゲン技師兼写真技師など疲れが貯まりきっているはずであるが、一家の生活を支えるために逃げようにも逃げようがない。おとなしい彼はただ我慢するしかないのである。それでも嫌悪感やトラウマは心に残り生涯に影響を及ぼすのではないかと陰ながら案じていた。以前は平凡な人物写真を偉人のような権威ある写真のようにしろ強要され、彼の気に入るようにしたのだが、今回は旧式のレントゲンでCTスキャンなみの仕事を要求され、不可能だと説明してもパワハラ男は納得しないと嘆いていた。彼は命じたら何でも自分の重いとおりになると思っているようである。物事を理解する力にも欠けているのである。部下の意見に耳を傾けることを恥だと思っているようでもある。このような欠陥人物は被害者の生活や職場さえも破壊する危険がある。

 彼の小言や無法さは白衣病棟全体に影響を及ぼしているように思えた。無理や難題を通す者が偉い。医療業務には関係のなく間違った内容であっても構わない。大きな無理難題を通す人間ほど影響力や強制力があり、偉いのである。

 間違っていても筋や理屈が通らなくても部下に強引に押し付けることが、上下関係を造る基である。

 もちろん医療事故防止やカルテなど個人情報流出事故防止のためのものではない。ただ単にピラミット型組織を維持するためである。

 白衣病棟の中でも博物館が最悪の例である。

 特に新博物館建設のために設計業者が設計業務を開始した時期から拍車をかけておかしくなった。

 浅い経験から想像すると、設計業務の最初に行われる基本設計と言う言葉に影響を受けたのではないかと思う。

 この基本設計業務が事後の業務全体に大きく影響する。だから基本設計は大事であると説いて設計業者は協力を求めたはずである。

 その言葉にトンチンカンな発想は誘発された。

 基本は大事だ。基本は上下関係だ。とトンチンカンなことに結びついたのではなかろうか。

 もともと白衣病棟では基本と言う言葉には病的で過敏な反応を示す。

 基本と言う言葉が枕詞的に最初にくると、後の内容はとにかく、狂信的でフェチズムな情熱が全身にみなぎるのである。パブロフの犬と同じ条件反射である。

 かと言って設計業者に全面的な信頼と尊厳を払う訳ではない。彼らは一段も二段も劣る存在である。白衣病棟は人間の命を守ると言う偉大な天職を与えられた存在なのである。役人が「官」と「民」と言う言葉を使い自らと民を区別するように、彼らも民間業者を軽蔑しているのである。

 単に「基本」という言葉が彼らの心の琴線に触れただけであると言うことを理解しておく必要がある。

 とにかく嫌な雰囲気が博物館に充満していた。


 そのような時に、二十五号と再会したのである。  

 先般、患者二十五号と廊下のベンチで再会を喜び会ったのは梅が咲きほころびる頃だった。それから二ヶ月が過ぎ、もう桜が咲き始めようとしている。

 白衣病棟は周囲に広い芝生がある。林もある。桜が咲き始めるこの時期、私たち薄汚れた白衣の者は浮かればかりおれない。病院全域の草刈りのため屋外で作業をする日々が続くのである、

 木々の葉の間から大地の草にこもれる春の日差しが心地よい日であった。

 白衣病棟の敷地の北端の一角の草刈り作業をしている時のことである。彼に会うことなど予想もしていなかったが、彼が小さな薄汚い小屋の入り口で二十五号がタバコをくゆらせていた。

 彼はプレハブ小屋の中に招き入れた。

 小屋の中は薄暗く、ひんやりしていた。歩くとベニヤの床が軋み、音を立てた。まだ石油ストーブは片づけられていず、床の上にあった。

 窓際にはネズミ色の古い机が真向かいになって配置されている。

 部屋の中央にあるゴミだめから拾ってきたような薄汚れて生地もほころんだ布製のソファに座った。

 「このプレハブ小屋で仕事をして居たのです」と彼は打ち明けた。

 白衣病棟での生活を始めて、一年が経過したが、ここにプレハブ小屋があることすら知らなかった。

「無理もない。白衣病棟のとの間には沼があり、しかも敷地のはずれにある。勤務の長い者でも、このプレハブ小屋が病院の施設とは思わない者もいる。病院長の計らいでこの建物でひそかに隠れて一年間を過ごした。若い女性の手を借りて、ひっそりと本の分類や整理をして過ごしていた」

 たしかに机は二つあるが、その女性の姿はない。不思議に思い、二十五号に尋ねた。

「今日は女性は休みですか」

 二十五号は顔を曇らせて、返事をためらった。

「うまくいっていますか」と、彼の顔色を伺いながら、用心して聞いた。

 彼はかずかに頭を左右に振った。

「最初は穏やかな日々だった。ところが最近、騒動が持ち上がった」と告白した。

「最近とは」

「桜の開花する時期です」

「なるほど、それはつい最近ですね」

「一体、女子職員の身に何が起きたのですか」とためらった末に患者二十五号に聞いた。

 若い女性を巡る問題である。性的なことかと好奇心で心は騒いだ。二十五号も私も初老に達する年齢であるが、やはり男女間の話題には関心がある。彼のただならぬ気配に私も黙り込んだ。

 だが遠慮をする訳にはいかながった。女性の身に降りかかった不幸が職場に漂うただならぬ気配の原因になっているのでないかと思ったのである。女性の身に降りかかった出来事は、もちろん不幸なことに違いないと思い込んでいた。この白衣病棟で幸せなことなどが降りかかってくることなどないのである。特に最近は例のレントゲン技師のことを思うと、そう思うのである。

「もちろん、もめごとです」と、彼は認めた。

「その結果は彼女は辞めざる得ないことになった」

「それでは、あの席は」

「空席です」

「仕事を辞めざる得ないほどの大きなヘマを、彼女はやらかしたのですか」

「とんでもない」

 彼は黙り込んでしまった。彼女を巡るトラブルの理由は話さずに、彼女の立場について話し始めた。実は同じ博物館長の下で仕事をしていたが、彼女の存在すら知らなかったし、彼女が辞めていったことも知らなかった。

「挨拶の仕方が悪い、歩き方に品がない。そんなことが理由です」

「やはり、そんなことで責められたのですか。分類や整理の仕事以上に大事なことなのでしょうかね」

「本の整理や分類の仕事など誰でも出来る仕事だと安易に思っているのですよ」と。

 白衣病棟では本来重視されるべき仕事が軽んぜられ、つまらない訓練などを重視する傾向があると二十五号が嘆いた。

 それを聞いて思わず舌打ちをして、言葉を吐き捨てた。

「つまらない」と。

 男女間のトラブルが絡んでいないことにも不満を感じた訳ではない。

 ところが二十五号は期待を裏切らなかった。

「それ以外にも複雑な問題が潜んでいるのです」と

「実は博物館の中でパワハラ男に敵対する者もいます。その男の怒りを買ったのです」と言い、ある男の名前を挙げて、「あなたと親しいですよね」と遠慮がちに言った。

 彼が言うとおりであるが、そのせいで彼は私にトラブルの内容を打ち明けることを遠慮していたのであろうか疑問は残った。

「パワハラ男に言われ仕事を頼みにいった。ところが彼女を怒鳴り上げたのです。しつけが悪い」と。

 彼女がパワハラ男と親しく話していたことが気にいらなかったのであろうと、私はすぐに理解した。

「そんな無法な言いがかりをつける男には見えないが」

「彼女以外にも態度が気に喰わぬと、それまで数名の女性を怒鳴り上げているのです」と、二十五号は教えてくれた。

呆れるしかない。ため息も漏れる。

「彼女は躾が悪いのですか」

 二十五号と一緒に仕事をしていたと言う女性を知らないので尋ねた。

「とんでもない。あいつは人を見るのです。相手が弱いと見ると強く出るのです。特に女性に対しては」

「それならセクハラではないですか。彼を指導すべきでしょう」

「私も、そう思い、彼に女性を怒鳴り上げると何事かと喰って掛かったのです」と患二十五号は言った。その時、彼の脳裏には、それまで彼の毒牙にかかった女性たちの姿があった。

「すると彼は言い返してきました。躾が出来ていないから怒鳴ったのだと。私は思わず怒鳴り返しました。君自身は躾ができているのかと。嫌らしいことですが、その時、彼が破産者でことを思い浮かべていたのです」

 そこまで言うと二十五号も黙り込んでしまった。私も黙り込んでしまった。

「彼は破産しているのですか」

「そうです」

「理由は分かりません。でも、彼は破産しているのです」

 彼は独身である。同情の余地はあるかも知れない。だが理由もなく怒鳴り上げられる者もたまらない。

「彼はこれ以上のどん底はない、怖いものは何もない、失いものは何もないと開き直っているのです」

 そんな非常識なと思いながら、そんな非常識が平然とまかりとおる世界が白衣病棟だと思い、嘲笑した。

「救いようがないね。まだどん底があることを思い知るしかないね」と吐き捨てるしかない。

 

 二人とも嫌な気分で気まずくなった。正面の患者二十五号から視線を外すように右下を見た。すると、そのソファに私の主治医でありドラえもん型女医が座っていた。白内障のせいであろう、腰から下の部分がかすんで見える。それに腰から下の像がかすんで見える人はもちろん、犬など猫などが病棟内を徘徊する姿を目にすることは多く気にしない。むしろいつもは携行するラジカセの音楽と現れるが、今日は音楽なしであることが気になった。

 二十五号と私の会話を聞き耳を立てて聞いていたにちがいない。彼女は早速、会話に加わった。

「このような悪戯をするのは心の中に棲むインナチャイルドせいよ。ほら小さな男の子が好きな女の子や気になる女の子にわざと意地悪をすること。そんな男の子の記憶が彼に残っているのですよ。それに嫉妬が入り交じって苛つくのでしょう。私なども大変な数の男性に意地悪されました。でも、それが女の勲章です。お婆さんも御経験がおありではありませんか」

 視線を左側ソファに向けると、驚いたことに老婆が相対するように座っていた。彼女は若い頃にバスガイドをしており、複数の男性に陵辱されると言うむごい仕打ちを受けた後に、気が触れた女性であるはずである。もちろん彼女の腰から下はかすんで見える。

 老婆は負けずに言い返した。

「そう言えば太郎も次郎も、与作もみんな私には意地悪だった。私が好きだったせいだったのね」

「そうよ。そうなの。彼はそのまま大人になってしまったの」

 女医から褒められても老婆はうれしくなさそうである。うさん臭いと言う風である。女医の権威を認めていないのである。

 インナーチャイルドと言う言葉は初めて聞く言葉である。子供時代の父親がアル中などで正常な形態を失った機能不全家族で育った子供が大人になっても、後遺症を引きづり、大人になり切らないと言うアダルトチャイルドと言う言葉とは違う言葉であろう。始めて耳にする言葉にまごついていると女医は私の方を見て説明した。

「心の中に潜む幼い時の記憶のことです。幼児期の記憶は後々まで影響を与えます。やがて少年期の生活に影響し、少年期の記憶は次の世代の生活に影響する。逃げることができない記憶です」

「舌を噛みそうな言葉だけど、要は三つ児の魂と言う訳ね」

 老婆が簡単に言ってのけた。

「そのとおりよ。まさしく心理学の大衆化だわ」

 女医は感激し叫ぶが、老婆は無反応である。

 右側と左側のソファに座る二人の議論には無関係に私と患者二十五号は考え続けた。

 私は口を開いた。

「実は写真技師がひどい目に遭っている大きな理由に、このインナーチャイルド男とパワハラ男の二人の関係に原因があるのではないかと思っているのです」

 パワハラ男もインナーチャイルド男も同じ年代で二人ともライバルのように反目し会っている。二人の緊張したいびつな関係の中で立場の弱いレントゲン技師が犠牲になったのではないかと思い始めたのである。

 二十五号は私の意見に同意した。

「インナーチャイルド男の躾と言う言葉が混乱を増幅した」と、二十五号は尋ねたので私はうなずいた。

「うるさく言う者がいれば自分がかすむ。それ以上にうるさく言わねば負けると」

 庭に転がる石にも上等、中等、下等と順番を付けたがる人種が集まる白衣病棟である。

 なるほどと二十五号もうなずいた。


 とは言いながら、この病棟での私の生活は終わりを告げようとしている。もう少しで私は退院できるはずである。右隣に座る主治医である女医が、そう耳打ちした。

 彼女の言葉が真実であると確かめようと右側の女医に視線を移した。

 ところが彼女は居なかった。左に座るはずの老婆に視線を移したが、老婆もいなかった。このような現象は白衣病棟ではよく見かけるので気にしない。

 彼女は私の守護神である。いつも判断に困った時などに姿を現し、正しい道を示してくれる。


「ところで退院も近いと噂を聞きましたが」と二十五号が問いかけてきた。

 この話はまだ他人には話して居なかった。

「誰から聞きました」と勢いこんだ。

「そこに座っていた女医さんですよ」と二十五号はソファーを指さして答えた。

「薄汚れた白衣のまま退院をすると宣言したと噂に聞きましたが」と二十五号は問いただしてきたので、強く頷いた。

 病院から儀礼的に真っ白な白衣を身につけることを許可されることがあるが、一切断りたい。意味がないと断ろうと思う。このまま薄汚れた白衣でこの病院を去ろうと思う。これまでの三十年の長きに及ぶ醜悪な記憶や出来事に対するささやかな復讐のつもりである。

「私も同じです。とにかく退院はおめでたいことです」と二十五号は祝福してくれた。


 患者二十五号と病院の敷地のはずれのプレハブの倉庫で会って以来、不思議な夢を見たり、奇妙な思いに駆られるようになった。多くは過去の出来事に関係することである。眠りにつく前には、半生の記憶が枕の底からわき出してくる。

 にがい記憶や恥ずかしい記憶も心地よく思うこともあった。

 数十年にわたり何らかの目的のために僕を破滅させようとした人たち。

 今でも許せない

 僕と関わることで不幸になった人たち。

 僕を救おうとした人たち。

 今、生きているのは僕を救おうとしたした人たち多かったせいにちがいない。

 次第に記憶が怪しくなってきている。

 後、何年、記憶力が保持できるだろうか。

 脳を正常に保っておれるだろうか。

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