別れさせ屋

不思議なことであるが、ここ数日、例の老婆のことが頭から去らなかった。例の老婆と言っても、分からぬ方も多かろうから、少し説明せねばなるまい。 

 開かずの間の通過者であることは明確であろう。一年ほど前に夜の見回りについた時に初めて見かけたのであるが、彼女はごみ箱に古い小冊子の本を捨てては、拾うと言う奇妙な行動を繰り返しながら、廊下を往復していたのである。翌朝、異様な体験を主治医のドラえ門型女医から報告した際に、彼女は生前にこの病院で過ごしていた、老婆の幽霊に違いにないと言った。ドラえ門型女医は幽霊の話にはさして関心は示さず、開かずの間の決壊が破られ、この世と冥界の境が壊れたことに大きな衝撃を受けたようであった。

 それ以来、老婆がよく病院内を徘徊する姿や清掃婦として仕事をする姿を見かけるようになった。

 二ヶ月前ほど前からは私の主治医のドラえ門型女医が老婆が村の男たちに集団で乱暴されて産まれた子供ではないかと疑いを抱くに至っている。

 老婆のことを心に思い浮かべる理由は思い当たらない。

 時間帯は決まっていた。病院の床につき、まさに寝入ろうとする時である。

 これから話す夜もそうであった。

 ピンクのカーテンを隔てて、四名の入院患者が共同で生活している。

 真冬であり、アルミサッシの窓は堅く閉ざされていた。

 ふと頬に冷たい風を感じ目覚めた。カーテンがかすかに揺れたように感じた。次の瞬間、老婆がベットの横の椅子に腰かけていた。

 集団病室であるが、もちろん男女の部屋の区分けは厳しいとは言え、消灯後にこの部屋に年老いた女性は居てはいけないのである。

 常夜灯が灯っているとは言え、目が慣れるまではしばらく時間がかかった。

 暗闇の中に彼女は膝を揃えて、その膝の上に両手を揃えるようにおき、小さく坐っていたのである。

 私は毛布を蹴り、慌てて飛び起きた。

 彼女は黙って私を見つめていたが、私が落ち着くのを見計らい言った。

「お願いしたいことがあります」と。

 真意を聞きかえした。

 すると彼女は追加した。

「実は娘のことです」と言い、

 左側に顔を向けた。私も彼女の顔の動きに釣られて右を見た。すろと彼女の右隣に主治医の女医が坐っている。しかし白衣はきていない。

 華やかなワンピースを着ている。実は彼女は医師の研修で不在をしていると聞かされていた。久しぶり見る姿である。しばらく会わないうちに、やせて胸の膨らみも大きくなり女性らしい体系になっている。化粧をしているせいか目鼻立ちがしっかり整った美人である。

「御願いしたいのは、この娘のことです」と老婆は紹介した。

 私は患者にすぎない。目の前にいる女医は痩せて別人に見えるが、私を治療をしてくれる医師である。その医師のことで個人的な相談などを受けることができるはずがないと断った。

 すると老婆は困惑して答えたのである。

「いいえ、いいえ。学問をしたとは言え、娘はまだまだ年相応の子供で、それに比べてあなたは人生経験も豊富で男女の情けにも詳しいと承っています。ぜひ娘の魂を救って頂きたいのです」と、彼女は両指を膝の上に揃え、頭を下げるのである。

 突然の訪問者に、たたき起こされたのである。寝ぼけているせいかも知れないが、娘の魂と言う言葉が漠然と脳裏に留まった。そして、しばらく会わないうちに、ずいぶん綺麗になったと、彼女の顔や姿を眺めていた。

 まるで全身に整形手術を施したような変わりようだった。

 老婆は私の困惑した表情から私の誤解に気付いたようである。

「私が産んだのは三つ子でした。この娘は末の娘です。あなたとは初めて会うはずです。上の娘はあなたと入れ替わるようにこの病院を去ってしまいました。中の娘があなたの主治医をしています」

 この病院では耳を疑うようなことが多い。

 納得せねばなるまいが、閉鎖的社会の中での近親的な関係にあきれてしまい、思わず顔をしかめた。

「この娘は可哀想な子なのです」

 内心では、その頃になると夜中に叩き起こされたことに腹が立ってきた。寝不足のまま明日の仕事に就くことを考えると気も重かった。

「この娘は三人の娘の中でも。親が言うのも変ですが器量よしで、亭主にも恵まれ幸せな結婚生活を営んでおりました。一人息子もでき夫婦仲も円満に見えました。三人姉妹の中で、唯一の親孝行娘に見えたのです」

 彼女はここで言葉を切った。そばの娘は両膝の上で拳骨を堅く握っている。痩せて青白い肌に青い血管が浮いて見えた。

「この娘がとんでもないことをやらかしてくれたのです」

 老婆はここで言葉を切った。

 言いにづらそうにしていたが、意を決して、言い捨てた。

「不倫をしてしまったのです」

 突然の告白に息を呑んだ。

 老婆の隣に娘に視線を向けたが、微動だにしない。

「しかも相手の男と思われる人物から赤裸々な写真が亭主に送られてきたのです」

「それは大変だったでしょうな」

「おかしいと感じ興信所に依頼し、調べてもらったのです。別れさせ屋の仕業だと言う回答が返ってきたのです」

「ワカレサセヤ」

 聞き慣れない言葉である。意味が理解できずにその言葉を反芻した。

「ええ、別れさせ屋です」

 それでも理解できずに、これまでの衝撃的に話しで貯まっていた驚きで、一気にため息が出た。

 老婆は熱心にその別れさせ屋なる仕事を説明してくれた。

「妻と別れたい夫がいるとします。でも高い慰謝料は払いたくない。面倒な裁判も痴話喧嘩など世間を騒がせることも避けたい。そんな時に、浮気な亭主は別れさせ屋に妻を不倫に誘うように依頼すると言うのです。別れさせ屋は口説きのプロです。結婚生活に飽きかけた人妻を誘惑をするなど、赤子の手を握りつぶすように簡単なことです。言葉巧みに女の心のすき間を探り入り込み、言葉巧みに口説き妻を不倫の現場に誘い込み、証拠写真を撮影するのです。そしてその写真を夫に提供するのです。夫は慰謝料を払わずに、簡単に妻を離婚に持ち込めると言う訳です。もちろん別れさせ屋に対する代償も払います」

 耳を疑う話である。

「世間にはそんな仕事があるのですか」

 依頼者がおり金銭のやり取りがあれば、仕事と言えるだろう。仕事だと思えば良心の痛みもかき消せるはずである。しかも下心を満足させることもできる。都合の良い仕事である。

「そのような仕事があるのです。そして需要もあるのです。興信所に調査を依頼して、初めて知りましたが」

「それにしても、娘のご主人はひどい男だったのですね」と私は同情を込めて、うつむいたままの娘を見た。

 娘は痙攣するように呼吸を吸い込み、おえつし、一言を発せなかった。

 当然、私は同情の言葉に頷くなどの反応を期待していた。

「ちがうのです」と、老婆が慌てて説明した。

 娘は顔を肩に沈め隠し、長い黒髪が膝に垂れ下がっている。膝に乗せられた手の甲には、涙が落ちていた。

「依頼者は夫ではなかったのです。主人はこの娘を熱愛し、信じ切っていました。写真を見せられたこの娘の夫はショックのあまり、この娘の前に先立ったのです」

 思わず老婆の言葉を反芻した。

 前に先立ったと言う言葉を聞き、やはりこの娘も冥界から迷い出た存在だと気付いたのである。

 娘は肩を震わせ頭を振り髪を振り乱し、鼻をすすり上げおえつを続けるだけである。

「主人は依頼者でなかったと」

 私の確認に老婆はゆっくりとうなづいた。

「それでは依頼者は誰ですか」

「結局、分かりませんでした。とは言いながら思い当たる人はいます。でも追及はできません。真犯人を定めたとしても誘惑をするように依頼したことや、誘惑をした別れさせ屋を犯罪者として裁くことは出来ますまい。結局、娘の失態です。世間体も悪く、騒ぎを大きくして傷つくのはこちらの方です」

 仕掛けた者たちの思う壺の展開である。

「別れさせ屋は」

「知りません」

 別れさせ屋のことなどどうでも良いという風である。

 これ以上、話すことはないと老婆は沈黙した。

 結局、泣き寝入りではないか。あっけなすぎると感じて、それでお仕舞ですかと聞いた。

 老婆は肯いた。

「騒ぎを大きくしたくありません。この娘の息子のためにも」と言いながら。それでも老婆は悔しいさを忘れられないのだと言うのである。

「油断して男の甘い口車に乗った私が馬鹿だったのです」と娘は繰り返した。

 おそらく彼女の日常生活のささいな不満を聞く気易い友人として近付いて来たのであろう。

 彼女にも責めはある。だが払った代償が大きすぎる。悔いても悔い切れまい。こんな惨い話があろうか。だからこそ夜中に、私の前に姿を現したのであろう。

「悪質すぎる。誰が仕組んだ仕業でしょう。何の目的で仕組んだのでしょう」と漏らした。

 もちろん家庭を崩壊させることが目的である。だがむやみやたらに他人の家庭の崩壊など関心を持つ者はおるまい。やはり経済的な動機であろう。

 ご主人の仕事上のライバルか。あるいはご主人の方を恨みに思った者かも知れないと言うと。老婆は嫉妬深い悪魔はどこにでも存在すると言い、気丈夫なはずの彼女がとうとう目頭を押さえて嗚咽を始めた。

 この娘を襲った悲劇を書いて下さい。娘や家族を不幸に陥れた一味に復讐をしたいと彼女は言った。

 はたして書いてどうなるのであろう。

 相手に良心のかけらが残っているのだろうか。世の中には良心のカケラもない奴もいる。そのようなやからは自分が不幸にし、踏み台にした者をあざけ笑うことはあっても反省はしないのである。中には運命を左右した支配者になったと優越感を味わう者さえいるのである。まともでない人間が、この世はウヨウヨいる。しかもまともな人間もまともでない人間につきあったり、まともでない集団に属すると、まともでなくなる。

「泣いていてばかりで分かりません。どのようにしたら良いのですか」

「とにかく何とかおねがいします」と声を詰まらせて言い、激しく嗚咽を続ける娘の腕を引き、立ち上がらせ背中を押すようにカーテンの外に立ち去った。

 古い怨みは新たな怨みを招く。古い差別は新たな差別を招く。これは世間の常道であり、何とか老婆や娘、そして主人や両親を失った息子の怨みを晴らしてやりたいが、はたして何とか出来るだろうか。

 二人が去った頃には真夜中の一時を過ぎていた。その後、私は毛布を被り寝入ったが、翌朝は案じたとおりの寝不足であった。

 重いまぶたをこじ開け、主治医の女医の前に座った。彼女はすぐに私の疲労に気付き理由を聞いた。

 彼女は唇をかみしめて険しい表情で昨夜の出来事を聞いていた。彼女の表情から具体的な心中を推し量ることはできなかったが、初めて聞く話なのかどうかも分からない。だが動揺をしているのは明らかだった。

 恐る恐る事実かどうか尋ねてみた。

「そのような初めて聞きました。事実だと思います。妹は何も話してくれませんでしたが、亭主の突然の自殺や亡くなる前のやつれた様子から想像するとあり得る話です。」と悲嘆し応えた。

「息子のことを案じておりましたが、今はどうなっていますか」

「私が大事に育てています」と女医は応えた。

「ドラえ門の大好きなのです」と小声でつぶやいた。

 男の子の年も推測できた。

 これまで彼女をドラえ門型女医などと揶揄したことを後悔してため息を吐いた。

 自己反省しながら、頭の中で文学界で巨星のごとく光り輝くある作家の書いた「もんぴのいど」と言う作品の一部を思い出していた。

中国の清王朝末期の光緒帝の后である「もんぴ」と言う后の哀れな死に際の姿を思い出していたのである。

 千九百年のことであるが、「もんぴ」と言う光緒帝の寵愛を一身に受けた后が悲劇に見舞われたのは義和団退治のために西欧列国軍が打ち鳴らす砲声で恐慌状態になった紫禁城の中での出来事であった。

 光緒帝の寵愛を得ることができず嫉妬に狂った姉のふとちょの后の恐ろしい呪いの言葉を聞きながら頭から逆さまに、女人の腰回りほどしかない狭く深い井戸にコルク栓のように無理に詰め込まれていくのである。

 自分の主治医である女医が、そのふとちょ姫の役割を演じて、別れさせ屋に妹の誘惑を頼んだのないかと疑ったのである。

 老婆も同じ疑念を抱いたのではないか。

 だから深い怨みを抱きながら、曖昧な「何とかして」と言う言葉しか残せなかったのではないか。

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