なぐりこむ男(白衣病棟番外編)
嬉しさのあまり患者二十五号に打ち明けていた。
薄暗い休憩室でのことである。古い座り心地の悪いベンチがあるだけの小さな隙間である。黄色い蛍光灯が宙にぶら下がっている。多く買いすぎたために目立たない場所には黄色い蛍光灯を活用し、早く使い切ってしまおうとしている。
患者二十五号とは、「サドで嫉妬心が強い上司がいる職場」で出演して頂いた人物である。もちろん彼は二十五号室に住んでいる。彼は私の前任者であるが、私と交代した後に記憶を操作する薬を投与され、廃人にされかかった人物でもある。
私が彼に喜んで話すことは建設予定の新教育用施設のための備品見積や、その配置を計画する仕事を手伝うことになったからである。今回の仕事への参加は私が世間的に正常な人間になりつつあると認められつつある。
彼も喜んでくれるものと思っていた。
ところが彼は冷ややかな視線で私を眺めるだけだった。途中で話を止めるのも不自然であり、無理に続けるしかない。そんな気まずさを感じた。
私の話が話し終えるのを待っていたかのような彼は小首を傾げ、危ないと言い切った。
「まず、この種の仕事ではみんな自分の記念碑を残そうと頑張りすぎる。他人を消しても自己の主張を通そうとする。次に保守派と進歩派など反目し合う者たちが、互いに足を引っ張り合い始末に負えないことにもなる」
白衣病棟の南側には近代的な白亜の大病院がある。白衣病棟は、その白亜の大病院の付属施設に過ぎないが、白亜の近代的大病院といえども地方病院にすぎない。
病院本部は、もちろん東京にある。
三ヶ所の地方病院に医師や看護士の養成のための教育施設を設けているが、その中でもこの病院の傘下にある教育施設が施設も備品も古く、新しい時代の医師や看護士の養成にふさわしくないと言うことで建て替えが必要だと言われ始めたのである。すでに三、四年前から噂になっており、二十五号の方が詳しく知っているはずであった。
彼は冷ややかに笑った。
「無駄です。この病院で新しいことを行うことはできません。新しいことを築くために必要な創造的な人間がいない。ルールを馬鹿正直に守り、ある時には悪用し身の安全を守る者しか残っていません。創造的な人間は淘汰されるのです。中枢に残こる者はルールに正直な者だけです」
言い終えると彼は周囲を注意深く見回した。
彼が記憶を消される薬を投与されたのは、この休憩室で病院を批判したせいではないかと疑っているのである。
盗聴器をないか探すために、ベンチ椅子や灰皿の下を腰をかがめてのぞきこんだ。
もちろんあるはずはない。
休憩所にほかに盗聴器が隠せそうな場所はない。
彼は用心を解いた。
彼は私を同志と信じきっている。数少ない話し相手であり、失いたくないという願望のせいもあるようである。
「ところで何を新しくするつもりですか」と、彼は挑戦的に質問してきた。
当然、会議に出た以上、知っているはずだった。
ところが、この質問の回答に私は返答に窮した。
彼はこの反応を予想していたようである。
ふふと小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「会議を何度、開こうが無駄です。ひとつだけ忠告しておきます。気まじめに考えたり、会議の席上で発言などをしてはいけませんよ。あなたはこの病院では一番、下等な身分です。患者の立場で的を発言をしたら、偏見は憎悪に変わります。すぐに袋叩きにされます。あなた個人に対する憎悪だけでは終わらないかも知れません。小さな憎悪を煽り立てて大火にしようと企む者も病院にはいます」
一息おいて彼は耳打ちをした。
「この病院が抱える問題は単純で明確です。海外で発生する大災害に迅速に医師を派遣できるようにすること。それに最新の医療器具が使いこなせる医師を養成することです。ところが問題を複雑なことがらのように偽装し、混乱させるのです。保守派の常套手段です。解決の糸口を見失わせるのです。巧みな隠蔽工作と自画自賛工作で事件の発覚を抑え、社会の非難をかわすのです。真剣に取り組まねば国からの補助金もカットされて病院の行く末が危ないのですが」
病院長も同じことを言っていた。
「でも誰も病院の行く末など心配しません。病院の将来など他人ごとです。危機感もありません。その方がよいのです。こんな病院など早く消滅した方がいいからです。自分たちが路頭に迷うことになるなどと危機感を抱いたら、騒ぎが大きくなり、世間に醜態を晒しかねません」
その時である。
「誰だ。こんな所にバケツを置き放しにして」と怒鳴り声がした。次にそれを蹴飛ばす音、そして床をバケツが転ろげ回るカランカランという音と、水が流れ広がるザーという音が廊下にこだました。
荒々しい足音が近付いて来て、姿を現したのは真白い新しい白衣を身に着けた医師である。
彼は僕たちを見て詰問した。
「バケツを廊下に置き放したのは君たちか」と。
二十五号は医師の剣幕に縮み上がった。
もちろんバケツは彼が置いたものであるが、彼は口は達者だが、臆病なようである。
小さなことに感情を爆発させ大騒ぎをする医師がいると言う噂は聞いていた。
私には彼がその本人かと観察していた。
「緊急患者の搬送の邪魔になったらどうする」
とにかく彼は五分間ほど大声で同じ内容のことを質問していた。二十五号は卑屈に頭を下げ続けた。
私は、とうとう、医師のしっこさに堪えきれずに反論をした。二十五号を庇うつもりであった。
二十五号は私の方を見て、顔をしかめて発言を止めようとしたが、間に合わなかった。
バケツが廊下の中央に置いてあるなどとは考えられないことである。
「廊下のすみにおいてあったバケツをわざと蹴飛ばすことはないでしょう」と。
「患者の癖に生意気なことを言うな。廊下は狭い」と彼は怒鳴り返して来た。
彼は激怒し、再び感情的に叫び始めた。
「医師が怪我をしたらどうする。おまえたちのような患者や看護士と区別の付かない中途半端な者がいるから、この病院は良くはならない」
私の反抗的な態度は彼の感情的な怒りを増幅させただけのようである。
二十五号は水浸しになった廊下が気がかりで仕様のない様子であったが、お構いなしである。
それから十分ほど大声で怒鳴った末に、彼は小言を言いながら元の道を帰って行った。
その三日後に、患者二十五号と休憩室であった。二十五号は病院内でおきるできごとをさとく聞き知っている。例の医師の近況について嬉しそうに話した。
「例の医師が外科の看護士たちが草刈りを行う現場に殴り込みを仕掛けた。外科には創造的な医師が数人、存在する。例の医師は彼ら行動を牽制するために殴り込んだ。外科の医師は会議での発言を慎むことになるだろう」
と言った。
詳しい情景は、外科病棟の看護士が病棟周囲の草刈りをしている時のことである。ヘルメットをかぶっていないことに気付いた例の医師は好機到来とばかり大声で殴り込んだのである。殴り込みを仕掛けられた看護士も黙ってはいない。草刈り作業にヘルメットは重要ではない。防塵用のメガネが大事だなどと言うが、草刈りも作業も作業であるからヘルメットをかぶるのは規則上、当然であると言い負かしたらしい。
「この病院の医師はマニュアルと言う存在の本質を考えたことがあるのですか」と質問を発していた。
医療現場においてマニュアルとおり処置を行ったが故に、あやうく大事故を招きかねないことがあったようなことも耳にしていた。だが病院内マニュアルに従っていたら問題にはならなかった。マニュアルが守ってくれるのである。だがマニュアルに従わない処置だと無事に処置を終えても問題になる。
その病院内マニュアルは社会全体の医療技術の発展や変更があっても変更をされることはない。
マニュアルの変えるためにも新しい人材が必要であるが、新しい人材を育てる教育施設を造る創造性さえないのである。
殴り込みをかける例の医師たちは、この危険性に気付いているのだろうか。
あるいは焦りを感じるやも知れない。
そして蛇が自らの尻尾にかみつき暴れ回っているように、ループの中で解決できず、不満のはけ口を求めて殴り込みに求めているようにも見えるのである。さらに重要なことは古いマニュアルや規則には権力闘争の血のりがじみ込んでいることである。マニュアルや規則はこれまで権力闘争が起きた場合、相手を打ち負かす手段としてきた。現在のマニュアルはライバルを打ち破り、病院で頂点の地位を得た勝利の記念碑である。思い出でもあり、人生そのものでもある。
「そんなデタラメでは教育では国外へ派遣される医師も困るでしょう」
「博愛主義や精神主義に頼り頑張ってもらうしかありません」
「それだけですか」
私は呆れてしまった。
「大丈夫です。それだけではありませんから」
二十五号は私をからかっている。
「回診のために廊下を歩く時の医師の姿を思い出して下さい」
いつも看護婦を左右に二名、率いて主人公の医師は廊下の中央を脇目も振らずまっすぐに歩いて来る。後ろに従う看護士も視線を動かさず背筋をまっすぐに伸ばしセイセイと歩いて来る。まるで駆逐艦を従え白波を切る戦艦のような威容さえ感じる。その姿に誰もが思わず道を譲るはずである。
私の感想に二十五号は大きくうなずき言った。
「あなたが感じたとおりです。あの威容が一番、大事なのです。いかなる困難な苦境に出会っても医師としての権威を維持することです。白い巨塔と言うテレビ番組を手本にして医師の姿を学ぶように指導されているのです。医療技術の取得など二の次です」
「虚構の世界であるドラマ世界を現実の世界の出来事と思い込んでいる。幼稚すぎる」と呟いた。
廊下でバケツを蹴飛ばした医師の剣幕も理解できる。それこそ医師の威厳を示すべき回診と言う儀式を壊すことを恐れての剣幕だったのである。
視線を空中の一点に集中し足元などには注意のカケラも払わない行列がバケツにつまずくことは大いに起こり得る。そのようなことが起きれば一大事である。医師は水浸しの廊下をのたうち回り、後ろに従う駆逐艦、すなわち看護士も医師の上に覆いかぶさり、それこそ廊下は修羅場と転ずるにちがいない。いずれにしろ無駄なことのように思えた。
私はだめ押しをした。
「確かに不必要なこととは言い切れません。でも、ほんとうにそれだけですか。そんなことに時間など費やせずにまじめに医療技術の修得に励むべきではないですか。医師を信じて命を預ける患者こそ迷惑である」
二十五号は正論を聞き苦笑し、驚くべきことを言ってのけた。
「それだけです。医療技術を教える担当も、みんな同じです。格好と精神主義です。でも誰もあなたが考えるようなことを考えたり、心配をする者もいません」
「信じられない」と私は嘆いた。
「患者がデタラメな治療に気付き騙されたと騒ぐ時には死んでしまい天国か地獄に行っていると見抜いているのです。何も心配いりません。一番大事なことは病院を支配する者たちが青春時代に教わった最新の治療法ペニシリンなど抗生物質を中心にした治療法を守り通すことです。その間は彼らの地位も安泰です」
最中に正面の近代的な白亜の病棟で騒ぎが起きた。
庭の手入れをしていた看護士の目に伐採機がはじいた小石が入り失明の恐れがあると言う話が病院中を駆けめぐったのである。怪我をしたのは例の殴り込みを掛けた医師の科の看護士である。しかも防塵用のメガネをしていなかったと言う。
「森の石松一家の殴り込み込み事件が逆さまになったようですね」
と言い二十五号はふふふと例の冷笑的笑い声を立てた。
「森の石松一家殴り込みのさかさま事案ですか」と面白い言葉に感心したものである。
だが、面白くなりそうだなと言う言葉には不気味さと違和感を覚えた。病院の職員が一人片目が失いかねない大事故である。面白い出来事として笑えない。
彼の感覚を許すことはできない。
彼もおかしい。彼だけが正常な分類に属する人種だと思っていたから、すべてがおかしいと言わざるえない。
二十五号は私の心が彼から離れかけていることに気付いた。
慌てて話題をそらそうとした。
「あの医師はあなたにとってもトラブルメーカーなのです。前年に病院内に保管する専門書や技術書が古いので、新しく技術書を購入しようと言うことになった。その時にも彼は殴り込みを掛けて来たのです。新しい技術書は要らない。それより古い技術書はどうしたと。どのような技術書かと言うと、あの夢遊病者の老婆が携えていたような黄色く変色した古いみすぼらしい本です。彼には黄色く変色した本に価値があると主張するのです」
「変色した古い書籍に貴重なことが書いてあると主張するのですか」と思わず問い直した。
「中にはあるかも知れません。古い医療技術書には魔法が宿っている、あるいは呪文が隠されていると信じているような雰囲気なのです」
「気違いじみている。医療技術の発展を研究する研究者なら参考できるでしょう」
「しかも若い医師まであおり立て、伝統的な治療法を知りたいと図書室に押しかけるように仕掛けるのです」と、患者二十五号は追い打ちを掛けるのである。
「最新の治療法に関心を持つべきではないですか」
「この種の古い本は、彼らの目に触れないように蔵の中に隠しました」
「なるほど」
「でも新しい技術書を購入する話は潰れてしまったのです。これ以上騒動を大きくすることは得策ではないと判断したのです。それこそ彼が期待した効果です」
「あきれる話はそれだけではありません。ある時などガンを簡単に直す方法を書いた本などないかとか聞いてくるのです。まるで図書館に行けば何でも解決するように思っているようです」
まるでパチスロ必勝法と言うマニュアル本で探しているようである。不真面目と考え方としか思いようがない。医療技術は日進月歩で進歩することも、ガンの治療が困難なことは医師なら常識で承知しているはずである。いずれにしろ彼はこれまで一冊も本を読んだことがないようにも思えた。
「そのとおりです。最近までは本を読むことは罪悪だと信じていたのです。病院マニュアル以外のは心を乱す毒物でしかないと信じ切っているのです」
「それでは新しいマニュアルも新しい教育施設などもできるはずがありません」
騒ぎは収まった。
「今回の事件で保守派は痛手を受けたのでしょう」
私は二十五号の冷笑が、そのせいだと思った。ところが彼は全く別のことを言った。
「とんでもない。保守派は返って団結します。彼らは今回の怪我騒動の結果は野蛮で暴力的な方法で力を発揮します。最終的には数の力です。創造的な意見は声を潜めます」と彼は冷笑した。
「そこまで冷静に分析をできるのなら論戦に加わり、病院の役に立とうと思わないのですか」と私は二十五号を詰問した。
ところが彼はふふふと鼻で笑って答えた。
「この病院に私は忠誠心は持ちません。期待を抱きません。それにうす汚れた白衣を身に付ける私の意見に誰が耳を傾けるものですか」とひねくれた。
「とにかく白衣病棟を嫌う理由は何ですか」と問い詰めた。
「うす汚れた白衣を長く着せられたためですか」
二十五号ははしばらく考え込んでいたが、明確に答えた。
「白衣の色にこだわることは周囲の仲間に対し恥ずべきことです。色がうす汚れていても、毎日、洗濯をし清潔にしてさえいれば、何の問題はありません。むしろ周囲にいる薄汚れた白衣を着る者たちの中にこそ正直で誠実な人間らしい者が多くいることで、この薄汚れた白衣を身に着ける自分に誇りを感じます」
「白衣病棟を憎む理由は何ですか」
「上司に対する個人的な怨みのせいですか」
彼が彼自身の上司を激しく憎んでいたことや、過去に出会った人物を憎んでいることを知っている。そのせいだと思った。
「それもありえます」と彼は答えた。
だが次に彼は私が予想もしなかった言葉を語り始めた。
「むしろ彼らに対する怨みより、彼らの不正を許し、真白い白衣を与える不公平な病院を怨んでいるかも知れません。この病院が社会に対し平然と行う不誠実な裏切り行為のせいで怨んでいるのかも知れません。この黄色いうす汚れた着なれた白衣で十分です。退院をする時に儀式的に真白い白衣を着ることを許されることがありますが、そのような虚礼を受けたくありません。色が真白いからと言って何の価値があるのですか。このようなお粗末な考えしかない病院など早く潰れた方が良い」
私も、そう思った。
「でも近くに病院は必要でしょう」
「新しい病院を立ち上げるのです。良質な医者や看護士だけを、そこに移すのです」
その後に患者二十五号の姿は見かけない。
ところが休憩所で体を休めていると、久しぶりに例のドラえもんのような女医が通りかかった。彼女は相変わらず劇場型の治療法を探求しているようである。携える古いラジカセのスピーカーから勇ましい革命歌が流れている。
「立て!呪はれしもの! 立て!飢へたるもの! 正義の焔は 今こそ燃ゆる」
彼女は二十五号の正体を告げ、彼の近況を教えてくれた。
「あなたの前任者である二十五号は、四十年ほど前に日本中を騒がせた革命家の生き残りです。彼は挫折してしまったのです。挫折した絶望感を癒し、彼を苦痛から救うために治療をしています。彼らが望む革命が成功した世界を演出しているのです。でも危うい状況です」と告白した。
「もし治療がうまくいかねば、どうなりますか」と心配をして聞いた。
「この病院では手がおえないと言うことで転院をさせられます」
この女医は次に会ったのは、それから一週間ほどしてからである。彼女は宣告した。
「二十五号はこの病院では回復は見込みないと判断を受け、他の病院に転院にさせられました。あなたも患者二十五号のことは忘れた方が良いでしょう」と忠告を受けた。
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