開かずの間の通過者

 この物語は、他界してかなりの年数が経過した今でも白衣病棟の二階の廊下を夢遊病者のように徘徊するバスガイドの物語に関係するものである。彼女の恋人であった男性が霊が開かずの間であり、今は二十九号室と呼ばれる部屋を通過したにちがいない。

 老婆から聞いた地名が人名が共通して出てくるのである。もちろん実名で地名や名前はは書けない。

 二階の開かずの間に引き寄せられて来る霊は多い。病院に直接関係しない者や、生きている人物から抜け出した生き霊も多い。

 生き霊とはまだ生きている人物から抜け出してさまよう怨みや憎しみのかたまりである。そして死霊とは死んだ人物から抜け出し、さまよう怨みや憎しみのかたまりである。

 途中で、この霊は生き霊であると分かったことまで前書きとし、物語書きを進める。

 夜の病院を火の用心や、不審者の監視のために巡回することは入院患者の中でも比較的症状の軽い者だけに病院が命ずるのであるが、その夜は私が当番であった。

 これから二十九号室と呼ぶが、丁度、開かずの間の前を通り過ぎようとした時のことである。部屋の中から話声が漏れ聞こえるのある。

 固く封印され、施錠された扉の向うに人がいるはずはない。だが驚きはしない。これまで何度か不思議なことが起きている現場に遭遇しているのである。

 声の主は男であった。

「青年たちの行為を許してくれだと」

 声は怒りに震えている。

「許せる訳がないだろう。奈落の底を歩いて来たのだ」

 無理に怒りを押し殺した声である。かえって怒りと怨みの大きさを感じた。

「若気の至りだったと。大事な恋人を脅迫された上に弄ばれたんだ。その後の男としての尊厳を奪い去られ、あざけりを受け続け、社会的に地獄道を歩き続けたのだ」

「村の予算配分、職員の採用法や処遇などを巡る些細な意見の相違から生じた行き違いから生じた事故だったと。ライバル同志の争いだったと」

「軽い言葉で恐ろしい現実を欺こうとするのか。脅迫をしたのだろう。そして彼女や私の人生を破滅に導いた。少なくとも導こうとした」

「起きてはならぬことだった。だから村でも現実に起きなかった。幻にすぎなかった。面白い理屈だ。感覚を麻痺させるつもりか。村人は忘れてはいない。美しい村の気風はすたれ、心までむしばんだ。事件や事故が相次ぎ、何も関係ない多くの村人が経済的な被害さえ被った。復讐を果たさねば気がすむまい」

 村名や事情などが明らかになった。

 だが小説でも具体的なな村名は氏名は明かせない。

「彼女は関係を断ることもできたはずだった。あくまで彼女の自由意志だったと言い張るのか」

「多勢で、執拗な脅迫を繰り返し、彼女を追い詰め、正常な分別を奪ったのだろう」

 ほかの人間の話声は聞こえない。

 独り言を言っているのだろう。

 物音もしない。

「同じ時代に、同じ地上で同じ空気を吸うことも断りたい。消えてしまえ」

「自分の恋人は男たちに肉体を許すことを喜んだと。そんなこと知ったことではない」

「脅迫など誰もしなかったと。僕と一緒になったら不幸になる。君の幸せのためにも大事な話があると、夜の神社に誘い出した。それでもひとかけらのやましさもなかったと言うのか。ひとかけらのよくない考えはなかったか言うのか。嫁に行く前に関係をしろとやましい気持ちは何もなかったと言うのか」

「許してくれと。今更、許しを請うことができるとでも思ったか」

 甲高い奇妙な笑い声が二十九号室から聞こえてきた。これまでの話声の男の声音と同じである。笑っているのは甲高いが同じ男にちがいない。

「笑ったな。開き直ったのか。僕に落ち度はなかったかと問うのか。この場でそんなことを問題にしていない。問題は違法行為がなかったかどうかだけだ。犯罪性がなかったかどうかが問題だ。人間的な落ち度があった云々運は別の機会に問題にしろ。今更、時効だと言うのか。生きている以上、化けて出ることもできまいと言うのか」

 私はこの声の主がこの世に存在する人物である知った。そして開かずの間から聞こえる声は生き霊の声である。

「どのように贖えばよいかと」

「脅迫を行い続け僕かと恋人を奪ったのは君たちのはずだ。今は消息も知れぬ。この世に存在するか、あの世の存在かも定かでない。どちらでもよい。彼女は君たちのものだ。最後まで面倒をみろ。そして私から奪い、もてあそんだ恋人に聞け」

 断片的に独り言である。

 数十年前にある村でバスガイドが青年に陵辱されるという事件が発生したが、バスガイドの恋人だった男の声にちがいないと確信した。


 翌朝、開かずの間から聞こえた話の内容をを私の主治医である女医に報告せねばならなかった。

 夜間の巡回で異常なことに気付いたら報告することは指示されていることであり、特別なことではない。

 私の報告を受ける女医は顔は次第に曇っていった。彼女にはいつものオテンバな様子はみじんもない。話を真剣に聞き入っている。

「困ったことになったわね。このことは軽々しく他言をしてはいけません」

 私は、いつもとあまりに様子が異なるので、エエと疑問の声を発した。

 彼女は、私を本当に指示に従わせるためには、細かく具体的に教える必要だと感じたようである。声を潜めて教えてくれた。

「その人は、まだ死んではいません」

「それでは、彼はあの部屋に夜中に忍び込んだと」

「そうは言っていません。封印は破られていなかったでしょう。鍵もかけてあったでしょう」

「それではやはり、生き霊の類ですか」

「ええ、そうとしか考えられません。あなたが言うとおり開かずの間の声は生き霊の独り言でしょう。しかも私が知るかぎりではこの地域の白衣病棟で治療を受けているはずです。

実はこの地域にある白衣病棟は一棟だけでない。詳細は不明だが、数十棟はある。それに日本全国に存在するのである。しかも日本以外の外国にも多く存在するのである。

」と女医は言った

「それでは困ったことにならないのではないですか」

 厳密に言えば死んでも成仏できずに化けて出られたら困る。理由は白衣病棟に入院する前に各人が病院に提出する誓約に違反するからである。

 入院患者は次のような誓約を行うのである。

 私は医師が施す治療を絶対的に信頼します。

 一つ。

 私は病気が快癒し軽作業を命ぜられることになったら、命ぜられた仕事の完遂のために身命を賭します。

 二つ。

 私は医師のモルモット的な治療に対しても一切の不満は持ちません。

 三つ。

 私は医師のモルモット的な治療、あるいは命ぜられた軽作業中に死亡しても一切、恨みを残さず、復讐を願うこともありません。あるいはそのためにこの世に化けて出ることはいたしません。

 問題はこの三番目の誓約である。死んでから化けて出ないと言う誓約である。生きている間に怨みに思い、化けて出るなどとんでもないことである。生きている間は自制心や日々の暮らしに忙殺され怨みを募らせ、精鋭化し化けて出ることはないはずである。もしこのまま死んだら、この生き霊の怨みは数十倍に肥大化し、人々を恐怖の淵に追い込まぬとも限らない。

 もちろんこれら三つの誓約以外にも白衣病棟では様々に守らねばならないことが多くある。誰が決めた不明であるが意味不明な掟が存在するのである。最近では退院を間近に控えた患者たち三名が、「退院をする前には好きな若い看護婦を云々」と言う若い男性の看護士の言葉に踊らされて、喜んで看護士を共同で暴行し、監獄に送り込まれると言う事件も起きた。

 これなどはまだ良い方である。

 数年前には、哀れにも退院の日に棺桶で運び出されると言う事件さえ起きたのである。

 白衣病棟を出る時には生まれ変わらねばならない。

 この言葉に尾ひれをつけて退院を控えた若い患者を死に追い込んだ看護士もいる。

 彼は次のように言い若い隊員患者を死に追いやった。

「すなわち生まれ変わるためには死なねばならない。歴代、退院患者はその儀式を経て生まれ変わり退院して行った」

 しかも看護士は同じ時期に退院を控えた若い看護士まで巻き込み、「君たちは首を吊ったか」と質問に、「はい」と応えまでさせている。

 若い看護士は彼らの言葉を演技を信じて、退院する前日に白衣病棟の庭の松の木で首を吊ったのである。もちろん彼は生き返らなかった。その若い看護士の現在は中年になり、白衣病棟内で出世をし幸せな人生を送っている。


 話を元に戻す。

 女医も生き霊が病院内を徘徊することの重大さを次のような言葉で言い表した。

「生きている時の方が自制心が働き、霊が本人の意思を無視して夜とは言え、歩き回ることは少ない。それが死んだ後となると自制心が失われて、勝手気ままに徘徊を始める。しかも世の常であるが、人々はそれを面白がって、あることないこと付け加える」

 でもと私は噂で耳にしたことを小声で言った。

「そのようなことがないように、ひそかに二十九号室に結界を張り、死者の恨みがこの世に出ないように封印をする準備をしていると聞きましたが」

 おもしろいことをする病院だと読者諸君は思うかも知れないが、これは日本社会の本質的な特徴である。

 例えば靖国神社は戦死者の霊を封じ込める結界である。残念ながら、その結界はあまり完璧ではなく、時に冥界と現世に通路が出来て戦死者の死霊が現れ、自分たちの血を無駄にするなと干渉し戦争を起こしたことが多くあった。

 靖国神社だけではない。

 奈良の法隆寺も福岡の太宰府天まん宮にしろ同じである。法隆寺は蘇我一族に皆殺しにされた聖徳太子を神として祭り、太宰府天まん宮は菅原道実を神として彼らの恨みが現世に害をなさぬように結界を構築しているのである。

 女医は打ち明けた。

「二十九号室に、すでに結界は構築されているはずです」

「それでは結界が効いていないと」

「そう言うことになります」

「誰が結界の構築を試みたのですか」

 余計な質問であった。

 明治大正の大政治家であり、多くの戦死者の恨みを封じ込めるために靖国神社を創設した山県狂介のような偉大な結界師はこの世には存在すまい。

 だが二十九号室のような小さな部屋に結界を結び、幽界と現世を区別できるぐらいの結界師が存在しても良さそうものである。

 女医は答えず、別のことを言った。

「とにかく部屋の仕様を含めて考え直す必要がありそうですね。でも、今の世の中、はたしてそれで怨みを封じ込める結界を構築できるかしら」と彼女は不安をのぞかせた

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