棄民(金玉均)

死者の声を聞く男に登場をしてもらう。

 いよいよ患者二十八号の話である。

 これも彼の体験談であるが、私が患者と呼ぶ存在は決して現在の病理学では定義できない広い範囲を網羅していることを御理解ねがいたい。

 あくまで魂について語っているのであり、それは死者も現在、生存している人間も、将来、生まれてくる人間も魂を病んでいれば患者として扱うのである。

 今は人間に限定し、しかも白衣病棟周辺や、それに関わる話を公表しているが、将来は白衣病棟を離れ、しかも犬や猫など動物などに対象範囲を広げ、声を聞くことになるかも知れない。

 今回は白衣病棟で起きた出来事ではなく、遠く東京で起きた出来事であり、その序章にあたることになるかも知れない。

 死者の声を聞く特技を有する男は以前は東京に住んでいたらしい。

 彼は将来を期待されるバリバリの警察官僚であった。

 その時の体験であるが、出来るだけ正確に描写を試みるが、彼の記憶が正確とも言えず、また聞きであり、風景の描写などが正しいとは言い難い。


 その夜は風と雨が混じる冬の冷たい風が頬に突き刺す嫌な夜だった。

 当時も彼は警察関係の仕事をしていた。

 仕事を終えて、その帰りだった。

 風は街の街路樹を揺らす。街路樹はウォーンウォーンと震えている。暗い空に葉を落とした街路樹は骸骨のように外灯の明かりに透けている。葉の着いた木立は風が吹くたびに枝をしならせ野太く低いうなり声を上げる。

 暗い夜空に身体を丸め、身をかがめ、毛なみを逆立たせる姿は風に飛び掛かろうとする野獣の見えた。

 いつもとおり青山通りを西方に歩き、有名な大手商社の前で、南に曲がり青山霊園の中を突き抜ける中央通りを帰ろうとしていた。中央通りとは青山霊園を南北に抜ける道であるが、いつもは夜遅いこの時間帯でも人通りはまばらにあり、車もひっきりなしに通っている。だがこの日は冬の嵐に似た天候不順のために外を出歩く者の少なく、人通りも車もとだえてしまっていた。

 やがて北側境界に位置する霊園の管理事務所を通り過ぎた時である、

 風の音に混じり、右側の方から男のむせび泣くような声が聞こえて来たのである。

 ヒューヒュと言うようなものがなしく切ない響きの声です。

 丁度、外人墓地のある方である。

 遠くで電線か看板が風に震える音が風に乗り聞こえてくるに過ぎないと思おうとするが、そう思おうとすればするほど、ますますはっきり人の声に聞こえてくるのである。

 当時、東京に出たばかりの頃で、この墓地ができた経緯や葬られている人物たちについてもほとんどまったく知らなかった。彼が知っていることと言えば友人から聞いたことだけであり、友人は友人で他人から聞いたことを彼に教えただけであった。

 この霊園を南北に貫く中央通りを通勤経路として使い始めた時は、彼は綺麗に整備された史跡か公園だろうと思っていった。

 やがてこの場所が霊園であり、墓地であると友人から教えられても不気味なイメージには結びつかなかった。それ以降も彼は、この経路を職場と下宿先を結ぶ最短の通勤経路として使っている。

 それ以来、彼は自分の通勤経路について誰とも話したことなどなかった。もちろん周囲の者も触れなかった。普通はそうであろうが、彼の職場には墓地の研究などする者はいなかった。地方から出て来て、一年が経とうしていた頃の出来事である。

 もちろんこれまで雨や風の吹く日はあったが、このようなことは始めてである。最初、彼は彼は自分の耳か脳がおかしくなったのではないかと疑った。

「殺害され、しかも遺体は八つ裂きにされ各地に晒されると言う辱めを受けた、それでも故国に未練があるのか。みずからを見捨てた者への片思いにすがりつくのか。未練かましく迷い出る意味があるのか」と木の葉が取れて骸骨のようになった木の梢が騒いだ。

「思いは一つにあらず」とモヤのように漂う魂は答えた。

「友のことか」と木の梢が問うと彼は否定をしなかった。

「真の思いを言え」と告白を強要する声が闇に響いた。

「奈落の底に突き落とされた、わが一族を救いたまえ」

 すぐにウォーンウォーンと風の音が男の声を打ち消した。

 男の願いを拒否するようであった。

「ならぬなら妻と幼き娘だけでも救い出す」と声は続いた。

 この声もすぐに風が打ち消した。

「せめて幼き娘だけでも」

「ならぬ。故国のためにすべてを捨て去る覚悟は出来ていたはずならずや」

「せめて親や妻や娘、友人への思いを後世に語り継ぐことを許して」

 単純な言葉は風の強弱に共鳴するように聞こえ続けた。まるでエンドレステープのようであった。

 彼は少し間をおき、小さな声で続けた。

「まだ聞こえることがあるのです。幻聴ですかね」と言ったが、すぐに正常な人物に戻った。

「雨は白い雪に変わっていた。おそらく青山墓地に葬られた死人の声であろうと想像した。だがおぞましさを感じなかった。それだけでなく声を聞くまで全身を包んでいた寒気も感じなかった、体の芯から温まるのような温かさを感じました。おそらく恨みを残す悪霊ではなく、良い霊にちがいないであろうと感じました」

 ここで私は始めて膝を乗り出し、言葉を挟んだ。

「一体、何だったのでしょう」

 彼は左右にしきりに小首を傾げながら言った。

「多分、金玉均という人物ではないかと思っています。嵐の夜には誰でも心細くなるものです。それに、その頃、青山墓地の外人墓地にある墓地の使用量の支払い滞った無名墓の撤去が問題になっていました。そのことも彼の魂を現世に呼び戻す動機になっていたにちがいありません」

「キムオウギョクとは誰ですか」と恥じらいながら聞いた。

 どうやら韓国籍であることは間違いないことは想像できたが、いつの時代の人物であったかも、もちろんどのような人物であるかも想像できなかった。

 キムオウギョクとは彼の話に出て来る人物の名前をオウム返しに発音した。

「一言では説明できない人物です。隣国の韓国の偉人であり愛国者でもあり革命家でもありました。彼は日本の元号で言う江戸幕末から明治に生きた人物です。自国の近代化を行うためにには保守派を一掃する必要があると一八八四年にクーデタを起こしたのです。三日間だけは宮廷内に閉じ籠もり天下を握ったかのように見えましたが、保守派の巻き返しに敗れて日本に亡命をしたのです」

「アヘン戦争に敗れ、アロー号事件で起きた第二次アヘン戦争にも敗れ、太平天国の乱で国内秩序も崩壊しつつあった清国を、いまだ東アジアの覇権国家であると信じ、清国にすがり西欧列国に対応しようとす保守派と、保守派から言わせるとやみくもに日本に学び近代化を進めようとする改革派の間で激しい宮廷闘争が繰り広げられていた時代です。キムオウギョクと言う人物は日本の明治維新と同じように宮廷内でクーデタを起こし、改革を遂行しようとしました。大久保利通や西郷隆盛が計画し王政復古のクーデタを模倣したのでしょう。だがクーデタは失敗した。保守派の要請を受けた袁世凱が率いる清の軍隊が出動して三日間で潰えてしまったのです。一八八四年のことです。当時、日本では帝国憲法の発布や議会の開催など着々と政治の西欧化と技術近代化を進め、富国強兵などで国力を蓄え西欧列国に対抗する力を蓄えつつある時期です。日本亡命以来、彼は上海におびき出されて暗殺される一八九三年までの十年間を日本の各地を転々と逃亡し続けるのです。」

「韓国の李王朝の政治犯に対する弾圧は悲惨で、政治闘争に敗れた一族が全滅させられる例も多々、歴史上に例があります。キムオウギョク一派の家族の例も別ではありません。一族は全滅の危機に瀕します。彼の妻や娘たちの行方不明になり、すでに二人の命も絶えた思われた頃に日本人の手で発見されたのですが、二人は見るに忍びないほど零落していたと言うことです。物乞いをして生活をしていたと伝えられています。日清戦争が終わった頃の話です。だがキムオウギョクとの再会はできませんでした。彼はこの日清戦争が起きる前年に中国の上海で李鴻章や朝鮮の王妃が放った暗殺者の手で暗殺されています。しかも暗殺後、死体は故国に運ばれ寸断され韓国全土で晒されたのです。上海に同行していた日本人が遺髪を持ち帰り青山墓地の外人墓地に葬って現在に至っているのです」

「彼の死後も故国の韓国は列強のアジア進出の中で翻弄され続けます。日清戦争の日本側の勝利で一度は日本よりになったように見えたのですが、三国干渉と言われるロシア、ドイツ、フランスの日本と清国が締結したの下関条約にクレームを申し出て、それに日本が屈すると、今度は韓国はロシアに歩み寄ることになるのです。簡単に説明できない問題です。これ以上は自分で勉強研して下さい。私は犯罪の犯人捜しをする警察官です。歴史学者ではありません」

 これでは、彼がこの世にさまよい出た理由にはならないと漠然と感じた。私の疑問は消え去らなかった。彼は私の気持ちを察してようである。だめ押しをした。

「キムオウギョクは一八八四年の三日天下と呼ばれる宮廷内クデータに破れて以来、故国から見捨てられたままです。どん底と言っても良いでしょう。今回の無縁仏騒動で彼は墓を造るために奔走した犬養毅や遠山満、福沢諭吉たち日本の同志からも見捨てられたと感じたのです。まさしく奈落の底です。彼は悲しみのあまり、目を覚まさざる得なかったのです」

「それに激しい冬の嵐に心細さも募ったのでしょうかね」と私は彼の言葉を付け加えた。

「そうですね」と彼は私の応えを肯定してくれた。私は先ほどの彼の解釈を繰り返したにすぎないが。

 話を聞きながら、時に奇妙な違和感を感じることがあった。たまに虚空を眺めるような力のないうつろな視線を気付いたが、このような時に会話が混乱するのである。

「だが金玉均は幸せな方である。最近では隣に存在するが、生きながらにして隣人からも社会からも姿を認めて貰えない。隔絶した棄てられた人が多すぎる。周囲から存在することすら見えない透明人間のような人間が増えているように思える」

 と彼は最後に呟いた。


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