サドで嫉妬心が強い男がいる職場

 私は白衣病棟の中で、仕事が変わると言う指示を例の女医から受けた。デスクワークの仕事も増え、これまでより難しい仕事になる。 実は自分では自分自覚症状はなかったが、正確には統合失調何とか何とかと言う恐ろしい病気らしい。

 要は昔で言う精神分裂病である。

 幻聴や幻覚で正気を失う病気である。ある時、不眠症が続き、睡眠中に夢を見なくなったような気がすると告げたら、例の女医がその統合何とか何とかと言う病気だと診断したのである。睡眠中に夢を見ることが、正常な人間がその病気に移行しない重大な要因であり、私が睡眠中に夢を見ないのは、その病気のせいだという女医は説明し、診断を下したのであるが、幻聴や幻覚の自覚症状はなく狐にだまされたように聞いていた。そう言うと、女医は患者は常に自分は正常だと言い張ると私の意見を聞き入れなかった。

 だが、もう昔のことはよい。デスクワークを命ぜられるのであるから、病気も快癒する方向に向かっていると認められたのだろうと少し気分を良くした。

 いよいよ新しい仕事を前任者から引き継ぐために私は前任者の彼と話しているのである。今度の仕事をうまく乗り切れば社会復帰も夢でないと心は弾んだ。

 やせていて、いつも薄暗い部屋の片隅でパソコンに向かい作業をしている印象しかない陰気な男である。もちろん遠目で見ていたが、彼とはこれまで話したこともなかった。


 彼は上司について告白した。

「彼と話すと、ひどく不愉快になる」

 以前から、このことは職場でも話題になっていて、私も聞いていたことである。だが彼に対する嫌悪感の理由は個人個人で異なり、判然としない。ある初老の部下は年若い彼から説教をされている時には自分が間違っていたと低頭してしまう。だから自信を失ってしまう。彼は上司であるから、彼が許すまでは立ち去ることはできない。だから同意するしかない。ところが彼の気が済み解放されて落ち着くと、ひどい敗北感と、とんでもないデタラメを言われていたことに気付くのである。それだけではない彼の言葉とおりにすれば、体験上、ひどい目に遭うことに気付くのである。

 それに自分たち部下に指示をされても手の施しようのないことを言われて、それはむしろ彼の仕事であり、彼が吸い上げて解決すべき仕事であることにも気付く。彼自身が調べるべきことを、上司と部下の関係であることを良いことに一方的に部下に押しつける。彼に対する周囲の不満は極限に達していた。

 それだけではない。彼は病院の業務運営上の規則は厳重に守るように日々、口を酸っぱくして説教しているが、彼自身はお構いなしに業務規則を破り、他人に迷惑を掛けるのである。

 最近では次のようなことが起きた。

 パソコンに接続し、文字を切り抜くカッテングプロッターと言う病院では使わない商品を勝手に購入した。問題になりかけると、後始末は部下に押しつけた。そんな噂が病院中に駆け巡ったことがあった。思い出して思わず言葉に出した。すると彼は激しく怒った言った。

「その跡始末も私がしたのです。方々に頭を下げ謝罪して回ったのです」

 言葉を挟んだのは彼の怒りの炎に油を注ぐつもりなどなかった。

 今度は彼の怒りの火消しをせねばならなかった。

「彼はプライドの高い人ではないですか。部下のあなたが他の課の係に謝罪することを快く思わなかったのかも知れませんよ。彼は悪いことをなどと微塵も思っていない。黙って沈静化するのを待つつもりだった」

「とんでもない。担当者はカンカンに怒っているのですよ。彼が勝手にカッテングプロッターを購入したお陰で、紙など消耗品を購入する予定の経費がなくなった。担当者としては計画を見直さざる得ない。その穴埋めは今でも終わっていない。しかも後日、同じ販売店にまとめて商談をすれば、安く購入できた。そんなことを無視して、しかも必要もない物を勝手に購入した。理由もいい加減で思い付きで購入したとしか思えない。このような事例は今回だけのことではない。あの二階の廊下の照らす黄色光の蛍光灯を購入した時も大問題になったのです。あの廊下を薄暗さをどう思いますか」

「気味悪いがですね」と私は彼に同意した。

 もともと廊下の両側には患者の入院室があり昼間でも暗い。曇りの日や雨の日には行き交う相手の識別も困難である。

 私は始めて病院内を案内された時から黄色光の蛍光灯を見ており、精神病院ではこんな蛍光灯を使うものだと思い込んでいた。彼は私の意見を聞くと驚いて否定した。

「以前は普通の病院と同じ、白色の自然光の蛍光灯を使っていたのです。ところが黄色光の蛍光灯が患者の心も温かめるはずだと言い勝手に購入したのです。それも多量に購入したせいで倉庫に山ほどの在庫が残っているのですよ。ずうと使わざる得ないのです」

「本当に黄色光の明かりは人の心を暖かくするのですか」

「根拠はありません。彼が勝手に言い出したのです」

 たたみかけるような話し方。

 人を小馬鹿にしたような話し方。

 それで何でも質問する。仕事には関係のないことでもである。自分で調べろと言いたくなるが、上司と部下の関係では言い放つこともできない。

 彼は自分自身が絶対に正しいと信じ切っている。だから部下が同意するまでは執念深く解放しない。しかもやることなすことが周囲の悪評を招き、病院に損害を与えている。

 真地面に経費の節約に努めている者にとって彼の存在に悪意や邪悪な存在にさえ映ることがある。

彼は人手が必要な時に調整する役目も担っています。突然、一人では対応できない業務が飛び込んできます。それで彼に人手を都合するように依頼する。彼は計画的に業務を組めと説教する。医師からの要請で対応せねばならないと事情を説明しても医師との連携が悪いと説教する。彼とのやり取りで時間だけが無駄に過ぎていく。結局隣にいる私たち部下が自分が行くととりなしてことなきを得ます。それではと彼の説教のとおり一週間前に人手を集めるように頼みます。すると彼はしっこく聞きます。何人必要か何時間必要か、なぜ必要なのか。わずかな支援でも、それ以上の長い苦痛を味じわなければなりません。隣にいる私たちが部下は相手の希望をとりなし自分が行くと申し出ます。すると彼はそのことも面白くないようです。さすがに不承不承、承知します。このようなことが何度か続いたが、とうとう彼を無視をして仲間内で助け合おうとすると、今度は報告をしろと説教をする。最近、気付きました。結局、彼は自ら人間関係を壊し、自らの仕事ができなくなっているのです。それで文句ばかりを言う。自分たちで手を貸し合うと。それも面白くない。嫉妬する。そして文句を言う。ますます人間関係を壊す。

 と私の横に座る前任者は、小声で彼のことをこき下ろし、「彼が今の職場に就くまでは、こんなことはなかった」と断罪した。

 彼の不満を聞きながら私は平気で嘘を付く人たちと言う本の一節を思い出していた。もちろん正確な記憶ではない。

 邪悪と呼ぶに相応しい人は現実に存在すると精神科医の著者は主張している。良心の欠如とか言うものではない。本心から自分が正しいと信じ切っている。例えに彼は自分の診察室を訪れたある夫婦と次男の物語を紹介している。二人は次男が最近、おかしくなったと彼の診察室の次男を連れて来たのである。よく次男に事情を聞くと夫婦は次男が長男が自殺した銃を誕生日プレゼントだと与えているのである。医師は夫婦二人の行為が次男に対し長男と同じくこの銃で自殺しろと言っているような無神経な行為だと責めた。ところが夫婦二人は何の罪の意識を感じないばかりか自分の家には次男に誕生日プレゼントだと新しい銃を購入し次男に買い与える余裕などないと言い張るのである。そのような人は実際に身近な隣人として存在し、周囲を困らせ続けると医師は言うのである。普通の人が彼らに接触した時にどうなるか。不愉快になり、一刻も早く平気で彼らとの交渉を絶つことを望む。だが著者の場合は、医師と患者と言う職務上の関係から打ち切ることはできない。我慢するしかないと嘆いている。また著者の友人である医師も、そのような類の人に会うと理解を超えた存在に混乱し、頭の中が真っ白になると告白したとも書いている。

「些細な書類でも印鑑をもらうために三十分以上も説教を我慢しなければならない。苦痛以外の何物でもありません。今日は機嫌が良かった。今日は不機嫌だった。こんな会話が陰で交わされるのですよ。とうとう我慢できなくなり、私の隣に座る婦人が感情を爆発させ泣き出したのですよ」

 屈折した感情が一気に爆発したのです。彼女は一年以上、我慢し続けていたらしい。それまで印鑑をもらうために説教をされ、どのように対応して良いか分からなくなり、馬鹿丁寧な言葉で近付いたらしい。その彼女を人を馬鹿にした態度は何だと怒鳴ってしまった。上司であるが年齢は彼女より若い。気丈夫な彼女もひどいショックを受け、とうとう泣き出してしまったようである。

 実は私も彼とのトラブルを多く抱えていましたが、馬鹿にするというあまりの言葉に彼の心情を推し量り、彼自身も傷ついているのではと推し量り、彼自身にもカウンセラーを勧めたらどうかと彼の上司に意見を言ったのです。もちろん彼女にカウンセラーと相談するように言いました。

「上司の反応は」と私は聞いた。

「彼自身は傷ついている様子はない。それに彼が望まない以上、カウンセラーを頼ることはできないと言う返事だった」

 模範的な回答であろう。

 私は悲劇的な世界である。滑稽で愚かでもある。

「あなたは他人事のように思っているが、明日からこの世界に足を踏み入れることになるのですよ」と彼は忠告した。彼の警告に思わず身が縮んだ。実はこれまでは他人事のように聞いていたのである。思わず自分の感想を洩らした。

「まるでパワハラーではないですか。そのような暴力を放置しておかねばならないのですか。仕事の邪魔をし、職場でのトラブルが起きるのを楽しんでいるようにさえ思える。それにサド男だ」と私は洩らした。

「サド男は面白い。これから彼をサド男と呼ぼう」と言い彼は喜んだ。

 その時、私は将来の上司になる人物を患者二十四号として小説に登場させようと思ったのである。彼はサド男であり、患者二十四号でもあるのである。

「でも彼はこの病院全体のレベルを引き上げるのだと自己の立場を朝礼でも堂々と宣言したのを覚えていますか」

 確かに朝礼場での堂々とした宣言した。

「蛍光灯の照明を暗くし、患者や看護士の目を疲れさせ、無駄な買い物をし尻ぬぐいを部下にさせ、ずいぶん我慢強くなりました。これ彼の言う病院の能力の上げると言うなのでしょうか。私などは、あの暗い照明のために目の病気まで患い、眼科の世話になりました。それでも彼が良心に一抹のやましささえ感じているようには見えません。実際に医師に相談しました。眼精疲労と言う病名に頂きました」と前任者は皮肉を告げた。

「ところで彼は照明の専門家ですか」

「いいえ、とんでもありません。ずぶの素人です」

「ずぶの素人に大それたことを、許したものですね」

「彼は有名大学出身です。私たちのような駅弁大学出身者など実験用のモルモットぐらいにしか思えないのです」

「一流大学校を卒業したとしても、照明などには詳しくないでしょうない。専門家は他にいるでしょう」

「もちろんです。彼が白衣病棟内の電気や灯りを管理する専門家です。専門家の彼が蛍光灯の光色を変えることの危険性を忠告しても聞き入れなかったのです。社会が複雑な要素でできていて学歴だけで動いているなどとは端から認めないのです。一流大学出身の彼はすべてにわたり優れているのです」

「いくら何でも、そんな人が存在するはずはない」と言うと彼は冷笑した。

「世の中には色々な人がいます。特にこの白衣病棟には信じられないような奇人や変人がいます。この病棟の常識は一般社会では非常識であり、この白衣病棟の非常識が一般社会では常識として通ずるのですよ」

 私が頭を少し傾げて彼の意見に不満を示すと彼は付け加えた。

「確かに測定した結果、照度は十分あります。でも壁の掲示板に掛けられた掲示物の字が読めなくなったのも事実です。黄色光では白地の背景に黒地の字では見づらくなるのです。それでこれまで掲示板に張っていた連絡事項もバインダーに閉じ小机の上に置き、白色の電気スタンドで照らしておくと言う不便なやりかたに変えたのです。」

「実は私も悪い人間ではないと信じようとしました。隣の初老の女性事務員が思いあまって泣き出そうが、カウンセラーに助けを求めることで変わるのではないかとか、彼のことを私などよりよく知り、長く大きな損害を受けている同僚が口汚く罵る隣で吐こうが、彼の失敗の尻ぬぐいを強要されようが。嫉妬と猜疑心のこもった説教を長く聞かされようが彼自身も苦しんでいると宗教的とも言える根気と愛情をもって憎むまいと思い続けました。でも彼の変えた天井の蛍光灯のせいで目が炎症を起こした眼精疲労と言う病気になった時には、一気に彼に対する憎悪が増幅したのです」

「なぜ、サド男の存在を白衣病棟は許すのですか」

「理由は一つしか思い浮かびません。彼が以前、素性や保険の支払いに関する調査事務を担当していたのです。病院の主だった者の弱点を握っているせいかも知れません」

 彼の言葉で私は歴代の大統領の弱点を握り、それを餌に自らの地位を維持し続けた、アメリカのFBI長官のフーバーのような人物像を想像した。

「でも彼はまだ良い方かも知れない。あなたはこの白衣病棟が病んでいることに気付きませんか。あなたが明日から私に代わりに担当する仕事の内容を御存知ですか」

「楽しみです」

 上司になる人物の異常さを吹き込まれた後であるが、あえて勇気を振り絞って応えた。それは彼の前任者の仕事の内容も肯定する言葉であるあるはずだった。

 ところが彼はまたもやあざけ笑った。

「あなたは何も知らないようですね。システムにデータ入力をする仕事など、それこそ意味のない無駄仕事なのですよ」

 自分の耳を疑った。唖然とした。少し症状が快方しつつあり、デスクワークを担当させても良いという医師の判断もあるはずだった。もちろん白衣病棟から退院の日も近くなる。

「システムへのデータ入力は何のために行っているのですか」

「欺騙行為です。誰の役にも立っていないのですよ」

 彼は私が理解できていないことに気付いた。

「あのサド男がパソコンの画面で管理課の様子を見たことなどありません。入力した内容と同じ書類を印刷し説明するように求めてきます。そして書類で報告するように求められます。書類の量も質もシステムが導入される前と全く同じです。システムが導入されて仕事の量が二倍、三倍と増えただけです。明らかにシステムは欠陥品です。その欠陥を隠蔽するために毎日、私たち下々は汗で補っているのです」

「改善はしないのですか」

 彼は頭を左右に振った。

「それを改善するのが、一流大学卒業のサド男たちの役目でしょうが、でもサド男は私たち部下に我慢強さを教えることに余念がありません。それに改善することは過去の責任に追究することにもなるので、白衣病院が倒産しないかぎり不可能です。自己では快癒する見込みはありません」

 彼は周囲を観察し声を潜めた。そして言った。

「でも安心して下さい。私は退院したら内部告発をするつもりです」

「あなたには世話になったはずの病院に対する忠誠心はないのですか」と責めた。

「ありません」と前任者の彼はキッパリ応えて、言葉を続けるのである。

「この着古した薄汚れた白衣を見て下さい。この病院で私をスケープゴードとしての役割やサド男などゲスの地位をかさ上げするための踏み台にされ続けた」

 踏み台という言葉は穏やかな言葉ではない。彼の存在を利用し、私は彼より人格も能力も上であると内外に対する宣伝に使われたと言うことであろう。踏み台にされるにはそれ相当の実力がなければならない。彼にそれだけの実力があったか私には判断できない。

単なる不平分子として病院の足手まといにすぎなかったやも知れない。

 不満と怨念の籠もった言葉である。

 彼は自己の人生に満足をしていない。自己の能力を無視され続けた言う不満も心の中で渦巻いていると感じた。

 私は目の前の男に異常さを感じた。

 思い切って矛先を不平を漏らし続ける前任者の男に向けた。

「上司のサド男に対する感情が過敏に過ぎるのではないですか。過敏過ぎるのはレセプターであるあなたに問題があるせいではないですか」

 驚くべくことに、彼は私の指摘を素直に認めた。

「そうかも知れません。僕自身が傷つき易い素地を持っている。多分、記憶に刻まれたトラウマが過敏な反応をしている」と冷静に自己分析を行ったのである。彼には立派に自己の精神分析をやってのける能力があったと言うことを、読者諸君は後刻のために覚えておいて頂きたい。

「でも僕もこの年になってもスケープゴートにされるのが嫌なのです。これ以上踏み台にされるのも嫌なのです」

 どのような人間でも踏み台にする価値のある人物かは別問題してして、スケープゴートとしては価値はあるはずである。

「実は、私はこの病院に務めた時には、将来を嘱望される存在だったのです。肉親や友人、恩師までも私の行く末に期待を抱いていたのですが、この様です」と言い、彼はふたたび薄汚れてみすぼらしい白衣を目で示し、これと言うのもと、彼は悔しそうに唇をかんだ。

「この病院で昨年に問題になって医療廃棄物の問題です。同じことは私が勤め始めた頃から恒常的に行われていたのです」

 昨年、問題になった医療廃棄物とは使い古るした注射針や包帯のことである。彼が勤め始めた頃とは三十年も昔の頃であろう。

「新米の私は医療廃棄物を密かに空き地に埋めて来いと命令されたことがあります。それも他人の土地です。見とがめる者はこの辺りにはいない。この病院にたてつく者はいないと平気で言うのです。耳を疑いました。僅かな処理費用で済むから嫌だと拒絶をしました。するとすぐに冗談だよと切り返されました。その後の私に対する反応は冷たなりました。先輩たちの伝統を外に告発する内部告発予備軍と言う訳です。先輩は数トンの医療廃棄物を埋め、周囲が楯突こうものなら、承知しないと威圧を与え病院の力を知らしめ続けたと言うのです。これも止めてしまうことは不自然であると言う訳です」

 他人の土地に医療廃棄物を埋めるなど不法行為であることは明らかである。でも誰も苦情を言いません。被害を受けた土地の所有者でさえ泣き寝入りするしかないのです。理由はこの病院の怒りを買うのが怖いのですよ。

「病院ぐるみですか」

「それは分かりません。ただ病院内の権力闘争に活用されていた可能性はあると思います。自己の権威を見せ付ける個人的な行為であり、病院に対する忠誠心を披露する行為で歓迎されたのです。また白衣病棟の力を地域住民に示す儀式だったのです」

「それでも地域住民の中には法廷闘争に持ち込もうとする者はいなかったのですか。勝ち目のない闘争に時間を割く余裕などありません」と彼は断った。

「そもそも法などは現実社会では意味がないのです。開き直った方が勝ちですよ。銀行は自分が倒産すれば社会経済は崩壊し経済恐慌を招く。警察は自己が悪事を働けば治安が乱れる。このような開き直られたら、すべてお仕舞ですよ。この大病院が田舎町から撤去してご覧なさい。地方財政は破綻し近辺の老若男女は病気になっても誰が治療するというのですか」

 彼の持論に賛同する訳ではないが、黙って聞いていた。

「その後の忠誠心に欠ける小心者として脅迫され続け、人間としての尊厳さえ踏みにじられ続けたのです。我慢し続けた訳。生活費を稼ぐためですよ。私は大学で法学を専攻しこの病院に務めたのですよ。法を守り、正しく生きることで人間の社会は平和になり、病院も繁栄する。要は伝道者になりたかった。でも出発時点からつまづいてしまった」

「頑張っても駄目でしたか」

「無駄です。成果を上げても、その成果は他人の持ち逃げされる。やがてレッテルを貼られたら一生懸命仕事をやっても仕様がないことに気付かないのかと侮別の陰口が耳に入ってくる始末です。慰めは周囲には私と同じ人生を歩んだ者が山のようにいると言うことです」

 話を聞いていると、私まで腹立たしくなる。

「医療用廃棄物を他人の土地に不法に埋めたと言う先輩はどうなりました」

 当然、不正の報いを受けているはずだと予想した質問である。

「出世し、白亜の近代的な病棟で勤務しています」と彼は簡単に答えた。。

 ますます、嫌な気分になった。

「それは悔しいでしょう」

「今回のような目に会うと悔しく思います。普段は感じません」

 サド男との関係を言っているのであろう。

 サド男が定年前の彼をスケープゴートにしようとしていると思い込んでいるのである。

「医療廃棄物を掘り起こして告発したら良いでしょう」

「実は本当に医療廃棄物の不法廃棄を私の先輩がしたのかどうかも分からないのですよ。医療廃棄物を埋める現場を見た訳でも、埋めた場所など知っている訳ではないのです。将来を嘱望される自分をねたみ、部下が私に悪事に手を染めさせ、扱い易くしようと企んだだけかも知れないのです」

「下手を動けばこちらが侮告罪で訴えられることになりかねない」

「実際に手を貸したり、目撃をした者もいたはずだ」

「いたでしょう。でも手を貸した者は同罪であり、目撃者も黙って見逃していたと社会的に叩かれることを恐れていたのです。それにしてもこんなヤクザな人生しか自分には選択の余地はなかったのだろうか」

 彼の言葉を嘆きに自己の人生に対する変わった。表情には後悔と悲しみが浮いていた。

 私は慰めるつもりで反論を試みた。

「あなたは自身がヤクザな人生と送ったと卑下することはあなたの人生に関わってきた人々を責めることにもなります。あなたの存在を心から支援していた仲間もいたはずです」

 彼は悲しそうに顔を歪め、肯定した。

「それんしても、この問題が社会問題にした事情はあるのですか」

「これも病院の意図ですよ。最初は使い古しの包帯など医療廃棄物だった。ところが次第にエスカレトし、前年と同じ予算を確保するために使っていない包帯までも処分するようになった。そのようにすると資材を準備して待っていた卸問屋の者からも賞賛されると言う訳です。すべて円く納まると言う訳です。それをうまくやった人物たちが出世し白亜の近代的な病棟で快適な勤務を死、高給を得ていると言う訳です。ところが病院の経営が厳しくなった。そこであえて告発に踏み切ったと言う訳です」

「サド男の話より、あなたたが関わった医療廃棄物を棄て続け、内部告発を封じるためにあなたを闇に葬った者たちの方が悪質すぎるような気がする」と私は素直に感想を述べた

彼は顔が少し輝いた。

「あなたの言葉で心からサド男を憎めない理由に気付きました。彼は私をおとしめた連中に比べたら質は悪くない。周囲を巻き込み、病棟を腐らそうと思っている様子はない。それにしてもこの病院は恐ろしい所です」

「ところで消しゴム女のこと、患者十五号のことを聞いたことがあるでしょう」

 もちろんありますと答えた。

「実は、噂ですが彼女の開発していた薬が完成しつつあるらしいのですよ」と声を潜めて彼は打ち明けた。

「あれは完全な嘘で、小説家が考えた話でしょう」

「とんでもない。今、私が話したことが病院に知られたら、どのように目に遭わされることか。くれぐれも私の話を洩らさないようにして下さい」と身震いした。

 そして私たち二人が話し込むベンチの周辺に盗聴器でも隠されていることを用心するかのように周囲を見回したのである。

 彼の疑惑を笑い話題を変えた。

「そんなことより医療廃棄物の不法投棄のことです。ウチのシロを貸しますから一緒に探し出し、あなたの人生を取り戻そうではありませんか」

「それも良いかも知れません」と彼は愉快そうに応じた。

「それにしても私の人生は何だったのだろう。私は法を守り、正しく生きることを世間に広めたかった。それを社会全体に広げ、人々を幸せにしたかった。社会にも貢献をしたかった」

「確かに社会に貢献したいとは立派な御考えです。でもそれはあなたの責任でもないし、考えるべき問題でもなかったかも知れません」

「それこそ、IT’S NOT YOUR BUSINESです。それはあなたの仕事ではなかったと言う意味です。だがあなたの立派な考えを反社会的な行為や法律に違反する行為で潰したなら、当然、罰せられるべきでしょう」と諭した。

 これが彼との最後の会話だったが、一週間ほどして私は目の前を通る彼の姿を認めた。

 思わず声を掛けよう近付いたが、彼は二人の看護士に腕をつかまれ治療室に引きづられていく途中であった。

 視線はうつろで宙を見、私の姿など見ていなかった。空洞の見詰めるような視線を見た瞬間、私の気付いた。

 そして「この病院は恐ろしい所だ」と言う彼の最後の言葉を思い出した。もちろん私が彼を売った訳ではない。それに私に対しては何ら処置もされていない。おそらく彼が他の誰かに同じを話をし、その方から話しが漏れたと思うべきであろう。

 彼を患者二十五号として登場させる。

 それに患者十五号、すなわち消しゴム女が記憶を操作する薬を開発中であるという話はデタラメな話ではないと確信した。

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