第19話夢遊病患者(患者二十五号)

 白衣病棟の二階にある開かずの間の下には小さなロビーがある。

 そこには長椅子が用意されて、看護士や私たち清掃を命ぜられた者の休憩や喫煙所として使われていることは、すでに記したはずである。

 私がいつものように長椅子に腰をおろし定刻に休憩していると、見ず知らずの老婦人が近付いてきて、腰をおろした。

「あなたも見かけたというのは事実ですか」

と老婦人は語りかけてきた。

 見ず知らずの老婦人である。

 誰から私を見舞った不幸な出来事を聞き出したのか不審に思ったが疑念は長くは続かない。

 不眠症の頭では集中力が続かないのである。この不眠症も老婦人が指摘する事件のせいである。それを癒すべく昼間の休憩時間には両腕に額を埋め、ロビーの長椅子で休むことにしていたのである。

 実は二週間ほど前から夜勤の際に、夜中に廊下を徘徊する老婆の姿を見たのである。夜勤は週に二回ほどあり、そのたびに正体不明の老婆を目にするのである。

「ところで顔はご覧になりまして」

 夢うつつの状態の私に老婦人は声を掛けてきた。

 面倒だが、頭を横に振り、「見ていない」と老婦人に伝えた。

 実は開かずの間の部屋からナースステショーンの方に古い本を手にし歩く老婆を見かけるのである。不気味だが正体を見定めようと追い掛けるが、追いつけない。

「顔は見なかったわね」と老婦人は念を押した。

 あの夜、見かけたのは薄汚れた長襦袢の老婆であり、古いが清潔な白衣を身に付けた老婦人ではあろうはずはないと思った。

「もちろんです。後ろ姿しか見ていません」

 なかば居眠りをしながら、頷いた。周囲に安堵の空気を感じた。

「一体、あの老婆は何者でしょうか」

 しんしんと闇に溶け込むような静かな足音を引きづり、目の芯まで疲れる黄色光の蛍光灯が灯りの廊下を歩いていた。廊下はトンネルのように閉ざされ、漏れる光は天井の黄色光の蛍光灯の明かりとナースステーションの明かりだけである。老婆は今、そのナースステーションに向かい歩いている。

 そして彼女はゴミ箱の前に立ち止まり、ミ箱の蓋を開け、手にした雑誌を中に放り棄てる。

 次の瞬間、老婆の姿は目の前から消えた。

 まばたきををした一瞬の出来事であった。

 不気味さは一切感じなかった。

 ゴミ箱の中には黄色いワラ版紙の小冊子が投げ込まれていた。だが不潔であり触らずに蓋を閉じた。

 ゴミ箱の蓋を閉めた瞬間、背後に人の気配を感じ振り向くと今度は先ほどの老婆が彼女が棄てたはずの薄い本を手にし開かずの間に戻って行く。

 私が、奇妙に思いふたたびゴミ箱の蓋を開け、中にあったはずの本を確認しようとすると本は消えている。

 すべてが錯覚であり、幻覚を見たような印象だけが残った。

 眠れず徘徊している老婆という風情である。このような例は多くある。真夜中の巡回であり半分、眠っているような状態であるから目の前で起きる出来事を深く詮索すような面倒なことはしたくない。

 だが、夜勤に就くたびに現れるのある。

 とうとう不眠症になってしまったのである。

「一体、あの老婆は何者なのでしょうか」と独り言のように繰り返した。

「言い伝えですが」と断った上で老婦人は語り始めた。

「その老婆はやはり開かずの間で、人知れず息を引き取った哀れな女性です。実は開かずの間で、その老婆が息を引き取って以来、不思議なことがあの部屋で起きるようになったらしいです」

「哀れな女性というと」と

 私の意識はわずかな間、覚醒した。

「彼女がゴミ箱に投げ込んだ古い小冊子をご覧になったのでしょう」

「いいえ、内容を見ておりません」

「残念ですね。戦後、間もなく発行された小冊子ですのよ」

 みすぼらしいワラ版紙の意味が理解できた。物資不足の時代である。上質の紙を手は流通していなかったにちがいない。

「誰が書いた小冊子かは見られたでしょう」

 このことも、正直に「いいえ」と答えるしかなかった。

 でも私の答えに老婦人は明らかに安堵した様子が見えた。

「明治、大正、昭和を代表する一流の文化人であり、言論人でもある著名な人物が書いたものです」

 私は感心、うなづくしかない。

 そしてそのような一流人でもワラ版紙しか入手できなかったのかと認識を改めた。

「どのような内容ですか」

「彼は自分の故郷で起きた不祥事を書いて嘆いています。若いバスガイドの娘を巡り、小さな集落で起きた事件です。その他にもいくつか事件が収録されています。たとえば中学校の窓ガラスが多量に割られたとか。でもその老婆の物語は一番、最初にその小冊子に取り扱っています。おぞましい事件です」

 おぞましいと言う表現は好奇心を強く刺激した。詳しく内容を知りたいと思うのは人情と言うものであろう。

「若い村のバスガイドに恋人が出来たのです。すぐに二人の仲は深い間柄に発展しました。ところが二人が情交関係にあることを知った村の青年が彼女を脅迫し、関係を迫ったのです」

「脅迫ですか。そんな脅迫に動ずる必要はないでしょう」

「そんなに単純に割り切れない事情もあるのですよ。娘は荒々しい情交の場を見られてしまったのです。痴態をのぞき見されたのです。羞恥心でひどく取り乱しました。我を忘れたのです。それで肉体を脅迫者に任せたと言う訳ですか。ひどい話だ」

 このような具体的なことを話す老婦人の正体を疑うべきだったが。寝不足で感覚が麻痺していた。

「彼女の愚かさを簡単に責める訳にはいきません。この事件が起きた当時は敗戦後間もない時期です。しかも田舎のことです。口うるさい人や近所が周囲を囲んでいます。それにまだ若く経験の少なく純真な娘は結婚前にこのような関係に陥ったことに対する罪の意識も羞恥心も強かった時代です。脅迫する青年は一度、関係をすれば秘密を守ると約束をした。秘密を暴露されるより、娘はその方が良いと判断したのです」

 私は首を傾げながら聞いた。

「秘密を守る言う約束は守られたのですか」

「いいえ。かえって村中の青年が知ることになった。脅迫をした青年が自慢にしたのです。次から次へと秘密を暴露すると娘に関係を迫ってきた。娘は自暴自棄になった。実に十名ちかい青年が彼女の肉体を弄び欲望を満たした。日の落ちた村のお堂に彼女を呼び出し欲望を満たす青年や畑の農機具置き場に呼び出し欲望を満たし欲望を満たすなどの行為を繰り返したと言う訳です」

「ひどいことをするものだ」

「けものですね。強い羞恥心と貞淑を守るべきだという思い込みが彼女は深い地獄の底に落ち込んだのです。その有名な言論人も終戦直後の故郷の青年の堕落を嘆いて書き残したのですか。そしてバスガイドだった娘のなれの果てが、私が廊下で見かけた老婆だったと言う訳ですか」

「そうです。そしてその彼女が棄てたり、拾ったりした本が有名人の書き残した本だと言う訳です」と老婦人は答えた。

「なぜ彼女はその本を手元に置き続けたのでしょうか。それにごみ箱に捨てては拾うという奇妙な行為を繰り返している。普通なら嫌な思い出や記憶は忘れようとするはずです」

 老婦人も頭を傾げた。

 「迷いでしょうか。怨みを忘れないために本を手元に持ち続けていた。だがそれに耐え切れなくなり処分しようとした。この迷いが、彼女を成仏させずに、この世に縛り付けているやも知れません。それとも自己を苦しめる記憶を持ち続けることに快感を感じていたのかも知れません」

「マゾヒズムですか。それだけではなかったのでしょう。この病院で生活をしたと言うことは彼女は精神を病んでいたのでしょうね」と私は想像することを述べた。

「彼女がこの上の開かずの間の部屋に泊まりながら、私やあなたと同じように清掃作業などの軽い作業をしながら生活していたこは事実です。そして生きている間も夜な夜な部屋を出て小冊子をごみ箱に棄てて回収すると言う行為を繰り返していたことは事実です」

 バスガイドの娘が辿った人生は精神に異常を生じ病棟に収容された。決して幸福なものではなかったにちがいない。

「それにしても彼女の腹の上に乗っかかり欲望を満たした男たちの後の人生はどうなったのでしょうか」

「男なら誰でも持ち合わせる欲望ではないでしょうか。自己を正当化して案外、平凡な人生を送ったかも知れませんよ」

 老婦人の答えは第三者のように感情が籠もらないものであった。

 ところが、「バスガイドの恋人であった青年が辿った人生はどうなったのでしょうか」と私は質問を投げかけた。

「知りません」と彼女は一言、答えた。

 声には激しい憎しみと怒りが籠もっているのを感じた。

 思わず老婦人の表情を盗み見ると、歌舞伎役者が被る鬼の面のように恐ろしく悲しい表情になっていた。

 この時、私は始めて恐怖を感じ、全身に震えを感じた。

 体内時計が仕事に戻る時間だと教えた。

 身震いし眠気を振り払い目を覚ました。

 その時には、そばに座っていたはずの老婦人は消えていた。

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