第18話オ イチ 二 オ イチ ニ (患者二十四号)

「オ イチ 二 オ イチ ニ」

 死を目前にした父の口元から、かすかに漏れ聞こえてくる声である。

 大正十五年生まれの彼は、乙種で徴兵検査に合格し、わずか半年であったが、父は従軍体験をした。敬礼動作が良いと上官から褒められたことを誇りにしていた。

 もう少し南のO島に配置されるか、O島で生まれていたら、命はなかったとも繰り返していた。

 時たま北の方からアメリカ軍の戦闘機が頭上をかすめ、残弾を処理のため機銃を浴びせては南の島の方に戻っていく。

 幸か不幸か銃も弾も与えられない彼らは反撃も出来ず、逃げ散るまどうしかなかった。反撃をしていたら、おそらく命はなかったろう。

「オ イチ 二 オ イチ ニ」

 唇は動いていないが、喉ぼとけが震え、そこから声が漏れているのが、かろうじて分かる。

「オ イチ 二 オ イチ ニ」

 もちろん兵士が足並みを揃えるために歩調を取る声である。

 上官の号令で緊張した面持ちで正面を注視し、行進をする父の姿を想像した。

 南の島でのことである。頭上の太陽は地上に存在する森羅万象のすべてを焼き尽くさんばかりに、容赦なく照り下していたにちがいない。

 太陽は飛行場の周囲にT島独特の赤身を帯びた土を堀おこし、豪を掘る最中にも照り下していた。だが、今、脳裏で描く姿は太陽の照射に晒されながら、隊一列で飛行場に向かい行進する姿である。

「オ イチ ニ オ イチ ニ。オ イチ ニ オ イチ ニ」

 雨露を避けるため質素な馬小屋の兵舎から飛行場の作業現場まで、朝夕の往復の途中、上官がかける号令である。

 腹が空いても喉が渇いても敵の機銃掃射の前でも、上官の号令を乱し、統制を乱してはならない。

「オイチニ オイチニ」

 右手、右足を一緒に上げて、難波歩きで、オモチャの兵隊のように、オイチニ オイチニ。心配することはない。誰も死んでなどいない。昨日もグラマンの機銃掃射で赤い大地に真っ赤な血と内蔵をまき散らし、倒れた同僚がいたが、彼も死んでなどいない。

 兵隊ごっこの遊びをしているしているにすぎない。演技にすぎない。嘘で建前の世界なのだ。

 いや、すでに皆、僕はあの時に、死んでいたのかも知れない。

 いや、すべて現実ではない。夢の中の出来事なのだ。あるいは仕組まれた劇の中に取り込まれているにすぎないやも知れぬ。

 南の島の強い日差しとともに彼の灰色の脳には上官がかける号令が焼き付けられた。そして、この記憶に刻まれた号令は彼の支配し続けた。だがその記憶も彼の死とともに消え去ろうとしている。

 のど仏はかすかに震えているが、彼は顔はすでに死人のように白かった。

「何もいいことなどなかった」

 彼は最後の言葉を残して、この二十四号室の患者が息を引き取った。

 昨夜のことである。

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