第7話反復横跳び男(患者七号)
「Mが許可した病院内の施設と収容患者を案内します」
この病院に通い始めて、同じ人物に会うのは初めてである。患者一号から四号までの話をしてくれた医師たちとは、それ以来、一度も顔を会わせたことはない。ところが彼女とは三度も顔を会わせることになったのである。
そのせいで、ひどく心細く感じていた。ところが患者五号や六号の話をした女医が顔を見せたのである。なじみの者に会った気がして安堵した。
「この病院では革新的で前衛的な治療法を試みております。詳しい内容は、順次、説明していくこととします。今日は中度の症状の患者たちが生活する階層を案内します」と彼女は立ち上がった。
廊下に出ても休日であるせいであろう。人影もまばらで病院全体が静かである。
薄暗い廊下を進み、北側の階段で二階に登った。
大まかな建物の構造は二メートルに満たない狭い廊下を挟み、中央部にトイレなど公共施設を配置し、その外側に患者の部屋が配列されている。
今は進行方向の右側にアクリル窓から患者室がのぞき込める部屋が規則的に並んでいる。そして左側が休憩室、トイレとなっている。
天井には薄暗く蛍光灯が点いている。
閉塞感が漂う施設の造りから快適な病院とは言い難い。
私は女医の後を歩いた。
空き室になった部屋を女医は無言で通り過ぎた。
彼女は患者7号と記名されたプレートが掛かる部屋の前で立ち止まった。
彼女の言葉に促され、透明な窓から部屋の中をのぞき込んだ。
部屋は思いのほか狭く畳2枚ほどの広さでたこ部屋のように奥に細長く、壁際にベットが置かれているが、ほかに家具など調度品などはない。天井と壁は一面に白いペンキが塗られている。床は白いタイルである。部屋全体が白く輝いている。二メートルほどの高さの壁に二十センチメートル四方の小さな明かり取り窓がある。
ベットのない空間で、奇妙な行為を繰り返す男の姿が目に飛び込んできた。
彼は一人で額と言わず全身に汗を流し運動をしていた。足下には汗がしたたり、水たまりを作っている。
目に飛び込んできた奇妙な姿を理解できずに女医の顔をのぞき込んだ。
「ご覧のとおり、反復横跳びをやっているのです」と、女医は答えた。
「反復横跳び」と口の中で反芻した。
一メートルほどの間隔で引かれた三本の白線の間を定められた時間の間に何回ジャンプし往復できるか計測し、体力年齢を判定する単純な運動である。
「患者六号です。反復横跳男、別名デジタル男とも呼ばれております」と女医は説明した。
私たちが透明なアクリル板の窓から中をのぞき見ている間も彼は運動を止めない。
「すべての出来事は反復横跳びの実施回数で決着付けることができると彼は信じているのです。人間の優劣も社会的な地位も反復横飛びの回数で決めることができると言うのです。将来に子孫を残すことができるかの生物学的優越性も反復横跳びの実施回数で決めるべきだ。世のいさかいの白黒の決着も反復横跳びにの回数で決着を付けることができれば、裁判所も必要ないと彼は主張するのです」
「それで彼はあのように運動を続けているのですか」
と当然のことを聞いた。
「彼の思想を否定したことはないですか」と私は彼が入院患者であることを忘れて質問した。
女医は苦笑しながら答えた。
「もちろんありますよ。患者の行動や言語、思想を否定し、反応を見ることも診断の一環ですから。その時は彼をとことん追い詰め複雑な社会の実相を彼に訴えたのです。ところが彼は複雑なことは悪い、シンプルライフこそ理想であり、そのような生き方ができる社会の実現を目指すべきだと、コマーシャル社会に出てきそうなスローガンで問題を差し替えたのです。激昂したので、それ以来、誰も議論を持ちかけません。そして日夜、起きているときは、あのように反復横跳びをしているのです」
「なぜ反復横跳びなのでしょうか。ヒンズスクワットで腕立て伏せでもよいのではないですか」
女医はしばらく考えていたが答えた。
「マイナーな方法では世間の人は誰も相手にしないと思ったのでしょう。人々をびっくりさせることで世間の注目を集める。それが天下取りには近道であると病院に来た当時、言っていました」
と説明しながら、彼女は次の病室に案内した。
患者八号とプレートが掛かっている。彼女は中の患者について説明した。
「規則男、古きを温めて新しきを知る男とも呼びます」
もちろん中国の聖人孔子が後世に残した論語の一節である。
標識には患者八号と書いてある。それにしても様々なあだ名がある。
アクリル板からのぞき込める部屋の造りは隣の患者八号の部屋と同じである。
彼は左手に黄色く変色しかけたテキストを開き持っている。
「病院の規則です」
活字印刷ではなく、ガリ版づりのテキストであることにも気付いた。
「それにしても古そうですね」
「三十数年前の古い規則です」
「入院生活に必要なものですか」と質問すると、彼女は即答した。
「必要とはしません。役に立たないのに本人が勝手に古い規則を持ち出してきたのです。古きを温めて新しきを知ると言う中国の故事を引用した上です。それ以来彼のことを、古き温めて新しきを知る男と呼ぶようになったのです」
「故事を信ずることは、良いことではないですか」
彼女は頭を傾げた。
「時によります。一途にそれを信じ切ることはどうでしょう。日常生活に差し障ることもあるでしょう。それを防ぐためには相反する故事も準備されているはずですよ。新しい酒は新しい器にもれとか。世間をうまく渡るためには、故事も使い分ける必要があると思います」と言い、女医は話を続けた。
「世界には様々な人が存在し、すべてが同じではない。正義感の強い者もおれば、卑劣な者もいる。また正義感と言っても時代時代、土地ごとに異なる。たとえば中東ではイスラム教が正義を示し、その中でも原理主義者はテロを行うことも正義だと信じている。イスラム原理主義を発展させることこそ正義であり、人を殺すことも許される行為だと言うかのようである。だが長い歴史の中で幾度ともなく人は繰り返してきた。日本人も六十数年前に、そのような感覚の中で正義と不正義を判別してきたのだ。ところで君は何に基準をおき、正しいことと間違ったことの判断を下すべきだと思う」
「当然、憲法であり法律でしょう。それが以外の基準はないと言う考えに至りました」
私の回答を聞き、女医の目が輝いた。
「そうかも知れません」
彼女の言葉に自信のないあやふやさを感じ、私は確認した。
「ほかに何か基準になるものがありますか」
「あるような気がします」と彼女はあいまいに応えた。
「患者八号の症状はそれだけではありません。時には患者六号と同じく悪事を行い、法廷に立ちたがる傾向もあります」
「朝、顔を洗わなかった。裁判所に訴えろ。清掃用具も定位置に戻さなかった。裁判所に連れて行けと言うことも主張するのです」
「こんなことが犯罪行為になるのですか」
「なりません。でも古い病院の規則では患者に苦痛を与える治療を行うこともありました。今でも病院は患者に正しい生活習慣を習得させるために規則として維持しています」
「要は病院の規則と法律を一緒にしているのですか」
「そういうことです。患者八号にとって病院の生活規則も日本の法律も一緒なのです」
「害にはならないでしょう」
「自分を責める間は社会の害にはなりません。でも他人に向けられた時、大変な騒動になります。この病院では調子が良い患者には軽い作業を行わせ治療の一環としていますが、つい先日もポリッシャーで床磨き作業をしている患者が手順とおり作業をこなさなかったと大騒ぎをしました。もちろん手順を定めたマニューアルはあります。ほうきでゴミを掃き集める。次にモップで床にこびり付いた汚れを取り除く。乳剤を床一面にまき、均一に広げた後に乾燥させ、最後にポリッシャーで床磨き作業をすると言うものです。ところが彼が責める患者はその手順の一つを省略したのです。床の汚れをモップでぬぐい取る作業をしなかった。だから裁判所に連れて行き彼の犯罪行為を断罪しろと大騒ぎをしたのです。実は普段から彼と中の悪い患者を葬りたかったようです」
「不気味な患者である。彼は言い逃れることができるように病気と言う隠れ蓑を準備し、世間を騒がせる知能犯ではないですか」
「そうですね。あなたの周囲には存在しないですか。小さなことで大騒ぎをし、大きな悪事を隠したがる輩です。法を勝手に解釈することや造ることもありますでしょう。そのような輩が組織を引きずることもあるのです。意味不明な言葉で、引きずり回されないように注意をするべきでしょう。合理的でない規則がどれだけ能率や効率を損ねているか計り知れません」と独り言を言いながら女医は先を進んだ。
次は患者9号というプレートの部屋である。
女医に促され、部屋の中をのぞくと、
等身大鏡に向きあい、大げさな身振りを繰り返して男がいた。鏡は他の病室にはなかったはずである。
「彼のために準備したようなものです」
と女医は説明した。
「肉体的に危害がないようにステンレス製の特注品です」と追加した。
もちろんガラスなどは割れたら凶器として使われる恐れがあるからの処置であろう。
彼は立派な口髭を蓄え、ステンレス製の鏡の前に立ち、足を半歩ほど開き、手足を大きく振って大げさな身振りで何か叫んでいるようであるが、遮音性のアクリル板に阻まれて声は聞き取れない。
腕を振り下ろし、時には頭を横に激しく振り、表情を著しく変え、演説をしている。
「何をしているのですか」と聞くと、女医は答えた。
「悲しげな表情や身振りから想像すると、彼は白骨となって帰還した兵を讃える演説を行っている最中です」
理解できずに頭を傾げた。
女医は説明した。
「常人には理解ができなくて当然でしょう。ここは異常な人を集めた病院です。彼の別名は演説男と言うのです」とだけ言い、彼女は廊下を隔てた次の病室に進んだ。
病室と病室の間の廊下は狭く、すぐに行き着けるが、異なる世界に移動するような疲労感を味わった。
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