第6話私をつかまえて(患者六号)

 今日も女性の医師だった。

 私は彼女に彼女の容姿を想像させるあだ名をつけることを思い付いた。

 声の調子とズンドウな容姿はドラえもん婆さんと呼ぶにふさわしい。

 彼女は私に本心を知らずにいつものように席に着いた。

 今日は、特に唇を大きくはみ出し、たらこのように塗られた口紅から、おばQ婆さんと言う呼び方がふさわしいと思った。


「今日は、私をつかまえてと主張する女性の物語を紹介します」

「女性の患者ですか」

「そうです。もちろん病院には女性の患者もおります。その患者さんに関係する話です」

「患者六号ということでよろしいですか」

 私の質問に彼女はそれでよいと答えた。

 私をつかまえて。ロマンチックな恋愛映画のタイトルにでもなりそうな主張をする女性ですね。

 この時、この物語の聞き手は次のような稚拙な想像をした。

 まるでロングヘアをサラサラと草原の風にたなびかせ、フリルのスカートでスキップを踏みかける妙齢の美少女。片手に小さな白いサンダルを持ち、「私をつかまえて」と逃げる彼女を美男子が戯れて追いかける。背景が草原とは限定しない。白く美しい砂浜で波打ち際でもよい。春の陽光に周囲はキラキラと光り、美男美女の大きな目にもキラキラと星が輝いている。戯れて逃げる少女の長いロングヘアからも流れ星のような光りがキラキラと落ちている。二人は永遠に若く、二人の愛も永遠に続くものと想像させる挿絵である。

 女医は聞き手の私が稚拙な妄想世界に入り込んだことに気付いたようである。私を見て苦笑していた。

「彼女は美しい女性ではないかと期待なさったでしょう」

「やはり美人ですか」と私は正直に聞いた。

 医師は私の反応を見て、いやらしい物を見るように顔をしかめたが、気を取り直し答えた。

「そうですね。とても美しい女性です。ただロマンテックな物語とは言えません。ことの発端はある交番です」

「ええ、また交番ですか」と驚いた。

 たしかカッパを巡る物語の時も交番の警官が関係してはずである。

「ええ、そうですが」

「もしかして、患者二号の話に出てくる交番の巡査も関係しているのではないですか」

「ええ、関係しておりましてよ。でも、交番のある場所は変わっていたと思います」と言い、小首を傾げていた。

 先日の彼女とは仕草が別人のようにちがう。あるいは双子の兄弟ではないかと思えるほどである。

「ある女性が通りの向かいから横断歩道を渡って、普通の足取りで交番に近付いて来ます。他には人通りはありません。彼女は交番の透明なガラス窓の前で立ち止まりました」

「心を鎮めて聞いて下さい」と医師は警告した。

 白衣の裾をめくった。私の視線は彼女の膝かしらに飛んでいた。裾は少しめくれたが、下着などをのぞき見ることはことはできなかったが、それでも私は驚きのあまり、椅子の背もたれにのけぞってしまっていた。

 彼女は私の姿に声を上げて笑った。

「このようにバーとスカートをまくり上げたのです」

 しばらくして女医は私に言った。

「いけませんね。この病院に勤めようとする方が、これぐらいのことで驚いていては、神経が壊れますよ」

 と言い彼女は苦笑した。

女医は、彼女の仕草を真似たのである。

 私は改めて病院に再就職をするための研修を受けているのであり、同時に医師達の試験を受けている立場であると自覚した。

「捲り上げたスカートの下に下着は着けていません。俗に言うスッポンスッポンです」

「はあ」

 予想できぬ物語展開に口をアングリと開けていた。

「その光景を想像できますわよね」

 思考回路の完全に停止したが、無意識に頭を上下に振っていた。

「その時、交番には二人の巡査が勤務していました。二人とも外の異変にただちに反応できるように透明な窓ガラスに向かっていたんのです。若い方は書類整理、年配の方の巡査はちょうど熱いお茶を飲んでいたそうです。若い巡査は鉛筆を書類の上に落とし、唖然と見とれてしまいました。実は彼は妙齢の若い女性が交番に近づいて来るのを注視していたのです。哀れなのは初老を迎えた巡査です。彼は口に含んだ熱湯を思わず咽に流し込みました。そして茶碗に残った熱湯はズボンにこぼしてしまい、咽と太ももに全治一週間のやけどを負ってしまったのです」

「かわいそうに」

 猥談と間違いかねない物語であるが、同年配の巡査の災難に同情しての感想であった。ところが女医は逆のことを言った。

「ええ、かわいそうです。特に真面目な若い巡査は運命を狂わされましたから」と言うのである。

「可哀想なのは初老の巡査の方ではないですか」

 聞き間違いかと思った。彼のやけどは公務認定を受けただろうかとか、しばらく食欲不振、人間不信に陥ってしまったのではないか心配をしたものである。

「彼女は数分間、この行為を続けていたそうですが、二人が反応しないのを見て、現れたときと同じ歩調で立ち去ったそうです。女性が立ち去った後で警察官二人は目にした光景が幻覚ではなかったことを、互いの表情の中で確認し会ったのですが、二人とも見なかったことにしようと視線で暗黙の了解を交わしたそうです」

「そのような心理も働くことがあるでしょう」と私は話の展開に作為性はなく、自然であると認めた。

「若い巡査の悲劇は数日後に起きました。真面目に学校で勉強し、真面目に生きてきた若者ですから、前日の光景が忘れられません。彼の真面目な感覚が狂ったのです。女性とはそんなものであると思い込んだのです。そして公衆の面前で若い女性のスカートを思い切り捲り上げたのです。結果は分かりますわね。当然、マスコミは騒ぎます。そして警察官と言う職業にはふさわしくないことです。即、免職です。その後に彼の人生に待っていた運命はどのようなものであるかは想像できますわね」

「初老の巡査の方はどうですか」

「彼はすぐに勤務に戻りました。だが、免職になった同僚とは親子ほどの年齢差はありますが、やはり同僚愛です。今度、現れたら女性を現行犯逮捕で絶対に捕まえてやろうと決心し、待っていたそうです」

「捕まえるというと、どのような犯罪になるのですか」

「わいせつ物陳列かしら」と女医も小首を傾げた。

「もちろん巡査といえども、現行犯逮捕した犯罪者を断罪できません。最終的には法廷論争も覚悟しました。相手が犯罪を否定することもあります。そのために証拠写真を撮るためのカメラも手元に用意しました。そして彼は同僚を陥れた復讐をすべき相手が現れるのを待ったのです」

 眼光鋭く、復讐相手を待つ。彼には街の平和と秩序を回復せねばならない重い責務がある。まるで三十数年前に流行った西部劇映画のワンシーンのような場面である。

「三日ほどして女性が姿を現わしました。真夏の横断を歩道を渡って、近づいて来る妙齢の美しい女性。彼女こそ街の秩序を破壊する犯人である。彼女に間違いないと巡査は見定めたのです。そして彼女が同じ行為をする瞬間まで固唾を飲み待ちました」

 心臓に響くようなツービットの音楽が脳の中を流れた。

 鮫が人間を襲った「ジョーズ」が現れる前の音楽である。

 幻聴から醒めていないと思った。

 まだ自分の脳神経は女医がスカートをめくる仕草に驚いて以来、元に戻っていないようであると自覚した。

と思った瞬間、女医は手元のバックからラジカセを取り出し、ストップボタンを押して質問した。

「どうかしら、今の臨場感を味わいまして。感覚の鈍い患者の治療に臨場感を高め刺激を与える手段として使おうと思っておりますの」

 まるでモルモットのように扱われているのではないか。もしそうなら怒らねばならないと感じた。これまで三十数年近い年月を世間なみの会社に勤めたきたのである。決して、このような軽く扱われる存在ではないはずである。

 女医は私の心境に気付いたのか不明だが、話を続けた。

「突然、女性はしゃがみ込んだと思ったら、その女性のスカートの下には水たまりができたのです。巡査は予想外の行動に、何が起きたのか理解に苦しみます。しばらく呆然としましたが、やっと起きていることを理解し交番を飛び出しました。その後も、彼女の行為は数分は続きました。巡査は周囲を見回したが、人はいません。巡査は叫びました。何をしているのだ。何をしているか見れば分かるでしょうと女は、しゃがんだままふてぶてしく答えました。巡査は彼女がしている行為が放尿だとは理解できますが、問われて妙齢の女性に答えることはできません。彼女の生理現象が終わるのを待ち、慌てて交番に連れ込みました。女は素直に巡査の言葉に耳を傾けて交番に入ったそうです。巡査は彼女を問いつめました。なぜ良俗や秩序を乱すような行為をしたと。女は明確な口調で答えました。このような行為をしなければ庶民には世間に訴える手段はない。さあ、私を法廷の場に連れ出してと女は巡査に食ってかかるのです。巡査は聞きます。何を訴えたいと巡査が聞くと、女は戦争が起きた真相を話すと答えたのです。そして机の上のカメラに気付き巡査に聞きます。証拠写真は撮ったわねと。巡査はカメラの存在を忘れていたことに気付きました。女性は明らかに軽蔑の視線を巡査に向けます。そしてドジとやじるのです。そして膀胱には尿は残っておりませんから、放尿はできませんと宣言したのです。真面目一本の初老の巡査は彼女の言葉にひどいショックを受けましたが、言い返すことはできません。通りには人がいます。いまさら彼女を連れ出し、同じ行為を再現させつこともできません。まして彼女の主張如何では逆に訴えられることになりかねません。だが女性は断固として主張します。さあ裁判所に連れて行けと」

「戦争と言うと太平洋戦争のことですか」と思わず口を入れた。

「日支戦争のことを訴えたいと言うのです」

 私は聞き間違えたと思った。

「日支戦争とはアメリカと日本の戦争ですか。それは太平洋戦争ではことではないですか」

「ちがいます」と女医は声を荒げた。

 彼女の顔には侮蔑の表情が浮かんでいた。

「昭和十二年頃から日本と中国は戦争状態に陥っていたのです」

「そうだったのですか」と私は反すうし、様々な患者がいることに驚いた。

「この日支戦争が泥沼化し太平洋戦争へと突き進むのです」

「彼女は世間の大きな犯罪を法廷と言う公衆の面前で断罪するために小さな犯罪を犯したと主張する機会を得たいと言うのです」

「それが彼女の動機ですか。彼女は心療内科で治療を受けることを要するのでしょうか。単なるお騒がせ女のように思えるですが」

「確かにそうです。警察も手を焼き病院に連れ込んだのです」

「やはり病人ですか」

 昭和四十年代に吹き荒れた学園紛争を思い出し奇異に感じた。あの頃、主張する手段のない若者はゲバ棒を振るい、投石をして社会を混乱に陥れ、自己の主張を貫こうとした。戦前には右翼がテロで政治家や資本家を殺害し、自己の主張を貫こうとした。犯罪として断罪されたはずである。だが女性が前面に絡んだ事件ではないはずである。

 女医は答えた。

「そんなことはありません。古くは八百屋お七の物語もあります。彼女は恋人に会いたいばかりに火を放ち、江戸中を消失させたのです」

 八百屋お七も犯罪者として断罪された。それなら、彼女も犯罪者として断罪されるべきではないかと思った。

「それにしても自らの性器をを露呈するなど彼女の行為は男性的すぎる」

 それに対し女医は答えた。

「そうです。彼女は本来、男性に生まれてくるべき存在であったかも知れません。性不同一症候群と言う病です。最後に申し上げておきます。現実の世界では彼女の夢は叶いませんでしたが、私たち病院ではすべての医師が常に患者が治癒することを最優先に考え努力を惜しみません。ある時には軽度の患者にも協力をお願いすることさえあります。彼女のためには仮装法廷を開いてやったらどうかと意見があり、試してみようと言うことで、裁判長、検事、そして被告の彼女には弁護士を付け、仮装法廷を開催したのです。そして彼女に主張する機会を与えたのです。ところが、彼女は赤面し、ひどくどもり、最後には卒倒してしまいました。そして一言も主張することができず、法廷を閉廷せざる得ませんでした。人間の内面などと言う世界は他人にはもちろん本人にも理解できない不可解なものが存在するのでしょう」

 女医は、結論づけて診断室を去った。

 今回の事件で強いショックを受けて公衆の面前で若い娘のスカートを捲り上げ、道を踏み外した若い警官は一生、明るい道は歩めまい。問題は初老の巡査の残り少ない人生である。患者二号の病院に連れ込んだ巡査と同一人物だと思われるが、彼自身が今回の事件で正常な判断能力を完全に喪失し、病院に運ばれる事態が近くにあるかも知れない。

 女性の伝えたい歴史観についても想像してみた。

 思わず表情が卑猥にねじ曲がった。

 彼女が気付いた日中戦争が深みに入り込んだ理由に難しいことはない。彼女自身が自分の女性自身をさらけ出し示した行為にこそ、彼女が得た結論があるのではないかと気付いた。

  例えばである。スカートをめくり上げた彼女がである。

 みずからの女性自身を指し示し、これが戦争勃発の原因であると叫んだら、彼女は真理を見極めた哲人であると評することが出来ないだろうか。百獣の王と目されるライオンは自らの遺伝子を後世に残すべく子孫を残すために他のライオンの雄の子を殺し、雌の発情を促すと言う。これは有限な資源や空間しかない自然界の摂理でないか。子供が生まれる子宮の入り口を指し示し、これが戦争勃発の原因だと叫び得た時に彼女は、自己と自己の遺伝子を受け継ぐ子孫の活動する生存空間を広げようとする欲求が戦争の原因になると見極めた哲人ではないかと私は妄想をしたのである。


 

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