第5話天に唾する者(患者五号)

 Mの指示で土曜日と日曜日にしか研修ができなくなった。やむを得ず毎週末に研修をするハードスケジュールを組むしかなくなった。それでも単純に計算して残り二十三名の症例に耳を傾けるためには三ヶ月ちかい月日が必要である。それでも初老に達する自分が職をえることは至難の業である。

 患者四号の話を聞いた翌日の日曜日にもMに連絡し、病院に出掛けた。

 女性の医師が几帳面に時間前に診察室で待ち受けていた。もちろん彼女も白衣姿で医師にはまちがいない。女性の化粧には詳しくない私だが、異常にアンバランスなのである。年齢の割には化粧が厚すぎる。それに血のように真っ赤な口紅が異様であり、唇を大きくはみ出している。血色の悪い皮膚にピンクのほお紅は異常である。

 白衣を身に付けているので医師であり、笑うことはできない。だが不気味である。

「Mからの指示でお待ちしておりました」と女性の医師は上ずった声で迎えてくれたが、声はだみ声である。少し緊張しているようにも見えた

 それでも昨日までの男性の医師に比べて、心が和んだ。妙齢の女性でなく、美人でもないが、やはり女性であるせいであろう。

「今日は、どのような患者のお話をして頂けるのですか」と尋ねた。

「天に唾する者と言うあだ名で呼ばれた患者の話です」と言い、一息を入れて強ばった表情で追加した。

「患者五号の話です。病院内の不始末を暴露するすることになりかねない話です」

「他言や作品化して世間に発表することを控えた方がよろしいでしょうか」

「一概には言えません。あなたが正確に表現し伝えることができるなら、むしろ当病院の名誉回復につながり、Mも喜んでくれるでしょう」 

「小説は普遍的な真理に触れえても、真実を伝えることができるものではありません。読者は勝手に読みます。百万人の読者には百万とおりの読み方があると言っても過言ではないのです」

「そんなものですか」

 医師は少し落胆していた。

「患者五号はこの病院の医師でした」

 突飛すぎる切り出しである。

「若い医師でした。経験不足でこれから活躍する医師です。まじめですが、不器用でした。大学校では学ばなかった体験に日々、悪戦苦闘しておりました。仮に名前を彼の頭文字を使いYとします。このような彼に患者の一部がからかい心を起こしたのです。

「彼が理想とした宥和政策が秩序を乱す結果を招くことになったのですか」と言う質問に対し、女医はしゃがれただみ声で答えた。

「そう言うことです。けじめを失うことで医師と患者の区別をする壁が喪失してしまったのです。身分や階級のけじめを重視するのは、あのようなことが起きないようにと言う用心のためでしょう。でも熱心なまじめな医師が陥りやすいのです。Yは患者も自分と同じ人間であると信じ、何らかの衝撃で彼らの歯車は狂ったのだと信じようと無理に努力してしていたのです」

 と女医は言った。

「その頃のYすなわち患者五号を実際にご存じではないですか」

「同じ時期にこの病院に私は看護士として雇われました」と彼女は答えた。女性の医師からの口調からYの対する親近感を感じての質問であった。

「彼は医師として病院に赴任したはかりの頃は、軽度の精神病の患者者は人として扱えば、治癒するか治癒の引き金になるはずだと考えていたようです」

 考えさせられる言葉である。

「精神病患者と通常の人の間に壁が存在しないと言うことですか」

 人間が狂うということはどのような現象であろうか。人が考えない言葉を吐く。人に見えない物が見える。人に聞こえない言葉が聞こえる。

 これまで四名の患者について聞いてきたが、彼らは本当に狂っていたのだろうか。少し変わっているとか、錯乱しているとか表現できる状況ではないのだろうか。

 この程度の変人は、自分の周囲に無数にいたような気がする。

「あなたはYの話を聞く価値がある人のようです」と医師はしゃがれた声で語り掛けた。

「結果的に彼の理想主義が彼自身を不幸にした」

 ここで彼女は言葉を切った。

「三十年前のこの病院の人間関係について語る必要があります。当時、院長を中心に五名の医師と、十五名の看護師で、百名ちかい患者の面倒をみておりました。伝統的な治療法で患者を鉄格子の中に隔離し、暴れる患者には容赦なく拘禁服を着せて自由を奪い、嫌がる電気ショック療法も頻繁に使いました。まずYはそれらを否定したのです。古い医師たちや看護師にとっては面白くありません。露骨に反感を現す者も現れました。従来のやり方に否定されと同時に責任を追及されているような居心地の悪さを無意識に感じていたようです。同年代の若い看護師の中には、理想を唱えることができる彼に嫉妬を抱く者も現れたようです。嫉妬などと言う感情は相手と自分が同等だと感じることで生まれます。相手が自己に比し絶対的に高い位置にあった場合は、嫉妬心が芽生える余地がある。彼自身が患者と通常の人間の壁をとり払ったことも、医師と看護師の壁を取り除く行為に結びついたのです。彼は大きなタブを犯してしまったのです。彼はこのような意味でも破壊的な存在でした。残念なことに、良心の欠片もも持たない腹黒い悪党が存在するなど彼には考えもつかなかったようです。その甘さに悪党が目を付けたのです。同じことを繰り返しますが、世の中には真の悪党が存在します。彼らには過去を後悔したり、反省をする良心の欠片もないのです。そのような輩を教育で矯正もできるはずもないのです」

 女医は絶望的なことを軽々しく口にした。

「それなら刑務所に入れるべきではないですか」

 私は自分がやがてこの病院に勤める存在であることに気付き、無気になっていた。

「本当に悪い奴は、刑務所に入るようなヘマをしません。厳密に法の裁きを受ける行為か否か判断が難しいのです。特に異性を巡る足の引っ張り合いの場合がそうです」

 時として女医の表情に悲しみの陰が差すことがある。あるいは逆に無意識であろうが、痴呆者が浮かべるような弛緩した表情を浮かべることがある。この時はひどく悲しい表情である。異性が絡む話になったとたんであるが、彼女がYの人生に関わる当事者ではないかと妄想した。これまでの彼女の言葉からも同情的な匂いを感じるのである。

「しかし簡単に騙されるものですか」

「不思議に騙すことなど容易です。なにしろ良心の欠片もありかせんから、表情一つ歪めることはありません。」

「実績があれば、容易です」

「実績とは」

「Yを不幸のどん底に落とした男を仮にAとしておきましょう」

「それではAの実績とはなんですか」

「ヒンズスクワットの実施回数かしら」

 ええと耳を疑った。

「今度はヒンズスクワットですか」

 前は反復横跳びの回数が人間の価値や能力を決めると信じて疑わない入院患者がいた。

「Aとは一体、何者ですか」

「Yと同じ医師の卵でした」

「なぜ医師の卵の能力の判定をヒンズスクワットの回数で決めるのですか。なぜそれが実績になるのですか」

「それでは聞きますが、人間の能力の判定をどのように行えばよいと言うのですか」

 女医は逆ギレしたように言った。

「この病院では今でも、そうですか」

「Mが力を持つ、今では大分改善されました。でもヒンズスクワットで能力を判定しようとする勢力は残っています。そして勢力の挽回を絶えず狙っています」

「ヒンズスクワットの実施回数が医師として必要な患者の治療の能力判定には関係ないように思えます」

「形容詞を付けるのです。たとえば画期的な新治療ヒンズスクワット法と呼ぶの」

「まるで、独裁者が偉大な指導者と自己を呼ばせるような行為ですな」

 もちろん私は納得できない。

「現在は違うでしょう。過去の様子ですよね」

 この病院に就職を希望する立場として確認したかった。

「そうですね。でも人間の意識や伝統が簡単に変わることはありません。なにしろ多くの医者が若い頃にヒンズスクワットの世話になり、出世の糸口を掴んだのです」

「理解に苦しむことも多くあるでしょうが、次に話を進めるために」と女医は私の疑問を遮断した。

「Yは、もちろん画期的な新治療ヒンズスクワット法にも疑問です。それよりあっさり電気治療の旨い下手で意志の能力を判断した方が良いと主張しました。彼自身は乱暴で患者の苦痛を与えるので電気治療にも反対でしたが、ヒンズスクワットで医師の能力を判定する方法に比べれば格段に合理的だと主張したのです。でもそのような真面目な方法で医師の能力を判定することは生臭すぎる。医師の団結にひびが入ると言う主張が主流でした」 

「Aはどうですか」

「Yに賛成するような素振りを貫きました。ところが腹の底では、そうではなかったのです。彼はスパイを買って出たのです。「保守的なヒンズスクワット派の者と通じていたのですか」

「そういうことですわ」

「Yは気付かないのですか」

「Aのことを信じ切っておりました」

「院長はどうですか」

「ひそかにYを支持していたようです。彼はYを庇い続けていましたから。表面上は平穏な日々が続きましたが、Yが気付かない裏で謀略が進んでいたのです」

 女医は指先で真っ赤な口紅で塗られた唇を擦った。口紅が取れ指の先端が真っ赤になった口元は口紅が伸びて広がった。彼女は気付かないのか無関心なのか、そのまま話を続けた。

 普通なら違和感を覚えるはずである。だが話の進展に熱中している。

「直接の引き金は異性の出現です。軽い症状の女性が入院をしてきたことで、大きな騒動が巻き起きたのです。その女性は生まれつき自堕落的な性癖の持ち主のようです。それが異常と診断された結果の入院でした。入院後、早速、本性を現しました。医師に色目を使い始めたのです。中々の美人で男心を誘惑しました」

「Aと関係したのですか」

「結論から言うとそのとおりですわ。でも彼女の担当医はYでした。彼女の妊娠が判明にした時にYが疑われる結果になったのです」

「女性がみずから告白したのですか」

「彼女は軽度の症状ですから明確にAの名前を告げました。でも周囲は彼女が正常ではないと彼女の言葉を握りつぶしたのです。Aが告白された場合はヒンズスクワット派が勢力を失い、全員が困ることになるという暗黙の了解が働いていました。Yは女性患者のことを庇いつつ、自らの身の潔白を証明しようとしました。なにしろ昔のことですから、今のように遺伝子検査などの方法はなく、単純な血液検査しか方法はありません。ところがYもAも同じ血液型で女性患者の腹の中の子が誰の子であるか判別できないのです。結局、堕胎をする結果になりました。やはり病を止む患者とは言え、かなりショックを受けた様子でした。必死にAに抗う姿が目に着きましたが、誰からも相手にされませんでした。それは禁治産者として法の保護から外された者の宿命です。女性患者の不幸はなおも続きます。執拗に彼女に対する誹謗中傷が行われたのです。ひどい侮辱的な言葉が掲示板に貼られたり、部外に投稿されたりしました。誰の仕業か不明ですが、私はAの仕業だと確信しています。それは女性患者がAに背けば背くほど残虐でひどい中傷になるのです」

「ひどいことを。それでも周囲は黙っていたのですか」

「頑なにAの非行を疑いません。ただ院長は疑問を感じていたようですが、大きな流れを止めることは出来ません」

「そのような時に行政機関の臨時検査を受検することになったのです。大きな病院ですが、このような非行が明らかになると廃院の危機さえあったらしいです」

「検査官が入る前に、院長は責任を取りました。それも普通の方法ではありません。腹を切ったのです」

「腹を切ったというと、責任を取り院長を辞めたと言うことですか」

 もちろん耳を疑う死に方である。

「いいえ、文字とおり彼は切腹をしたのです」

「時代錯誤をしているのでないか。それでなければ、当てこすりで自殺したのではないか」

 こわばる口調で聞いた。院長が切腹したと聞いたとたんに動転したのである

「あてこすりとは適当な言葉ではありませんわ。それよりは当時の状況から彼は諫めるために自殺を選んだと表現した方が適切です」

「そうかも知れません。死ぬのなら烈しい死に方を選択した方が、残る者の対するいさめになると判断したのでしょう」

 女医は説明した。

「院長の遺志は通じたのですか。それより殺人だとか言う疑惑は起きなかったのですか」

「殺人の線での捜査も行われたようですが、最終的には自殺と結論されたようです。院長の遺志が通じたか否かも疑問です。彼は穏やかな方で、生前は常に平穏や平安な方法で問題を解決することを望みました。もちろんAとYの問題についても、彼は指導を行っていました。彼はYの立場を援護していました。でも誰も耳を貸さない。院長の指導に従うことは自己の非を認め、責任を追及されることになると気付いていたのです。責任を逃れる方策を弄することは彼らだけはありません。公の検査機関も同じです。院長の割腹自殺を自らの失策と疑われるのを嫌いました。臨時の検査は中止になりました、ところが内部の誰かが検査官に内部告発をしたから臨時の検査が仕組まれ、そのせいで院長は自殺したと言う方向で解釈されたのです。自らの非を否定する、この集団的な責任逃れの心理がAをますます苦境に追いつめるのです。すべてYが悪いのだ。Yの存在が不幸を招いたのだと思い込むようになったのである」

「それにしても悪いのはAでしょう。院長が責任を取る必要があるのですか。Aを徹底的に追求すべきではないですか。彼を放置したまま死を選ぶなどとは不自然すぎます」と正義感に燃えて訴えると、女医は簡単に答えた。

「疲れている時には、冷静な人でも普段は考えられないおかしなことをすることもあります。それに様々なことが起きて、すでに正常ではなかったのかも知れません」

「噂とおり内部告発は本当にあったのですか」

「はっきりしません。案外なかったかも知れません。検査官も馬鹿ではありません。当時の状況から検査官も、この病院で騒動が起きていると感付いていたと思うべきでしょう。すでにマスコミの記者らしい人物も病院の外に張り付いていたと言う話です」

「それでもYが内部告発をしたせいだと非難されたのですか」

「そうです。苦境に立っていたYが内部告発をしたのだと、Aが中心になり扇動を繰り返したのです。彼は院長を検査官に売り渡し死に追いやった、天に唾する者と言う不名誉な名前を付され密かに病院の一室に閉じ込められたのです。彼は患者五号として他の患者と同じ扱いを受けることになってしまったのです。もちろんこの決定の裏には様々な思惑が渦巻いていました。噂が世間に広がり病院の経営も危機に陥ると院長が不在し要の欠けた中で暗黙の了承が出来上がったのです」

 Aと言う男の心理というのは、どのように解釈すべきであろうか。私は想いにふけた。彼は卑しい行いに続けて、人間とは他人もそのようなものであり、手を緩めれば他人から同様の仕打ちを受けると思っていたのではないか。そうでも想わねばAと言う男の心理が理解できない。私の想いとは別に女医は話を再開した。

「ここから患者五号の物語が始まるはずですが、突然、彼は嵐の夜に病院から姿を消したのです。この脱出劇にはAに裏切られた女性患者の手引きがあったと噂も立ちましたが、やがて人々は忘れてしまいました」

 それからしばらくしてからです。Mがこの病院にやって来たのです。彼は医者ではなくカウンセラーとして雇われたのですが、病気にも深い理解と知識を持っており、すぐに医師たちの信頼を勝ち得たのです。

 彼はヒンズスクワットの実施回数で医師の能力を判定することにA以上に熱心でした。だから多くの医師が彼に支持をし好意を抱いたのです。なにしろ多くの医師は女性患者や院長の割腹自殺でAを庇い続けることに疲れを感じていたのです。Aを中心とするこれまでの体制には無理があると気付き始めた時期でもありました。ですからすぐに新入りのMをAに代わる新しい仲間として認めたのです。

「女性患者は、どうなったのですか」

 質問に女医の頬がかすかに痙攣をするように震えた。

「知りません。それにAも病院から姿を消しました。その後の女性患者の人生もYやAの噂を耳にすることはありません」

 私は女医は聞いた。就職が決まる前に、病院の内情に精通しておきたかったのである。

「Mはまだヒンズスクワットの実施回数で医師の能力を判定する方法を推奨にしているのですか」

「いいえ彼も昔ほどこだわっていません。今回は患者五号の物語を通じて病院の歴史についても紹介したつもりです。すべてMの指示です。この病院は常に危ういバランスの元で成り立っているのです。正常でおれるのはすべてMと言う重しのお陰です。ですから仕事に就いた暁にはMの支持は絶対です。逆らってはいけません」

 話を聞き終えた時に、ふと目の前の女医がAと関係をし、子供を孕んだ女性ではないかと閃いたが、まさかと否定をした。

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