第4話せみし男(患者四号)
「患者四号について話しましょう」
今回は小太りの医師である。もちろん白衣姿で、彼が医師であることを疑う余地はない。
この病院の廊下に出会う人は三種類のいずれかの服を身につけている。医師や看護師の白衣姿である。たまに薄緑色の看護衣姿の者を見かけるが機会は少ない。患者は薄青色のパジャマを着ている。彼らには白衣姿の看護師が付き添っている。
力学の三法則が人間社会を動かす根本原理であると主張する患者三号の物語が心に残っていた。聞き損ねた部分が多く。棘が咽に刺さったように気になっていた。
「ああ、彼のことですか」
医師はすぐに理解した。
「一般的なことですが、この種の病気にかかる者は貧しい者が多い。ところが患者三号の場合は恵まれた生活をしていましたが、彼自身は、そうは思わなかった。自分は不幸だと思い続けていた。あえて言えば過去の苦しい体験から逃れることができなかった。自分は不幸であると思い、その原因を探り悩み続けた結果、彼はブッタやキリストと同じ悟りの境地に達したと思い込んだ」
医師の言葉に違和感を覚えた。患者三号は悟りに達したなどと思っていない。先回の話の印象では、彼は自己は不幸の原因が慣性の法則のせいだと思い込んでいる姿が強く伝わってくる。
「それも言えます。患者三号は彼にも何度も幸福になる機会はあった。ところが不幸な人生を歩むにちがいないと予言は呪いとなり彼の人生を毒し続けた。予言を下した者は自らの予言が外れることを嫌い、彼が幸福になることを妨害し、彼を不幸のどん底に叩き込んだ輩と手を組んだのだと繰り返す言葉を耳にしたことがあります。本当の気ちがいなどは病院の外にいるのです。それでも質の悪い患者は弁護士を連れて訪ねて来ます。殺人や傷害事件を犯した時の状況は心神喪失だったと書いてくれと言うのです。呆れたものです。人を殺めたり、傷つけたりする瞬間にはおかしくなっているのです。心神喪失です。特別な状況ではありません。そのとおりに書いてやります。犯行当時は心神喪失状態だったと。当然のことを書いて裁判所に提出します。裁判で私の証言が有効に働いたと言う風には聞きません。このようなことが数回続きましたが、最近では弁護士も私には近付かなくなった。人が自殺と言う手段で自らを殺す行為を行う時にも同じです。心神喪失です」
私の疑問は氷解し、医師の言葉に満足した。
「ところで臨床例を把握する研修はいつまで続くのですか」
「二十八人の臨床例を話すように指示があった」
「なぜ二十八名でしょうか」
「Mが鉄人二十八号の大ファンだったせいでしょう」
業務上の決定に個人的な感情を持ち込めるMと言う人物はこの病院では怪物的な実力の持ち主ではないかと彼の正体に思いを馳せた。
「鉄人二十八号というと横山光輝の漫画の主人公ですか」
「もちろんです。巨大な図体を正義の少年正太郎君がリモートコントロールで操縦し悪人を倒す姿こそロボット漫画の基本であると彼は常々我々の前で公言しておりました。それに漫画とはいえ夢物語ではなく、現実にも実現したのです。小説の突拍子で奇妙なことを書くのでなく現実の世界に立脚した作品を書く発想が欲しいものです。これもMの言葉です。あなたにその先駆けになって頂きたいとも彼は言っておりました」
Mは研修を始める際に、最初に私が調整した相手である。
研修の始発点も終着点はMと言う人物に帰着するような予感を覚えた。規模の大きな病院であり役職も様々あり、彼はその役職に従事する人物にちがいないと理解した。彼は将来、私の上司になる人物かも知れない。
そのMから患者三号の件を聞いた研修の翌日、電話があったのである。彼は鼻に掛かるような声で用件を伝えた。
「今後の研修に際しては以下のことを約束して下さい。病院を訪問する際には事前に連絡をすること。私以外は詳しい事情を知らないので彼以外とは話をしないこと。それに診察室以外の他の場所には立ち入らぬこと」とMは言った。
立入り制限のことを聞き、それでは研修にならないと不満を伝えた。
「病院内の施設の案内は内定後に行います」とMは答えたのである。
さらにMは条件を追加した。
「研修は外来患者の少ない日曜日と祝祭日に行うこと。平日は忙しい」とMは告げて電話を切った。
確かに患者三号の話を聞いた時は平日に来ていたが、病院内は慌ただしく躍動していた。
診療室は白く塗られた狭い部屋である。小さな二人がけのソファーがあり、窓際には医師が書き物をするネズミ色の事務用机と肘付きの事務用椅子がある。内科や外科のように診察に使う道具や診断のために患者を横たえるベットもない。倉庫のように殺風景きわまりない部屋である。
この部屋で、私は三名の医師に会っていた。
患者一号のことを話した医師は鼻の下に口髭を生やした貧相な男であったが、尊大に振る舞っていた。口髭はポマードで固めて、髭の端が上を向いていた。老けたように見せようと装っているが、声の張りから若いはずである。自分を大物であると強調しようとしているようである。
患者二号のことを話した医師も痩せていた。小声で、およそ医師らしくなかった。皮膚の艶から判断すると六十歳近い年齢であろう。
患者三号のことを話した医師は黒縁の眼鏡を掛け体格も大きく、大学病院の教壇で教師として学生に教育をしても似合う風貌をしていた。
患者四号のことを話すために目の前に居る医師は痩せていた。医師として非の打ちようのない姿をしている。背筋も伸び、清潔な白衣がまぶしい。机の上に太い万年筆とカルテまで用意している。背を伸ばしカルテの上を盗み見るとミミズのようなくねった文字が書き込まれている。ドイツ語であろう。私はドイツ語を読むことも書くこともできないが、カルテの上の文字はドイツ語であると文字自体が語っていた。本題を無視した遠回りな話し方をするのが気に掛かるが、回りくどい話の後にも、最後は本題に戻ってくるのは頭が良い証拠であろう。彼が正真正銘の医師であること疑わなかった。もちろん患者一号、二号、三号について話した医師も本物であったことを疑う余地はない。
医師が入れ替わり立ち替わり、研修生の私に臨床例を話すのは大きな病院であり、昼夜の交代制を組み患者に対応しているに違いない。
「ところで患者四号の話は」と切り出した。
医師は本題に入った。
「まず彼の経歴です。彼は有名大学卒のエリート公務員でした。患者三号と似た経歴です。友人も多く、彼の順風満帆な人生を送っていたと言えるでしょう。その彼が弟が付き添われて私の診察室に訪ねて来たのは二年前のことです。ドアを入ってきた時の印象は正常な紳士に見えました。ただし、いきなり背中を向けこのこぶを除去して下さいと彼が執拗に訴える時までです。理解できぬことを迫る、その時の表情には鬼気迫るものがあり、彼が常人ではないと思わせるものでした。
彼がそれを除去しろと訴えた時、違和感を覚えたのです。
彼の背中に瘤などありません。普通の人と変わらずまっすぐに伸びきっているのです。私には彼が正常人であると言う初印象がありましたから、この落差に困惑しながら、彼が患者であることを忘れ、咄嗟に瘤などありませんと答えました。それに瘤を取るには外科手術が必要ですから私の専門ではありませんと答えたのです。患者四号は叫びました。嘘です。専門医である先生には分かるはずです。よく見て下さい。私の背中には瘤がついているはずです。それもとても大きな瘤で私の姿はせみし男のように見えるはずです。
私は困りはてました。
自己を天皇陛下だとか呼ぶ患者の症例があることは聞いたことがありました。でも肉体的な特徴を誤って主張する患者の例など古今東西の文献を探しても居ないはずです。でもとりあえず患者三号に聞きました。あなたの瘤は背中のどの辺りにあるのかと。すると患者四号は手で首の付け根から腰の中間付近までの間の空間に曲線を描き、この部分だと答えたのです。私は疑う前に彼の訴えを聞こうと決めました。そして彼の主張を受け入れました。たしかに瘤が出来ています。肉の塊ですか。背中が重たいでしょうと患者四号を慰めた。患者四号は我が意を得たとばかり、話し始めた。いや肉の固まりではないようです。重量も感じません。ですから瘤の存在に気付かなかった。それでは空洞ですか。空洞ではありません。記憶の固まりです。記憶は脳の中に蓄積されるはずですがと聞くと、患者四号は答えました。普通はそうです。でも頭脳に納まりきれない記憶は延髄を伝わり、背中に溜まるようです。せみし男ができる理由です。先生、年を取った人間は背中が曲がりますよね。あれも頭脳に納まりきれなかった記憶が背中に移動したのものなのです。でも普通は背中の瘤の正体を知らない。だから背負っている記憶の内容も思い出せない。昔の人はよく言ったものです。男の背中には男の人生があるなどとは、まさしく背中に記憶を背負うことを知った言葉です。なるほどと相づちを打ち、私は患者四号の話の続きを促した。もちろん先例のないことである。だが次第に彼の話に夢中になり、身を乗り出し聞き耳を立てていた。なにしろ彼は話術に長けているのです。来院の目的はその瘤を切除することですかと問うと患者四号はそうだと答えた。それはどんな記憶ですかと聞くと、患者四号は始めて言い渋った。その時まで饒舌に語っていた彼は始めて拒絶した。恥ずかしいのですかと聞くと患者四号はそうではないと答えた。それでは背中の瘤を切除することは出来ないと開き直ると患者四号は反発し、先生が知る必要はないはずだと答えた。私は患者四号の目を盗み、医師は患者四号に付き添って来た弟の方に始めて視線を向け、小声で聞いた。いつ頃から、このようにことを言うようになったのですか。付き添い弟は小声で答えた。例の事件を知ってからです。例の事件というと弟に聞き質した。弟は自分の口から説明するより兄の口から説明をさせた方がよいだろうと断った。具体的に経緯は不明なのまま、電波が飛んできたとでも主張したのですかと聞いたが、弟はそんなことはなかったと答えた」
医師はここで言葉を止めた。患者四号を診察した時も、この部分で会話が途切れたにちがいない。彼が話し始めるのを待つしかない。時計を見ると二分ほど経過していたが、彼はまた、当時の様子を語り始めた。
「論理的に責めるしかない。私の結論でした。患者四号に言いました。瘤があっても命に別状はない。外科的に切除することは危険を伴います。瘤に溜まった記憶が苦しい過去の記憶に関わることでなく、呼吸の仕方だとか命に差し障る記憶の場合は取り返しがつかなくなる。医師として確認した上でなければ切除の同意はできないと毅然と宣言した。患者四号は迷ってしまいました。納得できる範囲で、しかも一番のあなたを苦しめる記憶を話していただきたい。彼はこのだめ押しの言葉で彼は了解し話を続けてくれた」
いよいよ患者四号に関する症状の本題に入るはずである。
だがその前に私は確認をせねばならないことがある。
彼が使うせみし男と言う言葉である。
おそらくせむし男のことにちがいないと思う。何らかの理由があり、うまく発音できないだとう思いながら聞くことにした。
「それはせむし男と言うべきではないですか」
医師は慌てて、周囲を見回した。
彼は誰にも聞かれていないと確認すると、唇に左のひとさし指を一文字に当てて、話すなと言う仕草をして、一層、声を潜めて言った。
「せみし男です。せむし男などと言う言葉を使ってはいけません」と頑固に宣言した。
「なぜですか」
「差別用語です。使っていけないのです」と医師は分かり切ったことだと言わんばかりに強い口調で言った。
「差別用語。一体、誰が決めたのですか」
「そう言う風になっているのです」
「それでは、せむし男のことを何と呼べばよいのですか」
人さし指をメタロームのようにチッチッと等間隔に降りながら、「ですから使っていけない。口にしたら駄目だ」と言っているのですと、彼は軽い動作とは裏腹に険しい口調で言った。
少し、落ち着いて彼は慰めるように言った。
「難しく考えないで、せみし男と言えばよいのです」
と医師は自信満々に言った。
せむし男と言う言葉は使っていけないが、せみし男と言う言葉は使ってよい。私は納得できないで、首を傾げた。
医師は追い打ちを掛けてきた。
「精神分裂症と言う言葉も使っていけませんよ」
「精神分裂病を煩う患者は消滅したのですか」
すでに数例の伝染病がこの地球上から姿をけした事例を知っている。あるいは精神分裂病と本人や患者の家族にも不幸をもたらすやっかい病も、姿を消したのではないかと早合点したのである。
「差別用語ですから使っていけないのです。今では統合・・・・とか言う言葉で表現するようになっているのです」
言葉を変える必要があるのだろうか。誰が決めたのだろうか。疑問を解決する間もなく医師は追加した。
「それからあえて忠告します。キチガイという言葉も使っていけません。社会的パッシングを受ける前に忠告しておきます」
すでに患者一号を描いた孫文になった男と言う作品でキチガイという言葉を使ってしまっていることを思い出した。
「それでは何と言うのですか」
医師も、その言葉を考え付くまで時間がかかった。
患者一号がキチガイ周囲に集まった集落の者から非難を浴びせられる場面を思い描きながら意地悪をするつもりで言った。
「オタンコナスと言ってやりましょう。それともクルクルパーでも、ボケナスでも良いでしょう」
「差別用語に指定をされてはいなければ、よいのですが」と医師は不安を感じながら納得をしたようである。
本来の話から脱線してしまったが、上の空になり考えていた。
年取った自分が時代から置き去りにされたような気がした。歴史の断絶させかねない重大事であると思えることである。
置き換えることができる言葉が用意されている間はまだ良い。だが置き換える言葉がなければ歴史の断絶を招くことになりかねない。
現実に世界にせむし男も存在する。
言葉を消滅させることで、事象を消滅させることはできるはずはないのである。
「まやかしではないのか」
消滅をなくしたい言葉や耳にしたくない言葉は山ほどある。強姦、脅迫、恐喝、詐欺。従軍慰安婦などという言葉も真っ先に消滅させたい。
「歴史の断絶を図りたいのですか」
言葉を無くしても、行為や事実は存在し続けるにちがいない。
ある特定の言葉を抹殺しようなどとは誰かの陰謀ではないか
私の心中の不安に気付いたのか、医師は言葉を掛けてきた。
「深く考える必要はありません。そんな大げさに考える必要もありません。せみし男でよいのです。それで作品は成立し、社会的パッシングを受けることもありません。第一、六文字の言葉のうちの一文字を変えるだけです。そしてせみし男とするだけで問題は解決し、すべてまーるく収まるのです。」
苛立ちは止まらないが、目の前の医師の語る物語の世界に戻るしかない。
医師の言葉を待った。ところが医師は期待はずれの言葉を口にした。
「結局のところ分からないのです。肝心なところで混乱し、話しが飛び常人では理解できなくなる。患者四号は退院してしまいましたが、それまで何度も聞き直し整理しようとしたのですが、結局は彼の話す物語が真実か否か確認のしようがない」
「患者四号は、もう退院したのですか」
と医師に確認した。
「ええ、退院し彼は作家として世間に知れ渡る身分です」
患者四号が作家として活躍していると聞き、私は身震いするほどの興奮を覚えた。私の関心は患者四号の症状より、むしろ現在の姿に移っていた。現在の彼の正体を知りたいのである。そのためのヒントを得る。それが目的になっていた。
有名作家で、しかも自虐作家と呼ばれている。内心では簡単に特定ができるのではと思いながら、最後のだめ押しのつもりであった。
「断片でも話して頂けませんか」
「彼の話の概要はK市にいる自分の親友が自殺した。これが患者四号の頭脳の歯車を狂わせる切っ掛けとなった。彼の親友は自殺するような人物ではないと不信に思い、彼は探り始めた。そしてかっての自分を不幸のどん底に落とした人物が親友のそばで勤務していることを知ったのである。その患者四号のライバルと目される人物をBとしておきます。その時患者四号は親友がBのあくどい手段に追い詰められて自殺したと直感したと言うのである。その直後である。今度はBがもて遊んだ末に捨てた女性とささやかな家庭を営んでいた夫婦の間に大きな事件が起きた。妻の過去を知った上で家庭を築くことを了解した男が衝動的に妻の腹を日本刀で刺すと言う考えられない事件です」
「本当ですか」と私は思わず叫んだ。
「真実は分かりません。それも整理した結果です。たいしたことではないかも知れませんが、ここまで彼の話を整理し要約するのに二年の歳月が必要だった。それほど彼の内面は複雑に込み入り整理ができない状況だった。もちろん彼自身も彼の気持ちを理解していなかった。まさしく空白部分になっていた。ただ整理を終えた時に彼の症状は緩和し退院をすることができた。彼の背中の瘤は外科手術ではなく私たちの治療で治った訳です」
「真実は分からないとは、どういうことですか」と私に医師に聞いた。
「ここは病院にすぎません。法廷ではありません。それに事件を持ち込む検察でもないのです」
「警察が動かなかったのか。このような事件をマスコミが嗅ぎつけないはずがない」
「閉鎖的で体面を重んずる世界での出来事だ。過去にBと争った経験のある患者四号はBと言う男の正体を知っている。彼は体面を重んずる体質や周囲の臆病な反応を知った上で仕掛けるのだ。小さな犯罪には周囲は騒ぐ。だが組織の存続や本質に関わる犯罪には、押し黙ってしまうことを承知した上でBは仕掛けるのだと言う。自殺した男の場合は保険金の支払いや、早く忘れたいと言う遺族の気持ちが働くことをBは承知していると言うのである」
「日本は法治国家だ」
「この法治国家を守る警察や海上保安庁内部の事件だったら話であったら、どうですか。しかもBの背後に大物政治家や不気味な政治団体が関わっていたとしたらどうですか。警察も検察も安易に踏み込めないはずです。事件の当事者に近い者たちは遺族や関係者の心情を考えての人道的な行為だと自己を慰め、強固に防御態勢を取るのです。当然、背後で事件をリモートコントロールするBの存在や行為も不問に付されます」
と医師は言った
「それでは患者四号は、どのような経緯で事件を知ることが出来たと言うのですか」
K市はこの街から遠く離れている。医師の私の質問に答えた。
「患者四号の住む世界には独特なネットワークがあり、事件が直後に上司や周囲の視線が彼に集まったと患者四号は言うのです。責めている視線でもなく好奇に満ちた視線だった。それで自分とBの人生に関わる出来事にちがいないと直感したと言うのです」
「どのような業種の世界にも、ある種のネットワークが存在するのは事実であろう。でも上司や周囲が彼を好奇の目で見たと言うことだけで彼自身に関わりがあると決めつけるのは意識過剰ではないだろうか」
医師も患者四号に同じ感想をもらし、興奮する患者四号をたしなめたと言う。
「その後、患者四号はK市のもう一人の友人に連絡をした。だがその友人は、静かにしておいてやれ、躁鬱病を患い自殺したのだと言い張るのである。それから数ヶ月後に患者四号は、自殺の理由は警察の手が伸びてきたせいだ。しかもそれは女性問題である。質の悪い女のメールに彼の電話番号が登録されていた。警察の事情調査の前に彼は自殺した。患者四号は自分が思いが正しかったと確信した。Bが関係していたにちがいない。社会的に正常な感覚を麻痺させるのもBの常套手段である。他人の心を操り自滅に追い込む。現代版、美人局であると断定したと言うのです」
「Bとはひどい男のようだ。そのような恐ろしい男が本当に存在するのですか」
医師は、自己の感想を始めて述べた。
「現実に起きる犯罪を観察して下さい。私たち常人が理解できないような凶悪で得体の知れない人間が存在するのです。他人のささやかな幸せを奪うことに自らの喜びを感じること。他人を踏みにじり傷つけることで幸せになる人種。自己が犯した罪に後悔も疑念も感じない人種が存在し。彼らの行為を責めると逆に逆恨みを招くことにもなりかねません。患者四号の話が真実か否かは別にして、
一般市民には縁のない世界や人種が存在するのは事実でしょう」
ここまで悪意を感じながら生きる患者四号の精神は大丈夫だろうか。
「だから患者四号は狂ったのです。狂うことで救われたのです」
「患者四号のペンネームを教えて頂きたい」
「作家志望のあなたなら御存じのはずです。あるいはすでに彼の作品も読んでいるかも知れません」
医師の言葉は耳の痛い皮肉に聞こえた。
「残念ですが、本人の了解なしには名前を明かせません」と彼は謝絶した。
「最後に聞かせて下さい。患者四号は社会的にBを糾弾することができたのですか」
それに医師は応えた。
「この種の病気に世話になった者は著しく社会的な信用を失います。一般世間に生きる者は耳さえ貸さなくなります。まして彼が退院後に選んだ職業は小説家です。世間では小説家などとは嘘つきの代名詞です。嘘つきでなければ小説家にはなれないと信じる者もおります。とにかく、こう言う事情でせみし男は、この世に出現したのです」
彼は自虐的に笑い、私も彼の笑いつられ、思わず自虐的な笑いを浮かべていた。医師の話は終わったようである。診察室を出る瞬間に彼の白衣の背中が白衣の下に空気が籠もっているだけなのかも知れないが膨らんでいるように見えた。
私は診療室を出ると本屋に駆け込んだ。
自虐作家などと言うニックネームで呼ばれる小説家を探し出すことは容易なことであるはずであった。だが探し出せない。医師から聞いた話で作品から推理しようとするが、それらしい作品もない。好奇心は募る一方である。患者四号、別名、せみし男の話をしてくれた医師には会いたいと思うが、Mから病院内の行動は厳しく制限されており、探し出すこともできない。
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