第43話悲しい街

 関西地区にあるスラム街をイメージして頂きたい。

 別に特殊な場所ではない。日本人が豊かになり、近代化が進んだとは言え、どこにでも貧しい地区は存在するはずである。

 日本の高度成長を血と汗で汗で建設した多くの人々が最後に行き着く場所である。将来は福島原発事故の事故処理で寿命を縮めた者たちが集まる街である。

 狭い路地、軒先を連ねる小さく汚い家。

 大部分が故郷を捨てて、流れ着いた者である。

 真実は逆である。

 故郷では食いつなげない貧しい者が、生き残るために都会の闇に紛れようと集まる吹きだまりである。故郷から捨てられた者が流れ着く場所である。

 多くは日雇いで生計を立てている。


 二世三世と言う者も珍しくない。

 初めて立ち入ったのは晴れた春の日だった。

  路上駐車をしている車を多い。中をのぞき込むと布団が敷いてある。寝泊りに使用しているのであろう。家具も路上に放置されている。捨てられている訳ではないようである。中には靴が置かれている。青いビニールシートのバラックの前でビーチパラソルを広げて、椅子に座り、日なたぼっこを楽しむ男も者もいる。

 それぞれの人生をあるようである。

 晴れて爽やかな日だが、決して、そのようには形容できない。目立つのは、不潔な家と、異様な看板である。

 街に奥に入ると、ますます異臭が強くなっていった。

 拾い集めたの古い看板で家の外壁にしている家が目だった。

 神の裁きは近い悔い改めよとか言う宗教的な看板や、学生運動の盛んな数十年前に見掛けた、資本家を駆逐しろと言う時代離れした看板が目だった。

 やがて異臭が気になった。

 精神科医を目指す私は、ボランティアとで、その地域に立ち入ろうと思った。人間の心の底を知ることは将来の仕事に役に立つはずだと思ったのである。

 私はボランティアでそんな街でこえ掛け運動を展開していたことがある。

 何が出来るか自信もないまま、炊き出しの作業ぐらいはできるだろうぐらいの気持ちであった。

 ボランティアーの事務所を訊ねると、快く応じてくれた、

 街に入るために最初、三回は案内を付けてくれると言う。

 女性であった。初対面の三十代だと言う印象であった。髪を乱暴に馬の尾のように頭部の後ろに結わえている。化粧をしていない。肌は渇いている。紹介されてもペコっと頭を下げただけであった。すぐにナップサックを背負い無言で私の前を歩いた。中性的なイメージである。

 ボランティアの待機する建物から出発して、しばらくして彼女は口を開いた。

「この界隈に、夜には絶対に立ち入るな」と、案内人は釘を刺した。

 町の中を隅々まで見て回る約束だった。

 その間に知り合いを造ることだと助言された。それから自分が出来ることを考えることだと助言をされた。

 この界隈に住む者は太りすぎているか、痩せすぎているかの両極端である。

 多くの者は彼女に行き交うと、軽く会釈をして通り過ぎた。

 彼女が尊敬を受けていた。街角の電柱に背を預け立つ背の低い男に気付き、近づくと、案内人は小さく会釈して、「こんにちは、元気と」に声をかけた。

 男は焦点の定まらない目で彼女の顔をしばらく見つめていたが、挨拶に関係なく脈路のつかない返事をした。 

「僕は生まれてきたくなどなかった。一度も感謝などしたことはない。彼女に自分を子宮に戻してくれと頼んだ」

 薄気味悪い言葉である。

 案内人は黙って頷いた。同情しているようであるが、表情には出ない。男の言葉を無視しているようにさえ思えた。このままでは失礼だと思い、横から五体満足で生まれてきたけでも感謝をしなければといけないと言葉をかけた。

 この言葉は男の耳には届かず、そばに付き添う案内人は軽蔑が入り混じる冷ややかな表情で僕を見た。事情を知らない若造の甘い言葉と思っているのは明らかであった。

 歩き去る時に足を引きずっているのに気付いた。案内人は小さい頃に罹患した小児麻痺のせいだと言った。

顔は皺だらけである。

 手足も痩せている。

 六十歳を過ぎているように見えたが、四十歳にもなってはいないはずだと答えた。

 重い病にかかっているのかも知れない。

 公衆衛生にも無縁で不衛生な環境のせいだと思った。

 君の言うことは正しい。僕などは五体満足だよ。だから母と妻、子どもを養わねばならないと言い捨てて笑ったような気がした。

 無表情な案内人の顔が少し歪んだ。

 一週間ほどして、前と同じ案内人に従い町に人った。

 遠くで男は振り返って叫んだ。


 彼女は私がその男について質問をしても一切、答えなかった。

 その日は霧の濃い日であった。

 あの男が青いビニールシートで囲われた掘っ立て小屋の前で、見知らぬ老女と激しく言い争っているのである。

 すでに、その男が公園の片隅で野良犬のように野たれ死んでいたと言う話を彼女から聞いていたのである。

 先は歩く案内人は気付かないようであるが、先週、出会った男であることであった。

 他人のそら似とは思えなかった。何度も振り返りながら、その場を後にした。

 案内人は、死んだと言ったはずであると記憶と目の前で起きている光景を、どのように納得してよいものか迷ったのである。


 僕は老婆の姿を見た。

 腰を曲げ、目は小さく深い皺の中に埋もれているのが白い霧の中で見て取れた。

 もちろん汚らしい格好をしている。


 この界隈に住む人間は、人間が耐え得る孤独の限界を超えているのではないだろうか。

 男の亡骸が、どのように処分されたかも案内人に聞いたが、答えない。

 多かれ少なかれ、人の最後は野垂れ死にをするのである。

 介護施設で、やせ細って、ミイラのようになって息を引き取っても、のたれ死ぬことと、年の中でのたれ死ぬことと何の差異はない。


 密かに闇の貧民窟に足を踏み入れた。

 案内人は女性であった。女性には物騒な界隈でも、男性の私なら世間一般の間違いは起こるまいと思ったのである。

 夜の町は賑やかであった。

 青白いネオンも灯っていた。

 黄色いローソクのような明かりで風景がぼんやりと浮かんでいる。

 無言であるが行き交う人も多かった。

 昼間は多くは見掛けなかった年寄りが多かった。

 古い錆びた手押し車を押す年寄りが多かった。そのような類の人種で狭い路地裏通りが一杯になっていると言ってよい。

 手押し車の中を覗き込むと腐りかけた果物や、破裂しそうに膨らんだ缶詰が積まれていた。昼間、見かけた群衆とはまるで違っていた。

 ある年寄りの手押し車を覗き込み、飛び退いた。

 籠の中にミイラが入っていたのである。

 背骨を共有し左右に顔と足を曲げる一体のミイラだった。


 翌朝、案内人に会った。

 その日が、付き添いを頼める最後の日だった。

 出会った不思議な光景を語った。ミイラではなく遺骨をカートに乗せ、夜の街を徘徊する老婆がいると噂を聞いた。

 もちろん彼女が禁じた夜間立ち入りの件は隠したままである。そして噂で聞いたと断った上である。

「誰が、そんなことを話したの」と彼女は不思議そうに聞いた。

 公番前でたむろする男たちからと思わず嘘をついた。信用したように話してくれた。

「彼女は男の母であり妻であったのよ」

 しばらく質問して良いものか迷ったが、質問した。

「近親相姦ですか」

「そうです。しかも噂では死姦だったと噂です」

「おぞましい」と、思わずつぶやいた。

「噂ですよ。しかも最近の話ではありません。数十年前のことです」と女性の案内人は説明した。 

「黄泉の国の住民の母と、現世の息子の近親相姦で生まれたのが、背骨一対の女の子ですか。

 私は自分の浅い想像を彼女に押し付けた。

 彼女はそうだと応えて、「すぐに死んでしまったと言う噂だ」と付け加えた。

「それが、あのミイラの子ですか」

 初めて案内人にミイラの話をしたのである。

 それはあやふやな噂で骸骨と話していた。

 案内人は疑いの眼差しを私に向けた。夜の界隈に立ち入ったのではないかと疑い始めたのである。

 その後、すぐに彼女は無表情になり、冷たい表情に戻った。

 濃い霧の中で老婆と男が言い争う姿を思い出した。

「老婆はまだ生きているのですか」

「すでに十年前に亡くなっています」

 霧の中で見かけた光景を口に出しかけたが、止めた。

 一体、この界隈で亡くなった方の葬儀や弔いはどのようにとり行っているのですか。夜の街はまるで死者が徘徊しているようだった。

「夜はこの界隈に立ち入るなと言う忠告をしたはずですよ」。

 背筋が寒くなった。

「霧の中で見かけ、不気味なミイラを乗せた手押し車を運ぶ老婆も見かけました。一体、どうなっているのですか」

 案内人は突き放した。

「警告を無視したのですから、これ以上は構いたくありません。勝手に想像したらいかですか」と突き放した。

 私が途方にくれてしまった。

 あまりにも落胆した姿を見かねたのか、彼女はひと気のない街角の木陰に私の袖を引き、連れて行った。

「人間社会は法律や倫理に基づき完璧に構成されている訳ではないのです。日の目を見ないおぞましい秘密や不気味なことや、非条理なことが多く存在する世界なのです。この界隈はその非条理が具現した世界なのです。夜には黄泉の国と現世の境もが不明瞭になり、普通では信じられない光景を目にするのです。昼間でも六感の鋭い者の中には死者の姿を見ることがあります。霧の深い日などは特に顕著に現象が現れます。私も昔は、異界の存在を目にしたものです」

 案内人が初めて打ち明けた個人的な意見であった。

 表情のない青白い顔が赤く上気し、少女の顔になり、背の高い私を見上げていた。

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