第37話幽霊になった話
十年ほども昔の話である。
西郷隆盛を尊敬する有志で、西郷隆盛も顕彰する会を作ったことがある。
参加者が西郷のように肥満気味で別名を肥満を誇る会と呼び、互いに諧謔を楽しんだ。
メンバーは社会的に成功した者が多かった。
当然、会として行動をしなければいけないと言うことになった。
鹿児島で集合し、昼間は西郷ゆかりの地を観光し、夜は宿泊するホテルのバーで西郷のふん装をし飲み明かそうという事になった。
まだ残暑も厳しいが、九月二十四日に集まることになった。
西郷が政府軍に最後の攻撃をし掛け、押し返され、城山のふもとの洞穴に帰る途中、岩崎谷と言う山道の登り口付で腹部に銃弾を受け別府晋介の手に首をゆだねた日である。
西郷ゆかりの地と言えば市内中心部にある生誕地、西南戦争で没した多くの武将を祭る神社で裏には彼らの墓地もある南州神社、最後の時を迎えた岩崎谷口付近、西南戦争で彼が潜んだ洞穴と言うことになる。
その周辺に点在する観光スポットや博物館の類も見学をし、夕方には予定とおり、鹿児島が一望できる城山と風光明媚な小高い丘の麓にある洞穴に到着した。
西南戦争で熊本城を突破できず、田原坂で政府軍に破れ、追跡する敵と戦いつつ、残雪残る九州山地を超え、大分から人吉、故郷の鹿児島に向い逃れたのである。そして最後はこの城山を中心に縦横無尽に陣地御を造り、政府軍と戦ったのである。
西南戦争は日本最後の内戦で大きい戦いであった。熊本城は原因不明の出火で宇土櫓と言う一建造物を残し全焼した。そのことで熊本市民は、いまだ、西郷のことをよく思っていないように思う。肥前の大隈重信は西南戦争で鹿児島は灰燼に帰したが、不思議と鹿児島人は西郷のことを怨まないし悪く言わない。西郷と言う男は幸せで不思議な男であると評している。
西郷が政府軍の砲撃を避け、潜んだ洞穴の前で厳かな行事を行った。鹿児島に縁があると言うことで、行事を取り仕切り役、説明役まで押し付けられた。
全行事の最後は山上のホテルでの懇親会である。
約束とおり、全員が西郷に扮した格好で参加した。
ある者は東京の上野公園に銅像を真似て絣の着物姿で参加し、ある者は鹿児島の照国神社近辺にある軍服姿の真似て参加した。
私は軍服姿で参加した。
愉快な宴席であった。
しかし私は昼間の疲れで、他の仲間とは早々に別れ部屋に戻り、床に就いた。
夜中に目を覚ました私は、とんでもない忘れ物をしたことに気付いた。
カバンがないのである。財布はもちろん、カード、免許証も入っている。最後の行事を執り行った洞穴の入り口に置いたまま忘れてしまったことに気付いた。
時計を見る余裕はなかった。
私は宴会に参加したままの格好でベットに横になっていたが、飛び起きると軍服の上着を羽織り、部屋を飛び出した。
頭はすっきりしていた。思いのほか飲んでいなかったようである。昼間の疲れが酔いをひどくしたのであろう。
ホテルから洞穴まで歩いて数分の一本道であったはずである。後に後悔することになったが、昼間の行動はすべてタクシーで距離感が正確でなかった。
非常口から外に出て、洞穴に向かった。
カバンを忘れると言う自分の間抜けさを周囲に気付かれるのが恥ずかしく、嫌気を感じていた。人目を避けるために非常口を選んだのある。
あるいは酒のせいで感情の増幅が通常より激しかったせいかも知れない。
とにかく洞穴までの道を下った。
中央分離線のない狭い道路の両脇に外灯はない。
楠木がうっそうと茂っていて、月明かりさえも遮っている。
思いのほか距離もあった。
つづら折の狭い坂道であった。
下り坂だが、急いでいるせいで汗をかいた。
洞穴に着くとホテルの部屋から持ち出した非常用の懐中電灯で洞穴を覗き込んだ。
西郷が自刃した場所ではなかったが、さすがに夜の洞穴は気味が悪かった。
カバンは置いたはずの場所にあった。
安堵したのは無論である。
その帰り道である。
同じ道を引き返したのであるが、途中のカーブでタクシーに出くわした。
まぶしいヘットライトの奥の車内に、驚く運転手と後部座席の若い男女の顔を見た。
翌朝、会を早々に解散した。
それから一週間ほどしてからである。
あるご仁から電話があった。
嘘偽りなく南州ファンで幽霊でも良いから遭いたいと公言してはばからない人である。
彼は興奮して話した。
「先日、行った城山の洞穴付近で軍服姿の西郷の幽霊を見かけたと言う者が現れたと大騒ぎになっている。最初に目撃されたのは西郷が自決した九月二十四日でラジオが騒いでいる。そのうち新聞も取り上げるかも知れない」と。
「最初の目撃者は」と念のために聞いた。
「タクシー運転手と若い男女の連れ客の三名らしい」と教えてくれた。
つづら折りのカーブで出会ったタクシーの運転手と乗客にちがいない。
幽霊の正体は洞穴でカバンを回収し、帰り道を急ぐ自分にほかならかった。
電話のご仁は言った。
「来年は、ぜひ、その幽霊に遭うツアーを計画してもらいたい」と
自分にとっては苦い思い出であり、それ以降、その会との接触は途絶した。
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