第38話赤い金魚

 七歳の一人娘が姿を消したのは夏休みが始まった当日であった。

 当然、猛暑の晴れた日である。

 近所住民と警察にも協力を依頼し捜したが行方不明のままだった。

 お盆が開けるころには警察でも一般の行方不明者として扱うことなった。

 仕事のある僕はいつまでも探し続けることはできないが、妻は真夏の暑い日ざしの中、日焼けし、思い当たる場所を探し続けた。

 夏休みも終わり近い頃である。

 妻から「娘が見付かった、帰ってこい」と泣き叫ぶ電話があった。

 まさかと思いながら、取り合えず職場から家に戻った。

 妻は涙をぬぐいながら、市民農園まで手を引き僕を連れて行った。

 胸の動悸は激しくなった。

 彼女は物干し竿を手にしていた。

 妻は市民農園に一坪ほどの土地を借りて農作業を楽しんでいた。

 大きなため池があり、水面をホテイアオイがおおいつくし、青紫の美しい花を咲かせている。僕はその花は嫌いである。花が咲かせている間は奇麗だが、腐敗した死骸は悪臭をはなつからである。

 妻は岸辺に近い一角を指差した。そこの部分のホテイアオイの花だけが、周囲の花に比べて際立って大きく美しい。物干し竿を僕に寄越した。僕はすぐに理解し、竿でホテイアオイの葉をかき分け水中を覗こうとした。しかし水中の幹は互いに絡み合い、厚く重い葉は動かず水面を見ることすらできない。

 池に飛び込み、汗だくになりホテイアオイの葉を両手でかき分け、葉を動かそうとしたが水面を覆うホテイアオイの葉の間に隙間はできない。

 それでもかき分け続けると厚い葉の隙間に水面が見えた。

 濁った水中に赤い洋服らしい物も見えた。

 手を差し込む柔らかい固体に触れた。

 必死に妻に助けを求め叫ぶが、妻はその場にしゃがみ込み、両耳を両手で押さえ泣き伏せていた。

 市民農園に掛け上がり、キュウリのツタが絡む緑色の網を乱暴に引きはがし、根に絡まる柔らかい物体をホテイアオイごと用心深く包み込んだ。

 そしてホテイアオイごと、根が絡みついた赤い物体をため池の岸辺に引き寄せた。

 根が絡んだ柔らかい物体は腐乱し、ミイラ化した娘の亡骸であった。


 娘の亡骸の発見後、警察の事情聴取や死体の検分も終わり、質素に葬儀も執り行った。

 呆然自失の日が続いた。

 永遠に続くように思えた。

 僕は仕事に夢中になろうとしたが、妻はそうはいかないようであった。一日中、娘の部屋で過ごしているようであった。心配になり、病院に連れて行ったが、回復の兆しは、まるで見えない。

 両親は既に死去し、兄弟もなく、妻には頼りにする肉親はなかった、

 それでも洗濯など必要最小限の家事はこなしていた。私が職場から戻ると、かろうじて重い腰を上げて夕食の準備を始めた。

 妻の容態は悪くなる一方だった。

 前は娘の部屋の中央に座っていた妻が、壁際の床の上に置かれた大きな水槽に向き合い、座るようになっていた。

 その水槽の中には娘が大事にしていた大きな赤い金魚が一匹、泳いでいた。

 週末には、更におかしくなった。ソファに座って新聞を眺めていたのだが、娘の部屋から話声が聞こえくる。薄気味悪くなり、襖を開けて中をのぞき込むと、妻は水槽の中の赤い金魚に話しかけているのである。

「あの子は上手に泳ぐことができたのに、なぜ溺れ死んだのかしら。あの子があなたのように水の中で息をすることができたら絶対に死ななかったのに。でも、なぜ娘はため池に一人で行ったのかしら。それに何をしに。そういえば、昨年の夏、畑でホテイアオイの花が奇麗だから、あなたの水槽に入れてあげたいと言っていたわね。でもパパに叱られるダメだと止めたことがあったわ」

 前後につながりのないことを、金魚に向かってつぶやいている。

 「何をしている」と声をかけると視線を上げたが、うつろな目で焦点が定まっていなかった。

 そして妻は金魚と話していると平然と答えた。

 三十歳を越えたばかりであるが、娘が行方不明になる前の美しい容貌の欠片もない。

 全身醜く太り、顔は赤く日焼けし、髪には白髪が交じっている。皮膚には皺が走り日焼けの跡の手入れの悪さから黒いシミが浮き出ている。

 無気味な老女にしか見えない。

 病院に連れて行ったが、効果はなかった。


 娘の葬儀を終えて三ヶ月が過ぎた。妻は一日中、水槽の前に座り、金魚に語りかけていた。前は水槽の金魚に思い出話をしているだけだったが、金魚が妻に話すようになったと言うのである。

 家事にも一切、手をつけなかった。

 大変だと言うことで会社の若い女性従業員が家に立ち寄り、料理や洗濯、掃除など家事を手伝ってくれるようになった。

 二人が親しく家事をする様子を妻は「金魚になった娘がいるからさびしくない」と言い、無視した。

 ところがその日は違った。

 僕と会社の女性の同僚が玄関に入るなり、妻はいきなり僕の襟首を両手で掴み、激しく問い詰めた。

「あの子はため池にあなたと一緒に行ったと言っている。あなたが大きな水槽に金魚が一匹いて、水草がないのでは可愛そうだからホテイアオイと取り行こう誘ったと言っている。物干し竿で水の中を突くのを水中から見るのも二度目だって言っている」

 あの日のことを妻が知るはずはない。

 背筋が寒くなったが、「馬鹿なこと言うな」と、大声で妻を叱りつけた。

 だが、妻は引き下らず、執拗に食い下がってきた。

 翌朝、妻は水槽の水の中に顔を埋めて死んでいた。

 水槽の中の女の顔は目玉は飛び出し、顔色は漂白したように白くなっていた。

 それでも赤かった。

 水面を漂う黒い髪は背びれのように見え、目玉が飛び出した妻の顔は大きな出目金に見えた。

 水槽の中の赤い金魚は妻の顔の周囲を泳ぎながら、愛撫するように赤い顔を突いた。

 妻の赤い顔と、娘が大切にしていた金魚は親子金魚のようであった。


 事情を聞く刑事はため息をついた。

 刑事の顔をボンヤリと見ていた。

「天国の娘さんが寂しがっているから奥さんは後を追ったなどと。デタラメを言うにもほどがある。あなたは数年前から会社の若い女性と親しい関係になっていた。最近では露骨に家に引き入れていた」

 素人が見ても激しい争いがあったは一目瞭然であった。

 奥さんが最近、おかしくなったと言うことは近所でも評判になっていた。その点は薬物が投与された形跡はないかも検査中だと刑事は言った。

「娘もあなたがため池に突き落として殺したはずだ」と、若い刑事の追及を黙って聞いていた年老いた刑事が低い声で迫ってきた。

 説明しても無駄である。

 彼らは耳を貸そうとしない。

 だから黙っていた。

「会社の女性は、あなたと一緒に奥さんを殺したことを認めている。彼女はあなたは異常で、二度と会いたくないと言っている」

 私は、二人の言葉をすべて無視し取調室の角の小さな机の上に置かれた水槽を見た。小さな赤い金魚がホテイアオイの茶色の根の間で休んでいた。

 ため池でホテイアオイの根に抱かれて眠っていた娘と一緒である。

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