第36話甚三郎と荒木
ガラスケースの中に展示された旧軍人の黒い礼装と向き合い、死者の霊との交信を求めたことがあった。
大きな軍服であった。
軍服の持ち主は大柄な人だったに違いない。
甚三郎は明治9年に佐賀の千代田町と言う貧しい農家に生まれた。草鞋もはかずに学校に通ったと言う。
荒木貞夫は東京で生まれた明治十年に東京で生まれた。
二人とも明治三十七年から三十八年の日露戦争で初陣を飾った。
陸軍大将と言う戦前の世界では、最高の地位に登り詰めた。
しかし昭和十一年の226事件の黒幕として二人は責任を追及され、甚三郎は軍を追われ、事件の被告として法廷に立つのである。
甚三郎は二二六事件の一年後、裁判が終わった後、数年後に故郷の佐賀に隠れ住むことになる。
そして失意のうちに人生の幕を閉じるのである。
荒木は東京裁判でA級戦犯として昭和三十年まで服役するが、出所し、昭和四十一年八十九歳で心臓発作で死去する。
甚三郎は荒木に先立つこと十年前の昭和三十一年に七十歳でこの世を去るが、葬儀委員長は荒木貞夫が務めた。
佐賀の近いこともあり、私は墓に入ることになったが、甚三郎の霊との交信を図ることにした。
彼が眠る寺も訪れた。古い立派な墓石のあまりにしばらく立ち尽くしていたが、あまり明るい南国の日差しで霊の気配を感じることさえできなかった。
気を取り直し、史料館に戻ってきたのである。
史料館には荒木貞夫が巣鴨を出所後、全国行脚を重ねる途中で立ち寄った際に、寄贈したのであろう。葉書など数点の遺物も展示してある。
しかし、雑音が多く彼らの声は聞こえぬのである。
戦死者の声であったり、スクリューを空中で回転させながらへさきから海中に沈む軍艦や、きりきり舞で海面に突入しようとする戦闘機の鉄の声であったりする。
もちろん人の声も聞こえる。
戦死した兵士の声、ジャングルの中で生きながらウジ虫に食われる兵士の声。
二二六事件の主犯として処刑された青年将校や、反乱軍に関わり、処刑された者たちの声も大きい。
だが甚三郎と荒木の声は、中々、聞こえない。
あきらめかけていた。
ところが、心の中で自分の履歴書を思い起した時に、「そうか」と言う反応が返って来たのである。
彼は私の出身地を聞き、感無量気に姿を現したのである。
「昔、若い頃、宮崎の連隊長を拝命したことがある」と打ち明けた。
彼は大正八年に宮崎の歩兵第二十三連隊長として赴任している。
「その頃、君の故郷から来た若者と多く接した」と打ち明けた。
写真の彼は遠い昔を懐かしげに振り返った後に、表情を曇らせた。
「戦前の軍隊では、島出身者に対する差別は生半可ではなかったのでしょう」と私は助け船を出した。
そのようなことをはるかに昔に聞いたことがあるような気がする。
島の青年は鹿児島の四十五連隊に入営さえできない時期があったと。
ただ、今になって事実だったかどうか確認することすら難しい。
「鹿児島の連隊には入営させることができず、宮崎の連隊で預かることも多かったらしい」と彼は経緯を説明した。
「自分が日本と言う国の分裂に危機感を感じたのは、この時からだった」
荒木はこの都城の連隊長時代から陸軍を皇軍と称し始めていた。
「集団の周辺に存在する者は、不自由な思いをする」
その時も彼は感慨深げであった。そして視線を正面の軍服に向けた。
「あいつも集団の周辺に位置していた。集団の周辺に属する者は過酷な立場に追い込まれる宿命を背負っている」
「薩摩、長州、土佐、肥前と言う藩閥ですか」と心の中でつぶやいた。
写真の男はうなづいた。
「あいつは藩閥集団の周辺にいた。長州の寺内大将は甚三郎が田中義一大将の秘密資金問題を探索しろ過去に要求したことで怨みに思っていた。彼を二二六事件の黒幕に仕立て上げ抹殺しようと企んだ。一方、薩摩、長州、土佐、肥前の藩閥に敵意を抱く東條たち統制派は甚三郎が肥前出身であると、甚三郎を目の敵にした」
田中も寺内も長州閥の大物である。
田中とは後の首相である。彼は政友会総裁から首相になったのであるが、政友会に加入し総裁になるために莫大な資金を準備した。
その資金が軍の機密費から出たものではないかと疑惑を受け続けているのである。
それを甚三郎は追求すべきだと要求したのである。それで長州閥から根深い怨みを買った。明治七年に山縣有朋など長州閥の不正を追及し、追い詰められて乱を起こすことになった江藤新平の生き様をと同じである。
軍法会議の裁判長を務める寺内は甚三郎が大将拝辞をするように家族に伝えてきたが、家族は頑として断った。司法取引であろうか。罪をみずから認めることになりかねない危険な行為である。
寺内は彼は甚三郎銃殺の意図をもって裁判を進めていたが、支那事変が起って最高司令官として北支へ転任となった。後任者の磯村大将に「何でもかまわぬから、真崎は有罪にしろ」といった。
嫌がらせをとおり過ぎた露骨な依怙贔屓、ライバルの蹴落とし工作と言うのが陸軍であったのである。
自分の体験でも、十分、起こり得ることである。
寺内大将は首相に就任し、シベリア出兵を断行した寺内正毅の息子である。敗戦直前には南方軍司令としてインパール作戦やレイテ決戦の総指揮をとった人物であるが、終戦の翌年、シンガポールの収容先の病院で病没している。父子とも長州軍閥の実力者であった。
寺内の後を継ぎ、真崎を裁くことになった磯村大将は戦後、「随分綿密に調査したが、真崎には一点の疑う余地がなかった」と証言している。以前、NHKでアナウンサをされていた磯村尚徳と言う方は、その大将のお孫さんに当たる。
荒木は判決文について、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。そして、とってつけたように主文は無罪。あんなおかしな判決文はない」と批判している。
荒木の言う、甚三郎の罪状は。
反乱軍に加担した者が甚三郎宅に訊ねたこと。将官の家に青年将校が訪れたり、多くの軍関係者が訪れることは珍しいことではなかったようである。
甚三郎が陸軍士官学校に勤務していた頃の卒業生が多かったこと。実際に卒業生に影響を与えたのかどうかは不明である。
事件直後、すぐに駆けつけたこと。事件を事前に承知していたのではないかと疑われたのである。
多くの軍人は変事が起きることを恐れ、情報交換をしあっていた。それが何時、どのような形で起きるのか具体的に把握するためにも、様々な人物との交誼も必要であった。
当時の混沌とした軍隊の中で甚三郎の行動には目立って特別なことではなかった。
彼が事件の黒幕と断定的に責められた一番の理由は、反乱軍の本部に駆けつけた彼が『君たちの気持ちはよく分かる』と事件の首謀者に言ったことである。
これは彼が反乱軍の行動を支持していたと解釈された。だが、その前に車から降りて最初に出会った反乱軍の将校を甚三郎が、「君たちはなんてことをしてくれた」と一喝したことは多く語られていない。もし彼が反乱軍の本部で同じ一喝を繰り返していたら、甚三郎の命はなかったろう。無駄に終わったが、その後の反乱を鎮める行動もできなかったろう。
結局、一か月に及ぶ拘禁と事情聴取の後、甚三郎は釈放された。
昭和初期になって軍隊の中の抗争が激しくなる一方であった。
二人は皇道派と結成し、陸軍の引き締めにかかった。日本と言う国も軍隊も大衆の心には磐石でもなく、崩壊の危機を孕んだもろいものであることを二人は知っていたのである。
軍隊の世代間闘争に発展し、近代化を巡る抗争として火を噴くのである。
第一次世界大戦を目の当たりにした統制派の若手将校は対ソ戦を目標とし、国家予算を大幅に注ぎ込み軍の近代化を急ぐべきと主張した。
それに対し日露戦争の生き残りである二人は昭和恐慌以来の疲弊した地方の青年を救うためにも新式の銃でなくても旧式の銃を持たせ、彼らを訓練し、尊王思想で軍をまとめることが先だと主張した。
統制派は日ロ戦争以来、常に報復を恐れたソ連との戦争に備えるのが先だと主張したのに対し、皇道派は中国や満州に保有する日本の権益を守ることを優先すべきだと考えた。
権益を守るとは決して不潔な行為ではない。
今でも多くの日本企業が国外に進出し活躍しているが、彼らの財産を守ることに等しい行為だった。
ただ今は昔と違い、軍隊が守るのではなく、外務省が中心になり外交で権益を守っているのである。
当時の中国では多くの日本企業や日本人が活躍していた。
彼らの生命財産、生活基盤や営業基盤を日本政府は守る必要があった。
ところが中国は一九一一年に孫文ら国民党が起こした辛亥革命以来、十五年を経た昭和初期に至っても各地に拠点を持つ軍閥が国を割拠して、群雄割拠、戦国時代の様相を呈していた。
大正末期には蒋介石が率いる国民軍が北京まで進出し、中国の統一を成し遂げたようにも見えたが、国内の共産党軍や、各地の軍閥は北京に登り、政権を奪還する隙を伺っていた。
満州の張作霖もその一人である。
満州は万里の長城から北方の地域で、満州族の清王朝にとって父祖の地であり特別な聖地であった。
清王朝の勢力が強い時期には漢民族の進入を許さなかった。
だが一九百年代に入り、清国が衰退を始めると、漢民族が万里の長城を超え、あるいは黄海を渡り、移住し、小さな集落を構築していくのである。
張作霖は日ロ戦争以降、満州のまとめ国家を造ろうとした。
辛うじて税金を集め、政府と軍隊を創り、国家らしきものを形成した。
だが彼の野望はそこにはなかった。
彼の野望は北京に進出し、中国統一を成し遂げることであった。
それを実現するために、彼は北京に軍を進め、しばらく北京に滞在したが、欧米の支援を受けた蒋介石の北伐軍の前に中国北部の本拠地奉天に戻る途中で途中で日本軍の河本大作大佐の手で爆殺されるのである。
昭和3年に起きた張作霖爆殺事件である。
その頃から日本国内の様子は、中国や満州の混乱と、国内の不況が重なり騒然としてくる。
昭和五年には東京駅で佐郷屋留雄と言う民間人右翼に浜口首相が狙撃される事件が起きた。
昭和六年三月には桜会と言う軍人グループが中心となし、政党政治廃し、軍事国家の設立を目指すクーデターを起こそうとしたが、未遂に終わった。三月事件である。
昭和六年九月には石原莞爾らが謀略で柳条湖事件を起こし、満州事変が勃発した。
昭和六年十月には、ふたたび三月のクーデターに失敗した桜会がクーデターを起こそうとするするが、未遂に終わった。桜会は解散を強いられたが、その後、メンバーの多くが、皇道派と対立する統制派のメンバーになるのである。
昭和七年の二月には 井上日召と言う民間人右翼団体血盟団が井上準之助暗殺、三月には先年の満州事変を受け、清国の最後の皇帝溥儀を満州に迎え満州国が日本の手で建国されるのである。三月には血盟団が団琢磨暗殺。一連の暗殺事件のハイライトは五・一五事件である。海軍将校の手で犬養首相が暗殺されたのである。
その後、軍部は満州建国後の満州国の治安維持に翻弄されることになる。
満州を守るために次第に次第に周辺部を拡大するために作戦を実行し、また張作霖の息子の張学良の軍隊と戦わねばならなくなるのである。
日本国内の軍部を中心とする騒乱は収まったように見えたが、甚三郎の教育総監罷免と、それに続く統制派の中心人物永田鉄山の惨殺事件がきっかけになり、昭和十一年二月二十六日に二二六事件が勃発したのである。
その事変の影響は、ふたたび中国に飛び火するのである。
一九〇〇年の義和団事件で日本を始めとする西欧列国は公使館地域を清国軍に包囲されると封じ込められると言う目に会い、事件解決後に締結された北京議定書で公使館を保護する目的で兵を天津に駐屯させていたが、北京の南十数キローにある盧溝橋と言う橋の近くで演習中の日本軍が発砲される事件があったのである。現在では中国国民党と日本軍を戦わせ相互に損耗させようと言う共産軍の陰謀説もある。
その事件を切っ掛けに、日中戦争が勃発したと言うのである。
その時の司令官が二二六事件で中央を追われた牟田口連也大佐である。
彼は泥沼化した日中戦争の火付け役、そして太平洋戦争末期のインパール作戦の責任者として戦後も長くパッシングを受け続けるのである。
もちろん日中戦争が泥沼化した後も、何度も和平機会があったが、すべて失敗したのである。
彼も甚三郎と同じ佐賀出身である。五一五事件の主犯の多くにも佐賀出身者が関わっていた。
荒木は私の思いを理解したように同じ言葉を繰り返した。
「罪や悲劇を押し付けられるのが、地域や集団の周辺部に存在する者が背負わねばならない宿命かも知れない」
甚三郎に深い関心を抱くようになったのは、それが理由である。
甚三郎は、罪を逃れた。
だが彼は軍を追われた。
東京裁判でも被告として召集されたが、弁護士を頼らずに、自分の言葉で法廷で説明した。
彼はかって争った統制派を批判した。それを潔くないと言う者もいる。生涯、無念な思いを晴れなかったようである。
青年将校が兵を率いて国の重鎮を殺したことがその後の政治家もマスコミも国民もの自由な言論を封じ込められ、軍部の発言力を強め、軍国主義、戦争への道へと進めた事件であるた。
彼らの言葉を聞こうとしても雑音が多すぎて聞き取れない。
反乱を起こした青年の声が大きい。
彼らは自らの貧しさや周囲の不幸に苦しみもがいている。そして自らも救いを求めている。貧しさゆえに身を売る農家の婦女子。兄弟は兵に取られる。やがて戦地に派遣され、帰って来れない。
若者特有の煽情的な動機が色濃い。
さらに彼らは不幸の元凶は天皇を囲み、堕落させた君側の奸であると確信する。
国内の疲弊の一大元凶は彼らが属する軍の謀略や戦争拡大路線があったことに気付かないのである。帝国主義を標榜し積極的に世界進出を図ってきたイギリスなどは一八五〇年台から、帝国主義の経済的に利益をもたらさないことに気付き、膨張政策を止めた。東アジアでは代理戦争を日本に押し付けるようになった。日ロ戦争で日本に勝利させロシアの東アジアへの進出を防ぎ得た。
一方、日本は多額の軍事費を注ぎ込み、満州への拡大路線を推し進めた。
青年たちは天皇を中心とする国の立て直しを主張する皇道派の荒木大将や真崎大将は反乱に味方をしてくれるものと信じ切っていた。ところが違っていた。
自分たちが心から奉仕し仕える天皇陛下さえも彼らを反乱軍として責めた。
青年たちは怨みを抱きながら銃殺に処せられた。
同情をする者も多い。だが彼らの罪は大きい。彼らの決起は軍隊の凶暴さを政治家や国民の脳裏に強烈に焼き付けた。
皮肉なことに彼らの反乱を利用し暴走した、陸軍も破滅を迎えたのである。
甚三郎も荒木も処刑された青年たちも生きてはいない。
二人に対する歴史上の評価が定まったかどうかも不明である。
彼らの霊は多くを語らなかった。
私は彼らと同じ世界で生きているとような錯覚を覚えていた。
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