第35話城の道にて

 幽霊探しの旅は歴史探訪のために貴重な研究行為である。

 多くの英雄や偉人が歴史に名を残したのは、幸運な人生を歩んだせいではない。むしろ逆で理不尽で不幸な人生を強いられ、最後は悲劇の死を迎えた人が多い。

 だから私は歴史を研究する際には、幽霊の声に耳を傾けるように主張するのである。

 今は諸般の事情で中断しているが、一時期、私は佐賀城周辺での幽霊探しに熱中したことがある。

 その時、思いもかけず予想外の人物の幽霊に出会った時のことを書こうと思う。

 人物名を明かすべきかどうか迷ったが、今回は思い止めた。

 戦前のことである。

 二・二六事件の責任追求の嵐が吹き荒れる軍中枢部から中国の盧溝橋の連隊長として一人のエリート軍人が派遣された。

 彼の不遇は、そこから始まる。

 正体不明者が発した一発の銃弾の挑発に乗り、蒋介石軍を攻撃した。そのことで日中戦争の火蓋を切った大罪人と言う汚名を後世まで受けることになる。

 実は、その後、幾度も和平条約の締結が試みられたが、すべて同意に至らず、失敗をし昭和二十年まで日本と蒋介石軍は泥沼化した戦を続けるのである。

 しかも一発の銃弾を発砲した正体不明者は日本と蒋介石軍を戦わせ、双方の戦力削減を狙った共産党員の仕業だった言う説もある。

 次に彼は太平洋戦争末期に、昭和十九年にインドと中国の補給路を分断し、インドの独立を支援し連合国軍の兵力を割こうとするインパール作戦の指揮官として歴史上に登場し、汚名を残す。

 彼はチャンドラボスが率いる数万のインド兵と、九州北部地方出身者で編成された軍を率い、ビルマからジャングルに入りインドのインパール地方を目指したのである。

 結局、連合軍の空からの攻撃や豊富な物量の前に作戦は失敗し、多くの兵員がジャングルで餓死した。生き残った兵士は、その白骨化した屍をたどり退却をした。


 堀沿いの小道にはクスノキの大木が茂っている。

 満月で月光がこうこうと堀を照らしているが、小道はクスノキの厚い葉に覆われ、漆黒のジャングルを小道を歩いているような気分になった。

 城跡の中にある高校の西側の大きなクスノキの木の根元付近まで来た時である。

 昼間はテニスに興ずる学生たちの声で賑やか場所である。道は一本のクスノキの大木を中心に二股に分かれている。

 頭上でクスノキに棲むフクロウが啼いた。

 ふと足を止め、クスノキの大木の根元を注視した。

 根元に人影がいることに気付いた。

 旧軍の軍服を着ている。

 多少なりとも知識のある。

 だが気付いた瞬間には、思わず後ろに飛び退いてしまった。

 心臓は激しく鼓動し、汗が背中を伝わり落ちた。

 冷静さを取り戻すのに時間が必要だった。

 目を凝らし、正体を探ろうと観察した。

 幽霊と言う言葉を幽鬼と言う言葉が相応しい。その存在が発する気が怨みなどとは別なものであった。

 陰湿さはなく、乾いて強いのである。

 ユラユラと幻のように揺れているが、まるで生きているようである。顔は見えない。ぼんやりと全身の影が見えるだけである。

 それでも痩せていて、高齢であることは直感できた。

 姿を現すのは、託したいことがあるからであろう。

 幽鬼の言葉を待った。

「夜の鳥たちは伝えて言う。深夜、この森を徘徊するものあり。目的は死者の声を聞かんがためである。お主がその人か」

 と彼は静かにゆっくりと質問した。

「そうです」と緊張して上ずる声で答えた。

「何の理由があり、迷い出た。伝えたいことがあってのことか」と質問するが答えはなかった。

 質問を変えた。

「お名前とご事情を聞いてもよろしいか」と質問した。

 幽鬼は表情をかすかに緩めたように見えた。

「・・・・・と言うものなり」

 彼が告白した名前は伏せておく。

 名前を知り心臓は早鐘のように打った。

「ここは我が青春の地なり。我が母校なり。若い頃の思いにふけんがために、ひそかに訪れるが、未だ恩師や古き友人に遭わせる顔もなく、一人、さ迷い続けるなり」と悲嘆した。

「我が汚名は郷土を汚し、多くの人々を去らしめた」

 慰める言葉もなく、次の言葉を待った。

 彼の発言を戦後、世間や軍人仲間は自己弁護だと笑った。

 自分自身の葬儀に際して弁明する資料を参加者たちに配布し、妄執だとひんしゅくをかった。

「耳を傾けよ」

「わが国は有色人種として唯一、独立を保ち、近代科学を得て西欧列国と肩を並び得た国家である。アフリカの黒人は奴隷となり、アジアの友邦は独立と富を奪われ貧困に苦しむ。わが故郷は早くからその危機に気付き、備えてきた土地がら。故郷の先人もインドの独立運動に心を痛め、支援を惜しまず」

 彼の生前の弁明内容を知る機会はないが、耳にする言葉は、自己弁護の言葉には聞こえない。

「暗愚の将」と言う自らの汚名を晴らすために彼は自己弁明を続けたと思っていたのである。

 彼は私の心中を知ってか知らず語り続けた。

「昭和十七年から大東亜共栄圏を巡る戦局は厳しさをますばかり。共栄圏は日々、鬼畜米軍の蚕食を受ける。汪兆銘が率いる友邦の南京シナ政府は力を待たず。戦局打開の最後の機会はインドの独立と、ヒマラヤを横断し重慶にいたる援蒋ルートの寸断あるのみ」

 彼の声は悲痛を極めた。

「しかし時、すでに遅く。海軍はミットウェイで空母を失い。我はジャングルの茂みに隠れ、前進するのみ」

「乞い希う。わが国は民族解放、植民地解放、大東亜共栄圏を造る大義をふりかざし、戦に臨んだはず。それを明らかにし、我が存在に縁がある故に霊障に苦しむ者を救い、誇りや勇気を忘却した人々を救いたまえ」

 すでに周囲は白みかけている。

 残された時が少ないことに彼は気付いたのである。

 城の堀の中でポカンポカンと空虚な物を叩くような音がした。

 目を転ずると、蓮の花が一輪一輪と咲いていく。

 彼は絶叫した。

「今日は満月が天の頂上にいたり、ハスの花が咲くまでのわずかな間、亡者が蘇ることのできる珍しき日。ジャングルに白骨体をさらした兵士たちの死霊がこの世に蘇生し人肉や喰らうことを防がんため。遺族たちの生霊がこの世をばっこし、社会を混乱させることを防がんがため。死霊が蘇らぬための地獄の釜の蓋として、生霊たちのばっこを封じ込めるための結界として、我が名を使うことは容認しよう。だが世界の不幸な現実から耳目を遠ざけんがために我が名を汚すことは許しがたい」 

 遠くで鶏の啼く声が聞こえた。

 昼の鳥の時間である。

 小道もクスノキの根元から白みかけている。

 幽鬼は足元から、木の幹に吸い込まれるように消滅していった。

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