第13話死の家の記憶

二階建の建物で、外界に接する部屋のどの窓にも鉄格子が施されていた。鉄格子に白い塗装が塗られていたが、錆が浮いていて病院を気味悪い存在にしていた。

 その病院の部屋を初めて僕が訪問したのは、五十歳になった時である。薄暗い蛍光灯の下に鉄製のベットがふたつ並べられていた。床の緑色のビニールタイルは四隅の角の部分が一部がはがれていて、白いコンクリートがむき出しになっていた。

 夜の八時を過ぎていた。病院の裏口から入ると、すぐにナース室があって、中年のジャージを着た女性が一人待機していた。疲れた着た表情でネズミ色の事務机に座ったまま、僕たちを迎えた。彼女の疲れ切った姿を見た時、私は父が母に死者のゆかんまでさせられるので、病院に戻りたくないと嘆いている言葉を思い出した。彼の言葉が事実だったのではと思った。この時は、ゆかんと言う言葉さえ知らなかったが、ゆかんとは死亡した者を入浴させ、洗浄することである。

 父は三十五年近く入院生活を送っていた。

高校生のころから父を避けていた。十年に一度、会うかどうかであった。父は禁治産者であった。自分が十歳のころには糖尿病を患い、やがてアルコール中毒になり、高校に入る頃には一般社会では生きていけなくなっていた。そのような父を責めたのである。

 そのことで情けない思いをし続けた。父の存在を忘れて、世間には隠し続けようとした。十年に一度会うかどうかであった。父との縁は切れていると思いたかったが、母の必死の嘆願で病室を息子を連れて病室を訪ねたのである。

 だがナース室で待機する疲れ切った女性の姿を見た時、健康な頃の父は家族を捨てて、この病院に引きこもり、怠けていた訳ではないのでないかと心のつっかえが、少し取れたのである。


 入口に近いベットに臨終を迎えた父は横たわっていた。十年ぶりに会う姿であった。奥のベットに横たわる患者も臨終を迎えているように見えたが、父ほど苦しそうでなく、静かに寝息を立て眠っているようにさえ見えた。

 

 部屋に入った瞬間に別世界に紛れ込んだような肌寒さを感じた。

 父は肺がんを患っていた。そのせいで呼吸は荒く、マスクを通じて送られる酸素で辛うじて生きていたのである。

 母の呼びかけでやせて骨だけの手を伸ばしてきた。握る力もなかった。まだ意識があることに驚いた。それほど衰弱していた。

 僕の腕の中にいる四歳になったばかりの息子の手をとり、彼の腕に触らせようとした。ところが息子は強い力で手を引っ込め、嫌だと拒絶し泣いた。

 しかし手が父のミイラのような腕に触れた後だった。僕は自分の愚かな行為を後悔した。息子には父の呪いは伝染させてしまったような気がしたのである。呪いを伝えたり、広げたりしてはいけない。血族や家族間だけではなく、隣近所と言う狭い社会単位から国家と言う最大規模の社会単位まで相通ずる原則である。感傷的になり、そのタブを犯したのではないかと後悔した。

 姥捨て山、死の家と言う表現は良識あるものから怒りを買う言葉だろう。門をくぐった者が外に出る時は、棺桶に収められ火葬場に運び込まれるのである。無数と言えるほどの多くの死を見てきたに違いない。

 病院から盆正月に家に戻った父が患者の下の世話や死者の後始末まで強いられるから病院には戻りたくないと母にこぼすのを聞いたことがある。もちろん無報酬である。

 だが母も仕事のない父の面倒まで見るゆとりはないと鉄格子のはめられた病院に追い返した。そこが父の家である言わんばかりに。父の嘆願の言葉に耳を貸す者は誰もいなかった。

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