第2話シサツ(幸せホームにて)

 こんな不様に姿になってまで生き続けねばならないのか。あるいは生きることを強要されねばならないのか疑問に思うことがる。やせ細りミイラのように骨と皮だけになり、寝返りも打てず、食事も管を通して食道に送りこまれ、ただ老衰で死を待つだけである。床ずれを防ぐために寝返りを打たせるが、骨はもろくなり、少し違う場所に力を加えただけで骨折をさせる恐れさえある。

「ここは人生の終末点です。元気になって家に帰ろうなどと甘い励ましは通じない。大事にして扱ってください」

 介護士長は言い続ける。介護士が介護に否定的になり、出来心で事件を起こさせないために警告しているように聞こえる。

 その男もいつも寝ていた。耳も目も用をなさず、感情もないように見えた。

「患者さんの耳は死ぬまで聞こえている。感情も死んではいません。だから言葉遣いや態度に十分に配慮をしてください」とも指導されているが実感ができなかった。

 ところがある事件が起きた。シサツ、シサツ、シサツと蚊の鳴く小さな叫び声が聞こえるのである。最初はその男が発声しているようには思えなかった。困惑し周囲を思い見回し、最後にその男に視線を移すと、かすかに唇が動いていた。耳を近付けると、「シサツ。シサツ。シサツ」と、確かに彼の口元から聞こえるのである。意味はつかめない。隣の病院の院長がホームを訪問して来る時には視察(シサツ)と言う言葉を使う。あるいは診察(しんさつ)の言葉の聞き間違いではないかと思った。不思議に思い首を傾げ、シサツと呟いた。丁度、その時である。廊下を通りかかった介護士長が私の腕を取り無理に廊下に引っ張り出した。廊下との病室の間には病室が見渡せるように低い間仕切りがあるだけである。

「戦争中に従軍しています。その時の恐ろしい記憶に苛まれているのです」

 彼女は私より若いはずである。視線がうつろな私の表情から私が理解していないと判断したのか説明を付け加えた。

「銃剣で捕虜を刺殺した時の光景を思い出しているのです」と。

「突き刺される捕虜の断末魔の悲鳴や血が噴水のように噴き出す光景です」

 男が発する「シサツ」と言う言葉は「刺殺」と言う命令語だったのである。苦悶で歪む男の表情は捕虜を刺殺する時の表情でもあったのである。突然、男は身体を掻きむしり始めた。慌てて医師に連絡をした。ベットごと男を処置室に運び込んだ。彼は蚊の鳴くような小さな声で叫び続けた。「シサツ、シサツ、シサツ」。

 恐ろしい形相だった。六十五年前に刺殺された捕虜が彼を呪い殺そうとしているように見えた。その夜、男はこの世を去った。深夜、病院内の巡回すると引き寄せられるように懐中電灯が庭の岩を照らす。スポットライトのような明かりの中に浮かぶ岩の皺に、苦悶に歪む男の顔を見た。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 彼は息を引取って幸せだったに違いない。

 私は彼のために四十五日間、念仏を唱え続けよう。

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