霊障

夏海惺(広瀬勝郎)

第1話幸せホームにて(女)

 幸せホームは町の中でも一位、二位を争う大きな介護施設である。大きさだけでない。ホーム内の設備も充実している。

 私はその施設で二ヶ月前から介護職員として働き始めた。まだ見習いである。夜の見回りも一人ではできない。十年ほど前に雇われた同僚と一緒にホーム内を巡回して具体的いた。懐中電灯を頼りに、薄暗い常夜灯だけの病院内を巡回する。その夜は無気味なことに気付いた。

 同僚がある場所に来ると口の中で言葉をつぶやいているのである。何をつぶやいているのかと私は思い切って尋ねみた。すると彼は「念仏を唱えているのです」と、声を潜めて答えたのである。

 彼は私より十歳ほど若く私をていねいに扱ってくれていた。

 念仏を唱えるなど不気味である。

「どうして」と理由を尋ねた。

 彼は懐中電灯で壁の一部を照らして言った。

「ホラ、あのシミを見て下さい」

 壁にシミらしきものが浮いて見えた。

「ホームで一週間前にお種婆さんが亡くなったのですが、その時に出来たシミです。亡くなる直前のお種婆さん顔に似ていませんか」

 不気味に思いながらも目を凝らした。

 たしかにそう見えない訳ではない。

「この施設では不思議なことが起きるのです。この世に未練を残したまま人が息を引き取ると、四十九日間、霊障が残るのです。このシミはお種婆さんの霊障です」と断言し、彼は念仏を上げた。

「あなたも気を付けて下さい。これまで私が見かけた霊障は迷い猫や、庭の木の切り口にも現れたりしました」

 私がこの施設に雇われた時には、お種婆さんと言う女はやせ細り、ミイラのように骨と皮だけになっていた。身体を抱き起こし床ずれを防ぐために枯れ枝のようになった手や骨を、折らないように細心の注意を払いマットを敷き代えたりする時も、女はまったく無反応であった。

「この世に未練があるので女は成仏できないのすか」と聞いた。

 彼はうなずき、説明した。

「女は一年前に、地区の民生委員の紹介で身寄りがないからと、この施設に入処してきました。すでに重度のアルツハイマー病で一人では生活できない状況でした。ところが身寄りのないはずの女は男の名前を口の中でつぶやくのです」

「つぶやいていた男の名前は」と聞いてみた。

「それは言えません」と答えることを彼はきっぱりと断った。

「どんな関係だったのでしょうか」

「それも正確なことは分かりません。女が死の間際まで思うことは自分が腹を痛めて生んだ子どもか恨みに思う男のどちらかでしょう。とにかく、私はこのシミが消える四十九日間、哀れな女のために念仏を唱え続けます」

 昼間は目を凝らしてもその壁のシミは発見できない。真夜中にはくっきりと浮き現れるのである。それも、それから四十数日が過ぎた頃、四十九日目であろう。一人で巡回を許されるようになっていたが、その壁を懐中電灯で照らしてみたがシミは消えていた。同僚の念仏が効能で成仏できたのだろう。

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