第3話潮騒
わずか時間の上陸許可を願い出て許された。
岸壁のコンクリートブロック沈下し段差が出来ている。港の周辺の人家もすでに廃屋と化し、人が住む気配はなかった。
島を捨て三十余年を経たが、島が無人の島になっていることに間違いなかった。
もちろん途中で人に出会うはずはなかった。
道端には人が住んでいた記憶の欠片さえ伺えない、柱だけを残す廃屋もあった。
港から強い日差しの下を草を払い道の痕跡を一時間ほど歩いた。
小さな寺もかろうじて残っていた。
柱は傾き、屋根の瓦には青い草がはびこっている。床板も所々欠け、床下の地面がのぞき見えた。
間仕切りもない粗末な一部屋で、広さは六畳ほどしかない。宗派など関係ない。普段は無人であるが、村人が亡くなると坊さまがやって来てお経を上げた。しかしあの時にはそのような余裕はなかった。島中が大混乱に陥っていたのである。
毎日の食べ物に事欠く貧しい村であった。
ところが子どもだけが多かった。もちろん背の高い子ども、低い子ども。太った子ども、痩せた子ども。うるさい子ども、静かな子ども、頭の良い子ども、良くない子ども、など様々である。だがどの子どもたちも同じ運命を辿るのである。中学校卒業と同時に金の卵だと囃したてられ、連絡船に押し込められて本土に出て行かざる得ないのである。
口減らしである。
送り出す親は子どもたちから送られるわずかな仕送りを楽しみにしていた。
本土から中学卒業生を求めてやって来る者たちは夫婦の耳元で甘言をつぶやいた。
子どもは宝、財産。だがこれも将来の奴隷を絶やさぬための甘言であったように思う。
金の卵と言う甘い言葉とは裏腹に本土に渡った子どもたちが幸せになったと言う話は聞いたことがない。中卒と言う学歴で他郷で過ごす彼らは辛く苦しい思いをしたに違いない。
困窮しながらも生活していた。
ところがこの微妙なバランスが破綻する時がきた。
その頃には本土から金の卵と称して中学卒業者を求めて島に渡って来る人々の足取りも途絶えてた。
日照りが続き、田んぼの水も涸れ、干ばつに強いサツマイモの根も枯れてしまったのである。翌年に残しておくべき種イモの類まで食い尽くした。既に平地という平地は田んぼや畑に開墾され、手つかずの山や森は僅かしか残っていなかったが、その山の木々の葉や、草の根まで食い尽くしてしまったのである。
イナゴが大繁殖し、すべてを食い尽したように山から緑が消え、茶褐色の山肌が見えると、恐ろしい出来事が村に起きた。
魚が獲れなくなった。犬や猫の小動物の鳴き声が聞こえなくなった。やがて鳥や虫の気配も消えた。
静まり返った島や村では潮騒の音だけが耳を打つようになった。
飢えは厳しくなった。少ない食べ物を互いに分け合う心はあったが、それも無くなり、村同士、家族同士で食べ物を奪い合う争いが島中で起きた。
最後に不思議な病がまん延したのである。
家族が一夜のうちに全員、死んでしまういう不幸な出来事が数日の間、連日のように続いた。
多くの村人が村を捨てた。
三十年も前のことである
当時は南の島の大きな悲劇が続いている言うことで全国的なニュースになった。
しばらくは自分の家族は無事であった。
ところがある日のことである。
家族そろって餓死を迎えるしかないと妻と話し、覚悟を決めた時であった。
配給品と印刷された袋が戸口に置かれていたのである。開けてみると食料が詰め込まれていた。
誰が置いた物か疑う余裕などなかった。
妻と子どもたちは、おいしい、おいしいと歓声を上げ食べた。ところが自分は胃が委縮し、おう吐し飲み込むこともすらできなかったのである。恐らく配給物を食えずに生き残ったのは私一人であろう。
翌朝、妻と三人の子どもは息を引き取っていた。
あの配給物には毒物が混入させられていたのではないかと疑い始めたのはずいぶん時間が経ってからである。配給した者は完全に家族が死に絶えることを確信していたにちがいない。多くの島人は同じ手口で毒殺されたに違いない。とにかく配給品の事実を知るのは私だけである。だがこれが真実であったとしても、今では犯人を無理解に恨む気にはなれない。いずれは島のすべての人が餓死する運命だった。せめて死の間際に美味しいものを食することができたことを喜ばねばなるまい。
島の人を減らすしかなかったのである。
このようなことを巨大石像で残る南米のモアイ島の人々がたどった悲劇の歴史を聞いた時に思い付いたのである。やがてこの種の話はモアイ島の話だけではなく、おば捨山伝説、赤子の間引き、植民地政策、産めよ増やせよと戦前の人口施策も同種の話でないかと思った。そう思うことで家族を失った悲しさ空しさが少し和らいだ。
寺の裏側には墓地があったはずである。
そして墓地のある丘の麓に潮騒を奏でる青い海と白い砂浜が広がっているはずである。
この潮騒の音色は村を離れた後も、ずうと私の耳の奥で耳鳴りのように聞こえ続けた
私は、その墓地の中に妻や子を葬り、海岸から拾い集めて来た石を並べ、そのまま島を去った。
草が茂る墓地の中を歩き、家族の墓を探した。草むらの中にやっと四個の石を見つけた。大きな石を中心に小さな小石を三つ並べただけの墓石である。
探し終えた時には汗まみれになっていた。 目まいを感じるほどのひどく疲れた。
単調な蝉の鳴き声と潮騒の音を眠気を誘った。
石段に腰かけるとウトウトと意識が遠ざかった。黒い猫が床下から泣きながら這い出て来て、私の顔を見上げたのは記憶に残っている。
女の声がした。女に駆け寄るかける子どもたちの歓声がした。三十年前に自分の妻だった女と、僕たちの子どもたちの声だった。
まどろみから覚めた時、足元を先の黒い猫が三匹の子猫を連れ出し、軒下から出て行くところだった。
正気に戻ると妻や子どもたちの顔も声も思い出せなくなっていた。
潮騒の音は三十年前と変わらなかった。
潮騒の音を聞くと家族のことを思い浮かべ胸が締め付けられる。
僧侶を招き、読経を願う余裕など余裕などなかった。潮騒の音を調べにして妻や子を冥土に送った。
浅い穴を掘り妻や子の亡骸を葬った後に、小石を置き、そして波打ち際に打ち上げらた丸太にしがみつき島を捨てた。
心の片隅に死を望んでいた。だが幸か不幸か沖を通る貨物船に救われたのである。
約束の時間が近い。無理を頼んだので上陸を許可してもらったのである。もう沖の船に帰らねば。
もう、この島を二度と訪れることはあるまい。だが潮騒の音が絶えぬかぎり、僕は妻や子どものことを忘れない。これまでも耳の奥で鳴り続ける潮騒の音が僕に家族がいたことを忘れさせなかった。ただ悲しいことに彼らの面影や声を、思い出せなくなりつつある。
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