第5話「接近のC」

 見慣れぬ機器が散乱する部屋の中。そこに一人の青年がいる。その手には注射器のようなものが握られており、中には異様な光沢を放つ青い液体が見える。


「………」


 青年は無言のまま、その注射器の針を自分の首筋に近づける。僅かにその手が震える。


「これでいいんだ…」


 その声と同時に、針を一気に刺す。そしてボタンを押すと、中の液体が一瞬で青年の体内へと流れ込む。


「があああああああああああ!!!」


 その瞬間、尋常ではない痛みが青年を襲う。青年は倒れ込み、狂ったように床を転げまわる。体を痙攣させ、言葉にならない喚き声を上げる。その口からはおう吐物が巻き散らかされる。


 しかし、そんな状態にも関わらず、青年は笑みを浮かべていた。目の焦点は合っておらず、暴れまわりながら、それでも口を歪めている。その姿は、完全に常軌を逸していた。




















「ッ!!」


 寺義はハッと目を覚ます。見えるのは自室の天井。上半身を起こして周囲を確認すると─


 薄暗い部屋に、カーテンの隙間から差し込む朝日。


 詰まれた漫画の山。


 起床時間前を示し、カチカチと時を刻むアナログ時計。


 そこにはいつもの光景があった。


「…またかよ」


 状況を理解した寺義は、どこか苛立った様子で呟いた。全身を確認すると、今日もうなされていたらしく、汗まみれであった。


「シャワーでも浴びるか…」


 額の汗を拭うと布団をよけて立ち上がる。向かう先は当然のように風呂場。服を脱ぎ、一気に蛇口を捻る。


 すると、寺義に向かって水が降り注ぐ。加熱されるまでの間、冷たい水を浴びることになるが、今日の寺義にとってはその冷たさがむしろ心地よく感じられた。


 その冷たさが、先ほどの悪夢や昨日の化け物のことを消し飛ばしてくれるように感じられたためだ。


「ふぅ」


 浴室から上がり、制服に着替えた寺義はいつものカウンター席へと向かう。


「おう寺義、今日も早いな」


「まぁね」


 今日も鍋を混ぜる厳嶄を見ながら、寺義は席に座る。一階のカフェは普段通りのどかである。窓から差し込む朝日が、レンガ造りの壁を優しく照らし出す。


 さらに窓の外には会社員だろうか、ちらほらと通行人も見える。そんな様子を、寺義は無言で眺める。


「大丈夫か?昨日帰ってきてからずっと顔色が悪いな」


 そう言うと、厳嶄は鍋の中身を小皿に取って味見する。そして短く頷いた後、再び寺義に声をかける。


「自転車でこけたの、まだ気にしてんのか?」


「他にも色々とあったんだよ…」


 通行人の観察にも飽きたのか、寺義はカウンターに力なく突っ伏す。


「どうした?女に振られたか?」


 そう言って、厳嶄は茶化すように笑った。対して、寺義はむくっと体を起こし、非難の視線を送る。


「違えよ!」


 そんな寺義に、厳嶄は軽快な笑みを返す。


「なんだ、元気じゃねえか」


 その表情は底抜けに明るく、ウジウジと悩む自分が馬鹿らしく思えるのだった。


「ったく…」


 毒気を抜かれた寺義は、どこか不満そうに再度突っ伏す。しかし、厳嶄から見えないその顔は、穏やかに笑っていた。しばらくそのまま時間が流れた後、寺義は席を立つ。


「今日はもう学校行くわ」


 そう言って襷の付いた鞄を背負う。そしてドアへ向かう寺義に、厳嶄が背後から声をかける。


「気を付けてな。またこけんなよ?」


「わかってるって。それじゃ行ってきます」


 そう告げた寺義は店を出て、クロスバイクに跨る。そのフレームには昨日の傷が確かに残っていたが、走行自体に問題はなかった。しかし、その傷を見た瞬間、寺義の顔色は曇る。


「真理さんのバイク、傷つけちゃったな…」


 確かに真理に対する申し訳なさもあったが、思い出される大半はあの化け物のことである。しかしだからこそ、寺義はあえて真理のことを口に出すのだった。


「…今日はルート変えるか」


 昨日の今日であの化け物と遭遇した場所は通りたくない、そう考える寺義は遠回りのルートで学校へ向かうことを決める。


「よし!」


 気持ちを切り替えてペダルを勢いよく踏み込む。向かうのは海辺沿いのルートである。



















「…ん?」


 自転車を漕ぐ寺義の耳に波の音が届いた。


「結構海岸近くまで来ちゃったかな」


 寺義は自転車を止める。耳を澄ますと、絶え間なく押し寄せる波の音が聞こえてくる。海辺までかなり近い、そう思った寺義は行先を変更し、再度自転車を漕ぎ始める。


「ここ…久々だな」


 到着したのは小さな浜辺。防波堤に自転車を立て掛け、砂浜に歩を進める。足元には柔らかい砂糖色の砂。足を進める度に、サクサクと砂を踏む音が響く。そして繰り返し聞こえてくる波の音。


 朝日が水面を照らし、その反射がキラキラと輝く。そんな早朝の海岸はとても静かで神秘的である。その光景に寺義は心が洗われるような気分になる。



街から少し離れたところにあるこの小さな砂浜。

俺の街は再開発計画で、ほとんどの海岸が人工的に整備されてしまった。

だけど、まだ開発されていない海岸も残っている。

この砂浜は俺が小さい時、ちょうどオッサンが俺を引き取ってくれて…

俺がこの街に来た最初の頃に見つけた秘密の場所だ。



「何年ぶりかな…」



最近は全く来てなかったからな。

あることすら忘れてた…

せっかくだし…ちょっと休もうかな。



 寺義はさらに歩を進める。その度に砂を踏む音が聞こえる。そうして数歩歩き、近くの流木に腰掛けた。


「………」


 肌を撫でる潮風。鼻に届く磯の香り。聞こえる波の音。見えるのは一面に広がる海。遠くからはカモメの鳴き声が聞こえてくる。


 地平線が緩やかな弧を描き、空と海の境界線を表している。何処までも続くように見える海─


 そんな広大な海を呆然と眺めていると、気持ちが落ち着くのを自覚するのだった。


 ただただ心地好い時間が流れる─


 そうして無心となって海を眺めている時だった─


「お?先客がいたか」


 寺義の人生を変える分岐点は、この時だったのかもしれない─

 

 背後から突然男の声が聞こえた。


「っ!?」


 寺義は慌てて振り返る。そこには、純白の服に身を包んだ屈強な男がいた。野性的な黒い瞳をこちらに向け、どこか緊張感のない表情をしている。


 その黒髪は後ろで一本に結わかれており、着ているコートのような白い服が印象的である。その服には幾何学的な紋様が黒い線で描かれている。


 寺義とは数メートルの距離はあるだろうか、それでも屈強な体つきを見てとれる。


 寺義がその男を見た瞬間に思ったのは、"異質"という感覚。服装が目立というだけではない。"何か、存在自体が異質だ"、寺義はそう感じた。


 周りの風景から、その男だけが切り離されているような印象を覚える。


「悪りぃ悪りぃ。驚かせちまったみたいだな」


 寺義が露骨に驚いた顔をしていたからだろうか、男は苦笑を見せる。


「あ…いや…別に…」


 寺義は上手く言葉を選べずに答える。


「そうか。んじゃせっかくだし、隣いいか?」


 そう言って男は返事も聞かずにズカズカと歩き出す。


「失礼するぜ」


 男は寺義の真横まで近づいて、流木の空いている場所に座った。男の体重によって、鈍い音と共に流木が傾く。


「………」


 寺義は隣に座る男をまじまじと見る。男は視線を海に向け、感情の読めない表情をしている。



よく見れば若い人だな…

20代前半か中ごろのような感じだ。

青年って言える年齢じゃないだろうか。



「俺の顔になんかついてんのか?」


「あ、すいません…」



ちょっと近くで見すぎたみたいだ。

人の顔をじろじろ見るべきじゃないよな…



「別に気にしてねぇよ」



何だろう?

この人は…普通の人とは何か違う気がする。

自分と何処か似ている感覚…

具体的にどこがどうってわけじゃないけど、漠然と何か近いモノを感じる。



 寺義は胸中にモヤモヤとした違和感を感じていた。その原因を突き止めるかのように、寺義は男に声をかける。


「あの…突然こんな事を聞くのは失礼だと思うんですけど…外国の方ですか?」


「んあ?まぁ、そんなトコだ。何でそんなこと聞く?」


 遠慮気味に尋ねる寺義に、男は怪訝な表情を向ける。


「え…その…どこかこの街の人と雰囲気が違った気がしたので…」


 恐る恐るといった具合に寺義がそう言うと、男は少し目付きを鋭くする。


「……」


 そして寺義にじっと視線を向ける。その表情は険しく、獰猛な獅子のようである。その瞳の奥には強い意志が感じ取れ、ただ見られているだけであるのに、寺義は背筋に冷たいものを感じた。


 そんな状況に居心地の悪さを感じた寺義はとっさに口を開く。


「あの!何か?」


 それを聞いて男は直ぐに視線を海に戻す。それと同時に、最初の気の抜けたような顔に戻る。その瞬間、緊張感が一気に霧散し、寺義はホッと一息つく。


「悪りぃ。深い意味はねぇ。気にすんな」


 男は視線を海に向けたまま答える。


「いえ…。こちらこそ変なこと聞いてすいませんでした」


 その様子から本当に気分を害したわけではなさそうなので、寺義は内心で安心した。そして寺義も自然と海へ視線を向ける。流木に腰掛けた二人組は、暫しただ無言で海を見つめた。


「良い場所だな」


 と、男が沈黙を破って短く声を発した。その言葉には、なぜだか重みが感じられた。寺義は頷いて見せる。


「秘密の場所だと思ってたんですけどね。他にも知ってる方はいたんですね」


「俺も聞いただけさ。この街に来るならここがとっておきの場所だってな」


 そう言いながら、男は遠くを見つめる。目の前の地平線よりも、さらに遠くの何処かを。























「観測班より緊急通信!シグナルを観測!」


 無数のモニターが広がる空間に、突如として警報が鳴り響く。その中央に、仁王立ちする女性の姿があった。険しい表情でモニターを見つめる。


「"ヤツら"かっ!?」


「はい!シグナルパターン、過去のデータと合致ぜず!新型です!」


「…また面倒なことになったわね」


 そう言いながら整った顔を歪ませ、親指の爪をかじる。


「お困りかしら?」


 と、そこへ背後から声がかかる。女性が慌てたように振り向くと、そこにはツインテールが似合う少女の姿が。


「っ!?……貴女ですか…勝手に指令室に入らないでください」


「いいじゃない別に一人増えようが。それより、私が行くわ。新装備のチェックしたいしね」


 少女の言葉に、女性は一瞬沈黙する。そして短い思考の末、再び口を開く。


「良いでしょう。貴女に任せます」


「オーケー。場所わかったら直ぐに向かえるよう転移装置の前で待ってるわ。座標転移の準備よろしく」


 と、満足そうな足取りで部屋を後にしようとする少女。その背中に声がかかる。


「待ちなさい」


「…何かしら?」


 少女は振り向かずにその場で足を止める。


「生きて返って来ると約束してください」


 対して、女性は殊更に真剣な顔で少女の後姿を見つめる。


「はいはい。私だってこんなトコで死にたくはないわ。約束するわよ」


 そう言うと、少女は再び歩みを進める。


「ありがとう…紫音さん」


「フンッ。せいぜい私の活躍、しっかり見てなさい」


 少女は、ニッと短く笑って見せた。














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