5-4

 「つづみ。わたし、つづみのことが好き。誰よりも好き。わたしだけのものにしたい。誰にも渡したくなんか、ないっ」


 チョコレートを突き出して、その言葉を言い切って。つづみが受け取った直後に全身から力が抜け、わたしはその場にへたり込んだ。

 つづみは地面に膝をつき、そんなわたしを強く抱きしめてくれる。


 「ありがとう。じゃあ、みずはの望みどおり、私もぜんぶ教えてあげる」


 耳元で囁かれる声は、さっきのように可愛らしく残酷なものではない。可愛らしい声ではあるけれど、優しいのだ。虐げる優しさではなく、いつくしむ優しさ。ともすれば、怯えているように感じられるほどにささやかな声。


 「私はね、みずは」


 わたしは、つづみの告白を覚悟して待った。わたしたちはこれで結ばれる。つづみがわたしに好きだと伝えてくれれば、それでいい。

 そんなわたしの歓喜と期待を、つづみは一言でなぎ倒していった。


 「あなたのことが、ずっと怖かったの」


 とっさに身体を離してつづみの表情を確かめようとしたけれど、強く抱きしめられて身じろぎもできない。


 「ねえ、わかる? 今もみずはが近くにいるだけで、こんなに怖くて震えてる」

 たしかに、この震えはわたしの震えじゃない。がたがたと小刻みに、追い詰められた動物のような震えがつづみから伝わってくる。

 「どうして? わたしはずっとつづみに憧れて……」

 「それが怖いの。どうして、私以外のものを切り捨てられるの? 他人も、自分も、なにもかも」


 おかしいよ、とつづみはまるでか弱い少女のように呟いた。

 ちがう。つづみはそんな声を出さない。出さない、はずなのに。


 「今だってそう。真冬のプールなんかに潜って、運が悪かったら死ぬよ?」


 つづみは嗚咽を漏らすように、身体と声を震わせながら言葉を続ける。こぼれていく言葉はつづみの涙そのものだ。


 「なにを壊してもみずはは涼しい顔をしてた。こうやってひどいことをしても、理不尽なことをさせても、絶対に芯が折れない。どうして、みずははなにも持たずにいられるの?」


――思い返せば、持ち物を壊されることは頻繁にあった。


 最初のうちは教科書が数ページ破り取られていたり、プリントがなくなっていたりする程度だった。しかし、時間と共に行為はエスカレートして、最近では体操服がハサミで切り刻まれていることすらあった。

 イジメのつもりなら見せしめにすればいいのに、わたしのものはいつもひそやかに壊されていた。わたし以外の誰にも気づかれないよう、まるでわたしだけに向けたメッセージのように。


 自分以外の誰にも見えない嫌がらせなんて、あってもなくても変わらない。不運な事故のようなものなのだ。そうやって自分に言い聞かせ、辛くないふりをした。その虚勢はたぶん、周りからは真実のように映っただろう。もしかしたら、わたし自身すら騙せていたのかもしれない。


 わたしたちはちいさな傷に気付きにくい。存在に気付けないから、痛みにも気付かない。けれど、そんな傷も数が多くなれば無視はできなくなる。無数のちいさな傷が、少しずつ、少しずつ、痛むのだ。


 もう自分を騙していくのは限界だったけれど、まだ外面には隠し通せているらしかった。


 「私は持ち物を失くすのがすごく怖い。持ってるものは壊されたくないし、失くしたくないのよ。誰だってそうなんだって思ってたの。だから……根元から価値感の違うみずはが本当に怖かった。それこそ、私と同じ人間だとは思えないくらいに」


 子供のころからずっと、『ひとつきり』にこだわり続けたつづみ。その彼女が自分の持ち物に強く入れ込み、持ち物への執着が薄いわたしの異常さに恐怖心を抱いたのは当然の帰結だ。


 「怖かったけれど、それでも、みずはが私と同じ人間だって確かめたかった」


 すっ、と。つづみが息を吸う音が聞こえた。


 「みずはのことが好きだったから」


 吸った息の百分の一もない、そよ風のようにささやかな声。けれど、その言葉と共につづみの震えは消え去り、わたしの身体を強く抱きしめていた腕も力を失って垂れ下がる。

 わたしが信仰し続けた女神。なにも持たない孤高の少女。そんなつづみの幻が、吐息とともに空気に溶けて消えていった。


 「最後の最後まで期待はしてたの。みずはがチョコレートを捨てなかったら、私にチョコレートを渡そうとしなかったら、みずはも私以外に執着するんだって確かめられた。でも、結局、みずはは神様だったのよ。どれだけ傷つけても、どれだけ奪っても、絶対に折れない強い人。失望した? みずはが尊敬してた私は、こんなに弱かったのよ。あなたには、すこしも、届かないくらい」


 結局、わたしは自分で作った幻の中にいただけだった。目に見えるつづみの姿だけを見て、勝手に盲信して。つづみの心の在り方は見ようともしなかったのだ。

 そうやって、わたしはひとりで恋をしていた。ひとりで抱く恋心もある。けれど、ふたりの恋心にならない限り、恋の蕾はどれだけ膨らんでも花咲くことがない。


 「違うよ」


 今にも砂のように崩れ落ちてしまいそうなつづみの肩をしっかりと握り、わたしはつづみから身体を離す。ようやく見ることができたつづみの顔は、なにもかも諦めた空虚な微笑みを浮かべ、大粒の涙を頬に滴らせていた。わたしが見ていた孤高なんて、どこにあるだろう。そこにいるのは寂しさに震えるひとりの少女でしかない。


 「わたしが見ていたつづみは幻だったのかもしれない。わたしが勝手に理想を押し付けていたのかもしれない。でも、それはつづみだって一緒だよ」


 つづみの手を握ると、冷え切っているはずのわたしよりもずっと冷たい。今ならわかる。つづみの冷たさは冷徹さではなく、怯えなのだ。恐怖は冷たさによく似ている。

 その手をあたためるように強く握りしめ、わたしの頬に触れさせた。わたしの手も頬もとっくに冷え切っているから、つづみをあたためてあげることはできない。


 けれど、わたしの頬にはなにより熱いものが流れているのだ。


 「わかる? こんなに熱い涙が流れてるんだよ。傷つけられても折れずにいられるのは、痛くないからじゃないんだよ。耐えることに慣れてるだけ。わたしだってつづみが信じてるほど強くない。わたしたちはお互いに夢を見てただけなんだよ。だから、もう一度言わせて」


 声が震えて、涙が流れて。辛うじてまっすぐつづみの瞳を見つめてはいるけれど、わたしの顔はひどい有様だと思う。だけど、それはつづみだって同じ。わたしたちは神様なんかじゃない。なにかを失くすことを恐れて涙を流す、ただの人間なのだから。


 「わたしはつづみのことが好き。臆病でも、弱くても、それでもつづみのことが好き」


 つづみは言葉ではなく、唇でわたしに答えた。

 軽く触れるだけのくちづけだったけれど、唇からお互いの身体に温かさが流れ込むのを感じた。全身が弾けそうなくらいに熱くなって、冷たい恐怖はじわじわと消えていく。甘い余韻に浸りながら唇を離したとき、わたしたちの間には恐怖も怯えも、ほとんど残っていなかった。

 恐怖が綺麗になくなったわけではない。どんなに恋焦がれていても、相手は他人だ。全てを理解し切ることなんてできるわけがない。相手の気持ちが理解できない怖さは、いつになっても消えないのだ。でも、理解しようとすることは無駄にならない。


 「みずはの言う通りね。私たちはずっとお互いを見てなかった……でも、これからは違う。もう一度、恋をしましょう? 本当の私と、本当のあなたで」


 わたしはその言葉に答えて、つづみを強く抱きしめた。わたしとつづみの距離が、少しでも近くなるように。強く、強く抱きしめた。


――今日、ここでひとりきりの恋は終わった。


 幻を信じて自分の気持ちをあたため続けるだけの恋。報われないけれど、ひとりでに壊れることもない片思い。それがどんなに優しいかは身に染みて知っている。名残惜しくないと言えば嘘になる。それでも、別れなくてはならないのだ。


 これからわたしたちが追う恋は、ふたりの気持ちでつくる恋。すれ違いもあるかもしれない。壊れてしまうかもしれない。ひとりきりの恋のように、自分が作った台本通りに事は運ばない。


 けれど、ふたりの恋には花が咲く。


 その花を見るために、わたしたちは恋をするのだ。



<了>

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花咲くよりはやく、蕾よりあとに。 北塚 @Kitatsuka

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