5-3
「はやく降りて、みずは」
髪を梳かしつけるように甘く、そして抗いがたい声。わたしはもう、つづみの表情を見る勇気がなかった。ブレザーと靴を脱いでいる間にも、つづみはわたしを急かす。
「さあ、はやく、はやく」
わたしははしごを握り締め、片足を水につけた。ちいさな波紋が広がって、靴下に凍えるような水が染みこんでくる。これから、この水に全身を浸けるのだ。恐ろしくないわけがない。嫌でないわけがない。けれど、わたしは沈まなければならないのだ。
両足を浸けた時には、もう躊躇はほとんどなくなっていた。ただ、水に引き寄せられるように、引きずり込まれるように、そのままプールへ入る。
「ねえ、みずは。寒い? 冷たい?」
「……うん、寒い」
氷の手が全身を撫でまわすようだ。水の感触は優しいけれど、冷たさは暴力的な悪意を持ってわたしの身体を痛めつける。プールの深さは胸より少し低いくらいだが、これ以上深く浸かれば心臓が止まってしまいそうだ。
「そう、でもまだ半分だよ。はやく潜って拾ってきて?」
寒さに震える身体をかき抱きながら、わたしは決意と共に空気をいっぱいに吸い込む。
「がんばってね」
――ざぶん。
水中に沈むと、わずかに残った体温は一瞬で奪われていった。水に浸かったことで薄い化粧がどろどろと流れ落ちて、一緒に張り続けてきた虚勢も流れ落ちていく。そんな状況にあっても、わたしは自分でも意外なほど冷静だった。
恐怖と冷たさはとても似ていると思う。はじめは震えていても、度を越すと震えはなくなっていくのだ。だんだん、動けなくなっていく。
しずめのチョコレートはすぐに見つかった。けれど、どれも少しずつ距離が離れていて、わたしは息継ぎのために何度も水面に顔を出さなければいけなかった。そうして息継ぎをするたび、つづみは優しくわたしを励まし、命令する。
「あと少しよ、がんばって。さあ、さあ」
いつもなら見るだけで舞い上がるような笑顔を、今日はいくらでも見せてくれる。けれど、わたしの心は少しも弾まなかった。心には冷たい恐怖がなみなみと注がれていて、それ以外が入る隙などどこにもないのだ。
箱を拾ってはプールサイドに置き、拾っては置き、それを四度繰り返して、ようやくわたしはプールから這い出した。ブラウスとスカートからはぼたぼたと水滴が落ち、全身に冷たい布が張り付いて気持ちが悪い。
そうして顔をしかめているわたしの前に、満面の笑顔を湛えたつづみが立った。突然のことに虚を突かれて、わたしはしかめた顔を引っ込め損ねて、泣き出しそうな顔をつづみに向けてしまう。
その顔が、いまのわたしの本心だったのだけれど。
「おつかれさま」
つづみの温かい言葉に、恐怖で凍り付いていた身体が解け、わたしは膝から崩れ落ちた。もはや一片も残っていないと思っていた熱さが目頭に集まり、涙となって頬を伝う。
「ねえ、つづみ、わたし、わたしね……」
「待って、みずは」
思いの丈を吐き出しそうになったわたしの唇に、つづみが人差し指を当てて留める。わたしの身体の方が冷え切っているはずなのに、その手はどうしようもなく冷たかった。
「それを言う前に、チョコレートをもう一度捨てて?」
つづみは指をそのまま動かし、わたしの頬に手のひらを当てる。キスできそうなくらいに顔が近づくが、わたしは動く事もできなかった。もう心を満たしつくしたと思っていた恐怖が、まだ滾々と湧き出したのだ。
困惑よりも恐怖のほうが勝り、わたしは黙ってプールサイドのチョコレートを拾い集めた。しずめがつづみの机に入れたみっつ。そして、しずめがわたしに渡したひとつ。
「それは秋島しずめが、みずはに贈ったチョコレート。そうね?」
「ひとつは、そうだけど……残りは」
「みずはを騙すためのチョコレートなら、みずはのためのチョコレートと同じ」
つづみはわたしの言葉を断固たる口調で遮った。言葉の中の悪意を隠そうともせず、しずめのことを全て否定するように。
「認めてくれる?」
わたしはなにも言葉にできず、震えながらただ頷いた。
「じゃあ、潰して捨てて」
水を吸ってどぼどぼに膨らんだ箱を絞るように握りつぶす。しずめから直接貰った箱もしっかりと潰した。箱の色が落ちたのか、染み出す水はうっすらと赤みがかっている。
ぼとり、と鈍い音を立てて箱は沈んだ。緊張、恐怖、不安、いろいろなものが、箱と共にプールに飲まれていく。
わたしは糸の切れた人形のように、力なくつづみの方を振り向いた。
「ありがとう。みずは」
つづみは畳んであったブレザーを拾い上げ、わたしの肩にかけてくれた。さらに、その上から自分の着ていたコートも羽織らせてくれる。下に着た服が濡れているからあまり意味はない。それなのに、全身が温まるような心地がした。
「じゃあ、これ、もう一度渡してくれる?」
わたしが渡したチョコレート。つづみを手に入れるために用意した悪意のかたまり。受け取ると、さらに身体の中に熱が戻っていく。
冷え切っているはずの身体が温かくなるのはずっと不思議だったけれど、今になってようやくわたしはその熱さを理解した。
――ああ、これは恋の熱なんだ。
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