5-2
「ありがとう、みずは。だけど、これはまだ受け取れない」
つづみはわたしが差し出したチョコレートを受け取り、プールサイドに置く。
「どうして? わたし以上の友達はいないって、言ってくれたのに」
「それは本当。けれど、私はまだみずはのものになれないのよ。だって、あなたはまだ私の全てを知らないんだから」
ぞくり、と悪寒が背筋を走り、全身が縮むような感覚に襲われる。その恐怖も覚めやらぬうちに、つづみはわたしの手を取った。
「ここに立って、みずは」
導かれるままに、わたしはプールサイドの淵に立つ。先ほどまでとは場所も立場もまるで逆転してしまっていた。
あと一歩、後ろへ退けばプールの中へ落ちてしまうだろう。つづみが両手で包んでいる私の左手を離し、軽く押すだけでいい。それだけでわたしは拒絶されてしまうのだ。
わたしがプールに沈めた、しずめのチョコレートのように。
「私が聞きたいことはひとつだけ。それを教えてくれたら、代わりに私の全部を教えてあげる」
そう言って、つづみはより一層強くわたしの手を握った。心の奥底で恐怖と不安がとぐろを巻き始める。
「秋島しずめとなにがあったの?」
ごまかしても無駄だろう。それなら、できるだけ誠実に、率直に、真実を伝えるしかない。
「秋島さんに好きだって言われたの。もちろん、わたしは応えられないって言ったけど、秋島さんは今だけでも受け容れてほしい、って」
「それで、キスしたの?」
「してないっ!」
心臓が爆発したみたいに、全身を熱い血が駆け巡った。わたしは熱くなった頭を落ち着けようと、大きくひとつ深呼吸をして、もう一度言い直した。
「してないよ。確かに、秋島さんに脅されてキスしようとしたけど、絶対に、してないから……」
「どうして脅されたの?」
「それは……チョコレートをプールに捨てたところを、写真に撮られたから」
わたしがチョコレートと口にした瞬間、つづみの口がにたりと歪んだ。あの、嗜虐的な形に。
「誰から誰へのチョコレートを、みずはが捨てたの?」
――ああ、つづみはとっくにわかっていたんだ。
わたしがしたことも、しずめの思惑も。全てわかった上で、わたしにもう一度喋らせようとしているのだ。そのつづみの悪意を、わたしは真正面から受け止めるしかない。逃げ道なんてとうに潰されているのだから。
「秋島さんがつづみの机に入れたチョコレートを、わたしが捨てたの」
そう、と笑ってつづみは片手で軽くわたしの身体を押した。突き落とすほどの強さではなかったけれど、わたしの体はほんの少し斜めに傾いだ。もしも、つづみが握っているもう片方の手を離せば、わたしはこのまま凍えるような冬のプールへと落ちる。
「前に、私が貰った手鏡が割られていたことがあったよね。見てはいないけど、あれもみずはがやったんでしょう?」
「……ごめん。でも、つづみに誰かが近づくのが許せなくて」
「いいの、それには怒ってないから。むしろ嬉しいくらい」
そんな言葉とは裏腹に、わたしの手にはぎりぎりとつづみの爪が食い込んでいる。表情には微塵も見せないが、こうして踏みとどまることで、ひざには激痛が走っているはずだ。それでも、つづみは手を離さない。
「けど、ひとつだけ納得がいかないの。だから、お願いしてもいい?」
「いいよ。なんだって聞く」
わたしの言葉に笑みを深めると、つづみは勢いをつけてわたしを引き戻す。よろめき倒れそうになるわたしをつづみは抱きとめて、耳元で可愛らしくささやいた。
「秋島しずめのチョコレート、拾ってきてちょうだい」
「拾って、って……今はプールの底に」
「だから、みずはが潜るの」
つづみは力強くわたしを抱きしめて、余韻も覚めぬ内にふわりと離れた。もう、彼女の表情に優しい微笑みはない。穏やかだけれど、見下すような表情。
――こわい。
この視線を受けているのがこわい。
つづみの思いを裏切るのがこわい。
彼女から向けられる静かな悪意が、こわい。
恐怖に突き動かされたわたしは、急いでプールサイドのはしごに手を掛けた。下を見れば、冷たい水面に青ざめたわたしの顔が映っている。
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