3-3
わたしは反射的にしずめを押しのけ、枯れかけた声で叫んだ。
「……つづみっ!」
ありったけの力を込めたつもりなのに、声が少しも前へ行かない。空気の擦れる音が口から漏れるだけだ。
つづみは冷静と無気力の入り混じった視線でわたしを貫き、やがて踵を返して歩き始めた。歩調は早いが駆け足には程遠い、どれほど早くこの場を離れようとしても、つづみの足ではあれが限界なのだ。
走れば簡単に追いつけるけれど、わたしは追いかけなかった。追いかけて、追いついて、そしてつづみがこちらを振り返ったとして、わたしはどうすればいい。かける言葉も、見せる顔だってありはしない。
つづみの瞳はまるで、つまらない景色を眺めるように冷静で無感情だった。もう一度あの視線を向けられて耐えられる気はしない。
「あはは、はは、残念だったね、みずは」
しずめは喜びに満ちた表情のままだったが、その喜びの根は悪徳へとすり替わっていた。
「終わりだよ、なにもかも。もう立灘はみずはの方を振り返らないんだ。だから……」
「だからなんなの。つづみに見捨てられても、わたしが秋島さんになびくことなんてない。思い上がらないで」
しずめはわたしの冷たい口調よりも、苗字で呼んだことにひどく傷ついたようだった。しずめの表情に血の気のない干上がった絶望が広がっていく。
「受け止めても、くれないんだ?」
今度こそ、わたしは迷わずに頷いた。しずめへの敵意に任せて拒絶したわけではない。ただ、誠意を見せようと思ったのだ。
「……秋島さんの気持ちを踏みにじることだっていうのはわかってる。でも、わたしは自分の恋のためなら、なんだって犠牲にするつもりなの。だから、謝らないよ」
「あはは、みずはらしい。あたし、みずはのそういうとこが好きだよ。自分の世界のために、なにもかも壊しそうなとこ。立灘の机に入れたチョコだって、絶対に始末すると思ってた」
「あれ、秋島さんが入れたのね」
しずめは臆面もなく、にこりと笑って頷いた。わたしも驚きはしない。写真を撮られた時から、そんな気はしていたから。
「ま、立灘が来るとは思ってなかったけど……ねえ、ひとつだけ聞きたいんだけど、どうしてあたしじゃだめなの?」
誰かを嫌う理由なんて、いくらでも作ることができる。容姿、性格、思想。他人と自分に合わないものがあるのは当然で、それを嫌うのも自然な事だ。
けれど、好きになれない理由は、嫌う理由とは違う。
わたしがしずめを好きになれない理由は、どうしようもない。いま話したところで、しずめにできることはなにもないのだ。話したところで傷つけて終わるだけ。
それでも、わたしは話そうと思った。他でもない自分自身のために、エゴの毒を塗った刃でしずめを刺すのだ。自らの意志を確認するため、そしてしずめと決別するために。
「秋島さんは、どうしてわたしのことが好きになったの」
「ほら、後輩の女子が立灘に手鏡をプレゼントしたことがあったでしょ? あのときから好きになったんだ」
――覚えている。
わたしはあの時も、つづみの机から手鏡を盗み出し、そして。
「放課後遅くまで残って、後輩の教室に忍び込んで割ったでしょ。その子の机の上で。あたしは偶然それを見ちゃったんだよ。はっきり言って異常だった。だけど、そういう狂ったみずはのことが好きなんだ」
しずめがそこまで知っていたのにはさすがに驚いた。それだけの材料があれば、今日までにいくらでもわたしを脅せたはずなのに。バレンタインデーという日を選んだのは、裏口からでもフェアな告白にしたかったからだろうか。それとも、わたしがつづみに告白すると踏んだ上で、感情を根こそぎ略奪しようとしたのだろうか。
どちらにせよ、等身大の女の子らしい、きらきらと歪んだ気持ちだ。
「好き、じゃなくて憧れてるって言ってもいいかもしれない。あたしは、みずはのことを見ていたいんだ。噛み殺されそうなほど近いところで」
しずめは正面から気持ちをぶつけてくれた。わたしも、この歪みきった感情をしずめにぶつけて応えよう。
「秋島さん、わたしはそういうのが本当の恋だと思わないの。近くにいたいだけの恋心なんて軽すぎる。相手のなにもかもを自分のものにして、殺してしまうくらいに恋してこそ、本物だよ」
こんな恋心は重すぎるのかもしれない。けれど、恋心は決して軽いものであってはいけない。
悪意に根ざしてこそ、本当の恋なのだ。
「だから、秋島さんじゃだめ」
しずめは大きくひとつ深呼吸をして、『友達』の笑みを見せる。わたしの恋がしずめの恋を燃やしたのだ。そうして、灰のような友情だけが後に残った。
「……わかった。ちゃんと向き合ってくれてありがとう、松雨さん」
予鈴が鳴り響き、しずめはそれ以上なにも言わずに校舎へ戻っていった。わたしはしずめの背中が見えなくなるまで見送ってから、渡された小箱をプールに沈めることにした。
他の箱のように握りつぶしはせず、波紋も立てないように箱を沈める。ゆっくり、ゆっくり、箱は水底へと沈んでいく。
まるで、水葬される死者のように。
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