3-1

 昼休み、わたしは盗んだチョコレートが入った鞄を持って教室から逃げ出した。


 やって来たのは周囲を壁に囲まれたプール。校舎からは死角になっているし、こんな時期にここを通りがかる人がいるとも思えない。ここにいるのはわたしひとりだけで、他には誰の目も届かない。

 明るい春を前にした冬は、とても暗い季節だ。漂う冷気は我先にとわたしの身体に入り込み、全身から体温を奪っていく。頭上を覆うのは光の差す間もない灰色の空。その鬱屈とした色が水面に映り込み、上下からわたしを圧し潰そうとする。罪と恐れがわたしに迫ってくるのだ。けれど、ここまで来て引き返すわけにもいかない。


 わたしは鞄からチョコレートの箱を取り出した。市販のチョコレートに、可愛らしいピンクのリボンがかけられている。これを作った女の子はさぞ可愛らしいことだろう。どんな人にも愛されるのが当たり前。他人へと振り向けた愛情は、何倍にもなって返ってくる。そんな幸福な少女を幻視したわたしは、ありったけの力を込めて箱を握りつぶした。

 くしゃり、と乾いた音を立てて、丈夫な箱がひしゃげる。ピンクのリボンがゆるんでわたしの手のひらから滑り落ちた。幸福な少女を思い浮かべただけで、良心の呵責は洗い流されていた。そんな女が神に頼る必要はない。

 わたしは不幸だから女神を求めているのだ。

 みしり、ぐしゃり、残りのふたつの箱も握りつぶしたわたしは、鳩にエサをやるように、みっつの箱をプールにばら撒いた。矢のようになだらかな放物線を描いて、みっつの箱がばらばらに飛び散り、水面にぶつかる。


――パシャリ。


 瞬間。明らかに水音とは違う電子音が、背後からわたしを刺す。わたしは振り向く事もできず、ただただプールに広がる波紋を眺めていた。


 「みずはって、こういうことを平気でする子だったんだぁ」


 波紋が消えて、わたしの心臓の拍動も止まる。


 「どうして、こんなところに」


 口内がカラカラに乾いて、冷や汗が背中を伝った。幻聴であってほしいと祈りながら、わたしは背後を振り向く。


 「聞かなくてもわかるんじゃない? 尾けて来たんだよ」


 いつもと違い、絡みつくように馴れ馴れしい態度の秋島しずめが、粘着質の笑みを浮かべていた。その手には携帯電話が握られていて、考えるまでもなく、さっきの電子音の正体がわかってしまう。

 どうして、どうして。疑問符ばかりが頭に浮かび、しかし焦りと恐怖が考える余裕をわたしから奪い去っていく。


 「クラスメイトへのチョコを盗み出して、その上プールにポイか。ひどいよなあ、みずは」

 「……ずっと、見てたの?」

 「ああ、見てたよ。教室に携帯を隠して動画も撮ってた。ほんと、思った通りに動いてくれたよ、みずはは」

 「馴れ馴れしく名前で呼ばないで。一体なにがしたいの」


 ぎり、と奥歯を強く噛みあわせる。わたしのことを名前で呼んでいいのはつづみだけ。こんな傲慢な女にその資格はないのだ。

 わたしが敵意をむき出しにしているというのに、しずめは余裕に満ちてねばねばした微笑を崩さなかった。


 「そんなに警戒しないで欲しいな。なにもみずはを潰したいわけじゃない。あたしのお願いを聞いてくれればそれでいいんだ」


 まず、と言いながらしずめはこちらへ歩いてくる。わたしは思わず後ずさりそうになったが、背後は冷たい冬のプール。逃げる事すらままならない。

 手の届く距離までやってきたしずめは、ひときわ意地の悪そうな微笑を見せて、わたしに小箱を突き出した。


 「ハッピーバレンタイン、みずは」


 固まりかけの血のように赤いリボンで飾られた、宝石箱のように高貴な雰囲気の小箱。しずめの言葉と併せて考えれば、おそらく中身はチョコレートなのだろう。


 「どうして」

 「理由はいいから。みずははこれを受け取るしかないんだ。さっきの写真、ばら撒かれたくないでしょ?」


 お願いではなく、命令なのだと言いたいんだろう。わたしは仕方なくその小箱を受け取った。教室でしずめが口にした、『ひとつだけ』という言葉が蘇る。手のひらにおさまるほどの箱なのに、ずっしりと重く感じるのは錯覚だろうか。


 「受け取るだけでいいの?」

 「ああ、あとふたつだけ、お願いがあるんだ。それさえ聞いてくれれば動画も写真も消すから」


 注文の多い女だ、と心の中で悪態を吐きながらも、表面上は極めて従順に頷いた。逆らう事さえしなければ大丈夫。しずめの感情は独占欲ではなく、きっと支配欲なのだ。しずめがわたしに恋しているわけがないのだから。

 そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、しずめは急に真剣な様子になった。燃えるような獣の瞳はどこかへ消え、代わりに絞首台を前にした罪人のような絶望と諦観、そして雀の涙ほどの恐怖を含んだ視線で、わたしをじっと見つめてくるのだ。


 「みずは。その鞄の中にあるチョコが欲しいんだ」

 「なにを言ってるのかわからないよ。わたし、秋島さんにはちゃんとチョコを……」

 「立灘のためのチョコがあるんでしょ。あたしはそれが欲しい。他のチョコを用意するなんて言わないでよ。あたしは、みずはが立灘のために作ったチョコが欲しいんだから」


 しずめはわたしの恋情を知っていて、それを奪って壊そうとしているのだ。

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