2-1

 体育の前の休み時間。相変わらず義理もないチョコレートの配布に勤しんでいたわたしを、ボーイッシュな短髪の少女がからかった。


 「松雨さんさあ、すごく律儀だよなあ」


 彼女は秋島しずめ。無個性な『友達』として括るには、少し尖りすぎた少女だ。しずめは先導者であり、扇動者だった。損得と好悪が入り乱れる女子のネットワークを纏め上げ、ひとつの方向性を持たせることに長けていたのだ。コミュニティに溶け込んで消えるわたしや、孤立を選ぶつづみとは対照的な人間。


 「そんなことないよ。友チョコなんて当たり前でしょ?」

 「だけどさ、みんなの分をしっかり準備してきてるじゃん。偉いと思うよ」


 しずめの『みんな』に、つづみは含まれていない。しずめはつづみをひどく毛嫌いしているのだ。今も皮肉っぽいアクセントを堂々と混ぜていた。

 人を動かそうとするしずめにとって、てこでも動かないつづみは目障りなのだろう、とわたしは勝手に理解している。逆に、わたしのように日和見がちな人間は好ましいと思っているんじゃないだろうか。


 「秋島さんはチョコ、作ってきてないの?」


 わたしの問いはほとんど皮肉を返したものだ。しずめが誰かのためにチョコレートを用意してきているわけがない。清廉な女神であるつづみと違って、しずめは傲岸不遜な国王だ。チョコレートなんて、献上されるのが当たり前。愚かな民草に施してやるつもりなんて毛頭ないのだ。

 とはいえ、堂々とそれを口にするのはしずめと言えど憚られるだろう。そう考えた上での意地悪だったのだが、しずめは事も無げに鼻を鳴らし、にたりと口の端を吊り上げて見せた。


 「あたしはひとつだけだよ。たったひとつだけ」

 「……へえ、誰に渡すの?」


 知らぬ間に、教室に残っている生徒はわたしとしずめだけになっていた。爛々と輝く獣の瞳に見据えられて、わたしはたじろいだ。誰もいない教室では、どこかに視線を逃がすわけにも行かない。


 「立灘に渡すって言ったら、どうする?」


 ぞわっ、と生きた悪寒がわたしの中を掻き乱していった。しずめがつづみにチョコレートを渡す? そんなこと、あるわけがない。絶対にない。あってはいけない。


 「べつに、どうもしないよ」


 へえ、と笑いながら呟いて、しずめはわたしの瞳を覗き込んでくる。揺れてはいないはずだ。どれだけ心が揺れていても、そんな素振りを見せるわけにはいかない。

 恋する人以外になにかを知られるのは、とても危険なことだ。


 「まあ、冗談だけどさ。なにがあってもあいつにだけは渡したくないな」


 しずめは、わたしがつづみに対して抱いている気持ちを知っているんだろうか。それとも、本当につづみのことが好きになってしまったんだろうか。


 「にしても、立灘も人気者だよなあ」


 鎖のような視線をわたしから外し、しずめはつかつかとつづみの席へ歩み寄っていく。つづみはいないから、その席はもちろん空席だ。


 「机の中に、もう三個もチョコが入ってる」 

 「あんまり人のことを詮索するのはよくないよ」

 「はは、松雨さんは本当に優等生だよなあ。じゃ、あたしはもう行くから。松雨さんも遅れないようにな」


 かつ、かつ。しずめが遠ざかっていく足音のひとつひとつが、オーケストラの最後のシンバルみたいに響いて聞こえる。長い、長い、長い。

 扉が閉まるや否や、わたしは走り出していた。誰の目もないとはいえ、わたしは自分を全く取り繕えなかった。不覚だ。動揺はわたしの弱い心をむき出しにする。


――確かに、つづみの机の中にはみっつのチョコレートの箱があった。


 焦りが心臓と肺を殴るように揺らし、指先が震える。わたしは恐怖と混乱の渦にさいなまれつつ、なんとかチョコレートを机の中から取り出した。

 どれも丁寧にラッピングされた有名ブランドのチョコレートだ。どれだけ楽観的に考えても、ただの義理チョコだとは思えない。

 幸か不幸か、つづみが直接箱を渡されている場面は見ていないから、箱を開けない限りは贈り主が誰かはわからないだろう。運がよければ、チョコレートが机の中にあること自体に気づいていないかもしれない。

 そう考えた途端、粘つく悪意がわたしの身体を伝ったのだ。


――今のうちに捨ててしまえば、なにも問題はないんじゃないだろうか?

 倫理的には許されることじゃない。でも、だけど、わたしのつづみを奪う権利なんて、誰にもあるはずがないのだ。

 わたしは一瞬の躊躇を経て、チョコレートを全て自分の鞄に押し込んだ。思ったよりも罪悪感はなく、つづみを失わずに済んだという安心が、じわりじわりと心に染み込んでいた。

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