第5話覚悟 2

 翌日、午前中に順子はやってきた。

「徹君は?」

順子は当たりを見回すと、衛に彼の高校生の弟の所在を聞いた。

「今日は学校の友達とプールに行ったよ」

「そう」

順子は安堵の笑みを浮かべた。誰にも聞かれたくない話――覚悟して聞かねばならないと、衛はごくりと唾を呑み込んだ。


「衛君の気持ちが聞きたくて。衛君はヒロが好き?」

「へっ、えっ、何それ、あの……」

しかし、続いて順子はいきなり博美への気持ちを聞いてきたので、衛は慌てた。

「本気でヒロのこと、考えてくれるんじゃないなら、これ以上ヒロの前に現れないでほしいと思って。言っとくけどあの病気は完治してるわよ」

あの病気でないのなら、また新たな病気があるのか。それなら、なぜ博美ばかりがそんな目に遭わねばならないのだろう……衛はそう思った。

「じゃぁ、昨日のは……」

「過呼吸。浅い呼吸を繰り返すことで、体の中の二酸化炭素の濃度が下がってしまう症状なの。当の本人は息ができないと感じるから、焦って余計に呼吸しなきゃって思ってしまうの。放っておいての15分もすれば落ち着いてくるけど、紙袋なんかで自分が出した二酸化炭素をもう一度吸わせて濃度を上げるほうが回復は早いの。『鼻を摘まんでキスしてくれても良い』って言ったのもふざけて言ったんじゃないのよ。そしたらヒロの心拍数も上がって、積極的に衛君の二酸化炭素取り込んでくれそうだし。そっちに気が向けば息ができないってこと自体を忘れちゃいそうじゃない?」

息ができないことを忘れたら逆に危ないんじゃねぇの? そう疑問に思った衛に、順子はつづけた。

「だって、過呼吸は何か病気があって出るんじゃなくてあの子の心が作り出しているんだもの」

そう言って、順子は深くため息をついた。

「確かに、成人できないって言われ続けて生きてきたあの子の気持は私たちには計り知れないわ。短い人生を悔いなく生きよう。そうやってヒロはずっと頑張ってきた。たぶん、あの子の中では、人生は20年で完結していたんだと思う。

だけど、奇跡は起こった。私たちもそれを信じて祈ってきたし、ヒロ自身もきっとそれを祈ってもいたと思うの。

だけど、実際にその奇跡が自分のものとなった時、心は付いていかなかったの。それで21歳の誕生日前後から、ときどき過呼吸になるようになったの。燃え尽きてしまったって言えば良いのかな。」

「そんなの、良いわけないだろっ!!」

「そうよ、良いわけない。ヒロの人生はまだまだ続くのよ、だから」

「だから?」

「私は衛君にヒロのパートナーになって欲しいの。あなたにずっとヒロが必要だと、言い続けてやってほしいの」

そういうと、順子は寺内家のリビングの床に正座して、

「ヒロは衛君のことが好きなの。お願い、あの子との結婚、考えてみてくれないかしら」

と頭を下げたのだった。


「ねぇ、ヒロに生きてる実感味合わせてやってほしいの。このままだと、あの子生きているのに心だけ天国にいる気がする」

心だけ天国だなんて大げさなと衛は思ったが、順子はこう続けた。

「ヒロ、この間なんて言ったと思う? 『私は今、与生を生きてる』よ。『余ってるんじゃなくて与えられてるんだ』とは言ってたけど、新成人の言う事じゃないでしょ?」

博美の『与生』発言はちらっと衛も聞いたことがあった。しかし博美はいかにも楽しそうな口調でそう言ったので、そんなもんかなと特に気にとめてはいなかったのだ。そう思って改めて考えると若さの欠片もない発言だ。


「衛君にその気がないのなら、教団のなかで急いで捜すつもりだから。時間がないの。私、来年大阪に行く予定なの」

 

 順子はつい先日、自分の信仰する教団の牧師との結婚を決めた。


 信者は様々な相談を牧師に持ちかけるが、若い女性には男性である牧師には打ち明けにくいといった問題もあったりする。

 例えば恋の悩みなどはその最たる例だろう。そういう場合、牧師の妻がそれを代わりに聞くことが多い。この場合、若い方が相手の女性信者は心を開いて相談してくれる。

 だから、彼女のいないまま献身してしまった若い牧師は年配の牧師から『結婚していなければ伝道は続かない』と、在学中に見合いを勧められたりすることがその教団では多かった。

 順子たちの場合、教団の若者向け集会で知り合った所謂恋愛結婚の部類なのだが、結婚したい旨を相手の牧師と共に彼女の所属する教会の牧師に告げた時、

『牧師の婚約者となれば、より牧師の同労者として深く実践的な教理を学ぶのが望ましい』

と真っ先に大学に入る事を勧められたのだ。

 もちろん、それに対して双方とも信者である両親の反対はなかった。

 かくして、順子は交際相手の地元でもある大阪のある大学を受けることになった。事情が事情であるし、親の代からの熱心な信者ともなれば、まず不合格になることはないだろう。


「未だ大学生の衛君にこんな事言っても迷惑かも知れない。でも私はヒロに命ある限り“生きて”ほしいの。でなきゃ、あの子が命を与えられた本当の意味がなくなると思うから」


 順子のそんな申し出に衛は即答することはできなかった。

「ゴメン、順子姉ちゃんちょっと考えさせてもらっていいかな」

「うん、即答なんてしてもらおうと思ってないから。じゃぁ、帰るね」


 順子を玄関で見送ると、衛は台所に入り、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して大きめのコップに注ぎ、一気に呷った。

……コツン……

飲み終わったコップを模造大理石の調理台に置いた時、衛の手はかすかに震えていた。






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